#01 『007/ゴールデンアイ』マーティン・キャンベル 監督(後編)

【ジェームズ・ボンドみたいなバッドガール(後編)】

ボンドガールは「ジェームズ・ボンドシリーズにでてくる女性キャラクター」以外に明確な定義はない。「あるある」として語られる設定は、最初は敵として現れ、結果的にボンドを愛してしまうというものだ。

「ジェームズ・ボンド」シリーズは冷戦下に誕生した。イアン・フレミングが小説を発表したのが1953年、ショーン・コネリー演じる映画第一作『007は殺しの番号』の英国公開が1962年だ。物語は、米ソの諜報戦という時代背景を背負っている。犯罪組織『スペクター』や『ヤヌス』は、国家間の不安と緊張を煽りたてることで利益を得ようとする、第三の勢力として描かれる。

冷戦期の007で、ジェームズ・ボンドが正義を体現する西側の代表であったなら、ボンドガールは東側の魅力的な悪だった。

わたしは、悪女とベッドをともにしてきたジェームズ・ボンドがすきだった。
007シリーズで東西の男女が出会い、ベッドをともにする瞬間に、わたしは希望を抱いていたのだ。

冷戦は、1947年から1989年までの42年間続いた。戦後から、東西は常に緊張状態にあった。わたしが小学生の頃に観たハリウッド映画の「敵」は、常にソ連あるいは共産圏の東側諸国だった。冷戦が終わったのは、わたしが中一の時である。「ベルリンの壁」について社会の授業でならった3日後に、壁が崩壊したことをよく覚えている。

冷戦なんて終わるわけない、わたしは核戦争で死ぬと、毎日怯えて過ごしていた昭和の女児にとって、ボンドとボンドガールのキスは、東西は連帯できる、男女は憎みながら愛しあえるかもしれないという、ひとときの儚い夢だった。

東のオンナの無残な死体が転がるまで、昭和の女児は「今回こそは」という希望を抱えて、テレビ画面にはりついていたのだ。

運動神経抜群、頭脳明晰、ルッキズムの頂点、組織の犬、というジェームズ・ボンドと鏡面の素質を備える「エロい名前」の彼女たちは、権力者の恋人や妹という、従属的な設定にとどまらなかった。ボンドガールの設定には、時代時代のマブいオンナ像が反映されてきた。

貝を採るダイバー、物理学者、宇宙飛行士、捜査官、チェリスト、コンピューター技術士、タロット占い師、霊能力者、アナリスト、諜報員、医師・・・職歴の幅は広がる一方だった。オッパイが天井を指すオンナたちは、社会進出し高みを目指すのだ。

ボンドガールに共通するのは、従順でも控えめでもないということだった。ボンドのために死のうが生きようが、ボンドとセックスしようがしまいが、自ら考え行動する、自立した強いオンナであり、つらい苦しいさみしい死にたい誰か助けて、などは口にも態度にも決して出さず、美しさだけを身に纏う。

そうゆう「まるでボンドみたい」なスタイリッシュなオンナたちは、クソかっこいい007にだって簡単になびかない。ゆえにジェームズ・ボンドを燃えさせる。なかなか捕まらない狩りの獲物は、最高にそそるからだ。彼は敵陣にいる「まるで自分のような」美女を、ベッドで征服するのが趣味なのだ。

エロくて賢いオンナたちは、結局はボンドに屈服し、ジェームズを愛した。この世は、たくさん愛した方が負けだ。女性目線が入る前まで「ジェームズ・ボンド」シリーズが描いてきたのは、オンナが負け続けるゲームだった。「俺たちの」映画だからである。「あたしらの」ではないのだ。

女性を欲望の対象または情報源として扱いヤリ捨てるボンドは、その時代においては間違いなく「紳士」でもあった。「ジェームズ・ボンド」シリーズは、男社会で自立するオンナたちの苦境も、うつし続けた。

ボンドガールが「悪」なのは、主人公であるジェームズ・ボンドに、身体的にも精神的にも負荷をかける存在というキャラクター設定故だ。やたら死ぬのも、死に方が無残なのも、立ち直るのが超速い以前に傷つくことすらない、ボンドの強さを表現するためだから、仕方ないのだ。

なぜなら007は、男の観客を想定したジャンルだから。英国紳士ジェームズ・ボンドを描いたシリーズが「女性蔑視的」だとも言われてしまうのは、女性蔑視的な社会だったからだ。それが労働現場だろうが、ベッドであろうが、女性は常に従属的な立場に追いやられ、男はしょぼい内面なんてみせないのが美徳、とされてきた時代を映しているのだ。

男は「労働する機械」であり続けろ、という圧しかない時代は、傷つかないジェームズ・ボンドの「男らしさの美」つまり「やせがまん」の鼓舞のために、ボンドガールは死ぬしかなかった。男社会でジェームズ・ボンドが「俺たち」の理想化であったなら、ボンドガールは男社会で理想化された「あたしたち」だったということか。

女性の指揮官Mに「冷戦の遺物」と説教され、男女平等の化身となれというムズいミッションを課せられたオワコン、1995年のジェームズ・ボンド(ピアース・ブロスナン)が『ゴールデンアイ』で対峙しなければならない最恐の相手は、1日のうち25時間心のチンポが勃起しているような、超男らしいゼニア・オナトップ(ファムケ・ヤンセン)だった。

ボンドは男みたいなオンナと「男らしさ」で真っ向勝負し、勝たねばならない。出会いのシーンで高級車どうしの「運転勝負」から自らおりたボンドが、本作最大のスタントシーンで転がすのは、もっとお値段のはる旧ソ連製のT55戦車だ。でっかい大砲もついている。MI6のスゴ腕・ボンドの、外付けチンポはソ連製。皮肉が効いてる。

スーツ姿のボンドが、サンクトペテルブルク街路を戦車で爆走するシーンは圧巻だ。とにかくサービス精神に満ちていて爆アガリする。

高級炭酸水ペリエを積んだトラックがこれみよがしに道を塞ぎ、そこに戦車が突っ込む。散乱するペリエの缶は、画面に派手さを与えるだけでなく、ソ連崩壊によって市場が自由化されたことを見せる工夫でもある。

ペリエは「西側の洗練されたイメージ」を象徴するアイテムであったが、それを散乱させるのは旧ソ連製のT55戦車だ。運転するのは西側のジェームズ・ボンド。冷戦終結後の混乱がギュっとつまっている。決してゆるがないと思われてきた秩序が崩壊した後の、旧東側の街の不安と混沌を、絵作りとして見せていく。

ボンドが運転する旧ソ連製のT55戦車は、前足を高くけりあげて股にぶらさがったモノを堂々とみせつける騎馬像をなぎたおす。そして戦車の上にその騎馬像を乗せたまま走りまわる。マンガか?

東側の権威的なマチズモの象徴を、西側のボンドがマチズモでもって破壊し、その実績をディスプレイしながら街中を爆走していく。チンポVSチンポ。アホである。

こうゆうアホを堂々と、予算をかけてやってくれるお祭りこそが、007シリーズだ。脳ミソを1グラムも使わず観られるエンタメは、いつだって貧民のドラッグである。毎日ウエに殴られる労働者には、こうゆう快楽が必要なのだ。

戦車を走らせるスーツの色男ボンドはまるで、ママのミッションをこなしていることを過剰にアピールする幼児だ。「褒めて褒めて褒めて」「愛して愛して愛して」だ。

007の白眉といえば、オープニングのタイトル・シークエンスだ。91年に死去したモーリス・バインダーの後任としてダニエル・クラインマンがデザインした『ゴールデンアイ』のそれをはじめて観たとき、わたしはブっ飛んだ。

当時は最先端だったCGが取り入れられ、ソビエト連邦を示す赤星、共産主義指導者スターリンの像、鎌と槌など、ソ連を象徴する数々のモチーフが次々に破壊される様が描かれる。ソ連的な色々をブっこわすのは、タバコを吸い、拳銃を持つ、男らしくも色っぽいタフなオンナたちだ。

冷戦終結が007に与えた影響はデカイ。これからのジェームズ・ボンドは何と闘うのか?作品の土台となる設定が、根本から揺さぶられたのが95年の『ゴールデンアイ』だった。故に革新的な変化が起きた。007は時代と寝るしかないからだ。

『ゴールデンアイ』以降の作品はすべて、常に「敵は誰か?」問題に苛まれることになる。冷戦終結後、見えない敵を前に混迷を深める、西側諸国を映し出していく。

ジェームズ・ボンドとゼニア・オナトップは、冷戦終結直後の世界で出会った似たものどうしであった。異性に弱みを見せるなどという凡庸な幸福を許せず、笑顔で余裕をみせあっていた男女の目一杯のツッパリは、馬鹿馬鹿しくも色っぽくて痺れる。

ボンドガールを見殺しにしてきたジェームズ・ボンドに、反抗的な視線を送っていた昭和の女児=わたしは、社会人になりジェームズ・ボンドの痛みを知った

主人公ボンドは、1作目から25作目『ノー・タイム・トゥ・ダイ』まで「労働する機械」でしかなかった。ボンドに平穏など一度だってなかったはずだし、家庭は持つことだって、そもそも諦めていただろう。労働現場で理不尽に殴られ、ひたすら命を脅かされ続ける。

ボンドの仕事は創造ではない、常に破壊だ。殺しのライセンスを持ち、人権などないに等しい007が、ジョークでやりすごすしかなかった人生の苦しみをまじめに考えると、想像するだにやるせない。

やるせない男だからこそ、チンポだってその場その場で出し惜しみせず、ヤリチンとしていさぎよく、オンナも愛も捨ててきたのだ。守るものなぞ何もない、いちいち傷つかなくてすむように感情のスイッチは全部切る、それもこれもシゴトのためだ。

わたしは、自分の人生など捨てている、ヤケッパチなシゴデキ暴力人間・ジェームズに自己投影までした。ないカネを溶かし込んできたのは、アストンマーティンもオメガも何も、手に入れられない末端のわたしだって「俺たち」の側だと思ったからだ。シゴトのためなら殺人だってしろと言われ、犯罪者のような人生を送り結局殺される、システムに踏まれる捨て駒だからだ。父が見つめていた画面を、社会人になったわたしは父の目で観た。

そして95年『ゴールデンアイ』の男女のカーチェイスだ。労働する機械vs労働する機械、男らしさvs男らしさのファイトばかりを脳内再生してしまうわたしが、ボンドより感情移入できたのが、ボンドみたいなオンナ、On a topであった。

見捨てられた者たちの人生の希望は、バクチにしかない。バカラのシーンで、オナトップはボンドにノーカードで負ける。負けん気以外何ももってないオンナは、組織に踏まれる男に負ける。悲しいリアルだ。運も運命も、男より弱いオンナはやせ我慢してこう言う。「ツイてる間に楽しんで」

欲深いあのバッドガールは内面をうちあけなかった。しかしティナ・ターナーが歌う『ゴールデンアイ』のテーマソングには、こんな歌詞がある。

「お前には決してわからない、あと一歩まで近づいて、拒絶される感覚を、今夜お前に仕掛けるのは、黄金と蜜の罠だ、復讐はキスだ 今回は逃さぬ、今 お前を視界に捉えた」

25作目『ノー・タイム・トゥ・ダイ』でボンドは、精神科医であるマドレーヌ・スワンという「ボンドウーマン」にいのちまで捧げる。ボンドの相手は、もはや「ガール」ですらない。脚本家も女性になった25作目で、「ガール」という名はボンドの欲望の対象だったからという理由で遠ざけられ、代わりにボンドと対等であることを表現できる言葉として「ウーマン」が採用された。すべては男女平等のためである。

しかし青色というオンナは大変ガラが悪いので、その配慮は欺瞞に満ちているからやめてくれよ、と思った。ボンドの隣にいるべきは「ガール」だろ? 死んできたガールズに敬意ぐらい払えよ。

わたしは「ボンドウーマン」が嫌いだ。「俺たちの」そして「わたしの」ジェームズ・ボンドの心を操り息の根を止め、しかも生き残るママだからだ。

仕事も、男も、子供も、カネも、地位も、愛も、美貌も、なにもかも手にするマドレーヌ・スワンの前の世代に、死んできたオナトップたちがいることを、わたしは絶対に忘れない。

マドレーヌ・スワンなどとゆう泣きっ面のオンナには決して届かぬ、味わい深い微笑みを常に絶やさなかった17作目『ゴールデンアイ』のゼニア・オナトップは、オンナ目線で男を見返す「ジェームズ・ボンド」シリーズで最初に犠牲になったボンドガールであった。

ジェームズ・ボンドではなく、ジェームズ・ボンドみたいなオンナ=ゼニア・オナトップが主人公になる物語を、わたしは観たい。90年代のバッドガールの、描かれなかった挫折の連続を目に焼き付けたい。時の運がないから運命が切り開けないオンナの物語を、わたしは欲する。飢え乾くタフな悪女にしか届かぬ快楽や栄光だって、きっとあると信じたい。わたしは悪女にされるバッドガールの側に立つ。

2021年『ノー・タイム・トゥ・ダイ』でジェームズ・ボンドは死に、ブロッコリ一族が関わった007シリーズは終わった。ボンドが死んだ次の年、ボンドが長年仕えてきたエリザベス2世が逝去された。女性上位の世界で、男らしいボンドも、男らしくしか生きられなかったオンナたちも、みんな死んだ。女王陛下も女性のMも、もうこの世にいない。

ボンドの子供は娘、ガールである。ボンドガールに祝福を。

▼参考記事
『冷戦後の時代を切り拓いた『007 / ゴールデンアイ』とMI6』フィガロ・ジャパン September 26, 2023

『スーツ姿で戦車爆走! 冷戦終結・ソ連崩壊後の解放感と不安を生々しく描いた「007/ゴールデンアイ」』BANGER!!! 2020.05.07 大久保義信

『ボンドの敵か味方か?『007』歴代“ボンド・ガール”で別格なのはこの女性だ!』BANGER!!! 2020.09.04 谷川建司

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