#02『Pearl パール』タイ・ウェスト 監督(1)
(日本公開2023年)
【勃つ男がいないイエで、セックスシンボルになりたいオンナ(第1話/全5話)】
タイ・ウェスト監督/ミア・ゴス主演の「スラッシャー映画」シリーズ、『X エックス』『Pearl パール』『MaXXXine マキシーン』。3部作の2作目にあたるのが本作だ。
そもそも「スラッシャー映画」とは、どんなジャンルなのか?
それは、マスクや覆面のサイコパス、あるいは正体不明の殺人鬼が、若者グループをナイフや斧やチェーンソーなどの道具を使って、次々と殺害していくホラー映画のことだ。
主役級のエロそうな金髪ギャルが、男とセックスしていたら、バカでキモい殺人鬼(=セックスできない男)に追い回され惨殺された。セックス! 殺人鬼! 斧! チェーンソー! 悲鳴! 殺人! 死体損壊! 首チョンパ! 鮮血! ・・・の繰り返し! 生き残り朝をむかえられるのは、たったひとりだけ。「ホラー映画」で生き残るオンナノコはファイナル・ガールと呼ばれる。
ファイナル・ガールは、オッパイと悲鳴だけのチャラいギャルではない。殺されるオンナより見た目でちょっと劣るけど、酒やドラッグをやるような不良じゃないし、ガジェットに詳しいし、用心深いし、バカじゃないし、身持ちも堅い。
主たる観客である童貞(あるいは精神的に童貞)である男たちは、まるで自分みたいなファイナル・ガールに同一視する。生き残る「彼女」をヒロインではなくヒーローのように観るという構造をもつのが、スラッシャー映画というジャンルの特性である。
殺人鬼は大変女々しく、生き残るファイナル・ガールは大変雄々しい。それがスラッシャー映画のステレオタイプだった。映画が始まった時点では「か弱そう」だったオンナノコは、殺人鬼と対峙しながらしだいに「男らしく」なり、チンコの象徴である武器を殺人鬼から奪うこと=去勢することで、秩序を回復する物語だ。象徴的な意味で、オンナノコは精神にチンコを生やすことで闇の世界をサバイヴし、殺人鬼の男は去勢されることによって無力化するのが定番である。
そう指摘したのは、『男と女とチェーンソー ー現代ホラー映画のジェンダー(原題 Men, Women, and Chain Saws: Gender in the Modern Horror Film)』の著者、キャロル・J・クローヴァーだ。
この本によると、ホラー映画の底辺に位置するジャンルが「スラッシャー映画」である。それはまるで「ポルノみたいな」映画なので、お偉いセンセやまともな親が眉をしかめるジャンルなのだ、と。
『Pearl パール』の前作にあたる『X エックス』は、ポルノみたいなジャンルであるスラッシャー映画の犠牲者たちを、「ポルノ映画の撮影にきた3組のカップル」として描いた。ジャンルの特性を分析し、嘲笑われる要素を構造に取り込んだのだ。実にクレバーな批評精神である。
「スラッシャー映画」は、セックスする若くてチャラいオンナを殺人鬼が覗き見し、まるでいたぶるように殺す。若い観客に対して「オンナノコは結婚するまでバージンでいましょう、尻軽はバッドガールだからひどい目にあうんですよ」という保守的なキリスト教の説教譚としても機能していたからだ。よって、ファイナル・ガールのステレオタイプは「セックスしない」オンナノコだった。
しかし『X エックス』のファイナル・ガール=マキシーン(ミア・ゴス)はセックスまみれだ。彼女は、今こそポルノ女優でなりあがらんとする、野心満々のオンナである。仕事としても快楽としても、愛のないファックをやりまくり、生き残る。しかも彼女はコカインをキメる。ドラッグをやらないグッドガールではない。
成人向けコンテンツのなかでも最高レベルに暴力的な内容(=ハードコアポルノ)を示唆する俗語「XXX(トリプルエックス)」が名前に込められている「マキシーン(MaXXXine)」という名のオンナを生き残らせたことは、殺されるか殺されないかに、セックスの回数や欲望の強弱は関係ない、という表明である。観客にセックスで決して説教しないという姿勢を示したのだ。
『X エックス』のタイトル「X」とは、正体不明の要素であり、未知の可能性の象徴であると同時に、「バツ」印でもある。「間違い」には、「罰」が与えられるものだ。しかし『X エックス』から始まるシリーズで、罰が与えられるのは、古くさい価値観の男が憎む「尻軽オンナ」に対してではない。罰せられるのは、そうゆう「女性蔑視的な視線」の方なのだ。
『X エックス』は「まるでポルノみたい」と揶揄され見下されてきた「スラッシャー映画」を使って、「ポルノの何が悪い」とビッチが「見返す」映画なのだ。これぞフェミニズムである。マキシーンは、男にまたがりセックスをしていた。正常位やバッグでファックされるオンナは殺され、騎乗位でファックするオンナは生き残る。絵として「女性上位」を見せつけた映画作品である。
よって、『X エックス』からはじまるシリーズ3部作に、呼び込まれた未知の可能性「X」とは、「フェミニズム」なのだ。このホラーシリーズは、ジャンル映画に内包される男性中心主義的な要素を分析し、フェミニズムを物語の構造やキャラクター設計に取り込むことで「型」を解体する、「型破り」なシリーズである。
タイ・ウェストという屈指のシネフィルと、ハダカになることを厭わぬ労働をしてきた女優ミア・ゴスはフェミニズムを使って、スラッシャー映画のステレオタイプをことごとく破壊しアップデートしていく。それがこの3部作の醍醐味であると、わたしは考える。
本シリーズが、過去のスラッシャー作品を引用するのは、ハリウッドを頂点とする映画産業が映してきた「白人男性中心主義」的な価値観に、異を唱えるためでもある。ルックや演出ではリスペクトを捧げながら、意味を変えて嘲笑っていく。それは大変パンクな姿勢である。ジャンルを解体したジャンル映画を創ることで、過去の作品に内包される女性蔑視的な男視線や、労働現場にあった「間違い」に「罰」を与えてもいくのだ。
『X エックス』に引用された過去の映画作品は、1974年公開のホラー映画の金字塔『悪魔のいけにえ』だ。テキサスが舞台というのも同じだし、ルックも非常に似せている。
『悪魔のいけにえ』で語られるのは「セックス」と「親」の話だ。殺人鬼レザーフェイスは、「セックスできないキモい男」で、実家に住んでいる。田舎者で馬鹿な彼は、抱けない高嶺の花である「若くてきれいな」オンナノコを肉として吊るす。
レザーフェイスは、スラッシャー映画における殺人鬼のステレオタイプ「セックスから閉め出され、他者と交流不可能な独身の田舎者」を体現する存在だ。スラッシャー映画は、「尻軽オンナ」を侮蔑し罰を与えるように殺すと同時に、「性的に不能な男」を異常者として見下す特性をもつ。
本シリーズは、ファイナル・ガールだけでなく、殺人鬼側の定型も破壊する。
例えば『X エックス』の殺人鬼は、「セックスから遠ざかっている老夫婦」だ。彼らは作品の後半で、愛に溢れたセックスをする。心臓がヤバいから勃起を抑制してきた老いた男は、妻の要望に応えていのちがけでセックスする。性的に不能な男も、老いたオンナの性的な欲望も、決して見下されない。「他人のセックスに意見するな」という主張が貫かれているのが、このシリーズの特徴だ。
そのうえで、男はオンナと連帯できる相手である。殺す側にも殺される側にも、話が通じる異性がいる。男女は、コミュニケーションできない相手ではない。
コミュニケーションの断絶は、世代の違い、信じるカルチャーの違いによってひきおこされている。既存の価値観や社会体制に逆らってでも主体的に自由に生きていこうとするワカモノと、抑圧された青春時代を送るしかなかった、かつてのワカモノの間の対立を、「恐怖(ホラー)」として見せていく。
それは、信仰に基づいて厳格に、禁欲的に、質素に暮らしていこうとする頑固者たちと、酒やドラッグをやり、音楽やダンスに溺れ、共同生活を実践し、自由に開放的に享楽を謳歌したい快楽主義者たちの対立である。お互いに決して譲り合わないから、殺し合いになるのだ。それは「全体」のために生きるか、「個」の欲望を生きるかという思想の違いだ。このシリーズにおける主役は常に「後者」であるが、立場は被害者と加害者の間で揺らぐ。
本作『Pearl パール』は、『X エックス』のファイナル・ガール=マキシーンを殺そうとした老婆・パールのワカモノ時代を描く1918年が舞台の話である。
『悪魔のいけにえ』で語られる「セックス」という要素を引用し、解体したのが『X エックス』だと言うなら、『Pearl パール』で語られる『悪魔のいけにえ』は「親の話」だ。
パールが刃向かう相手は、オンナたちをイエに閉じ込め貞操を強いてきた社会や宗教だ。過去の名作をオンナの姿で加害しながら引用することで、女性に対して男の都合で「娼婦になれ」「処女になれ」「母になれ」と強要し、「勃たない男を嘲笑ってきた」映画業界、つまりマチズモ的な権力を嘲笑っていく。
なぜパールが闘わねばならない「恐怖」が、男性中心主義的な映画産業なのか。それは、このシリーズが「#MeToo」「タイムズ・アップ」以降のホラー映画だからだ。
2017年、ハリウッドの大物映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインによる長年にわたる性暴力を、ニューヨーク・タイムズ紙の女性記者たちが暴いた。同年10月、女優のアリッサ・ミラノが、性的暴行の被害者に連帯を示すために「わたしも(MeToo)」というハッシュタグをつけて被害を公表するよう求め、オンライン上で#MeToo運動がおきた。
2018年1月には、ハリウッドの業界人たちの多くがこの流れに賛同を示し、「セクハラや性的虐待を見て見ぬ振りをするのは終わり」にする「タイムズ・アップ」運動が起きた。
#MeToo以降のこのシリーズが、フェミニズム視点の入ったホラー映画なのは、シネフィルによる映画芸術に対する愛憎ゆえであり、映画産業で働く労働者として、抵抗の証を今こそ示さなければならないという、危機感と責任感ゆえでもあろう。女性労働者が働く場所にホラーを作り出し、それに目をつぶってきたのは俺らだろ?あんたらだろ?というナカの人からの内省的なツッコミである。
「#MeToo」「タイムズ・アップ」が暴き立てたのは、権力構造に組み込まれた暴力で、それを「差別」という。
『Pearl パール』で描かれる恐怖の正体は「家父長制」であり「白人男性が主体のハリウッドという映画産業」であり「男を神と崇める宗教」であり、男性中心主義的な社会である。
権力に刃向かい、農具で切り裂こうとするのは、家父長制の末端にいる「持たざる」若いオンナ「パール」だ。被害者は加害者になるという話ゆえに、オンナが加害する物語だ。
殺人鬼のオンナが主人公になる「田舎の家ホラー」は、どこがどう「型破り」なのか。この話はまだまだ続く。
※参考文献
『男と女とチェーンソー ー現代ホラー映画におけるジェンダー』キャロル・J・クローヴァー 著/小島朋美 訳(晶文社)
「人生で選べたことなんてあったか?」
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