#03『TITANE/チタン』ジュリア・デュクルノー 監督(2)
(日本公開2021年)
【男を演じ「人でなし」を出産するオンナ(第2話/全4話)】
『TITANE/チタン』には、オンナのハダカがこれでもかと映る。しかし、そこに色気はない。男が快楽としてオンナを消費するためのエロティシズム成分が、徹底的に排除されているからだ。
一方、男の肉体は妙にエロい。女のためのAV要素てんこ盛りだ。映画の中でオンナたちに課せられてきた、カメラに略奪され、暴力的に消費されるモノとしての役割は、本作では男に託されている。「彼ら」は、前半ではモノとして無惨に殺され、後半では過剰な色気を纏って陳列される。
本作は「見る」観客に対し、「見るな」という刃をむけるオンナの復讐劇なのだ。名作とされるクラシックな映画作品に触れ、「男目線で見る」ことに飼いならされてしまった観客たちに、NO! が突きつけられるホラーである。
物語の前半は、ホラーの中でも最もポルノに近いと言われる、スラッシャー映画の語り口で描かれていく。スラッシャー映画は、殺人鬼が銃ではなく刃物や道具を使い、若者たちを次々と惨殺するジャンルだ。犠牲者は異常者に近距離で打撃され、血まみれで殺される。「体がぶつかる系」のハードコアである。
映画が始まってすぐ、主人公のアレクシア(アガト・ルセル)は、性別も外見も「オンナ」として登場する。夜道でファンの男に追跡され、無理やり唇を奪われた彼女を見た観客は「ああ、主人公は犠牲者の女か」と誤認する。 しかしその若い女は、男の耳にかんざしをブっさして殺すのだ。開始早々、殺人鬼デビューである。「オンナが男を見返す」ホラー映画の始まりだ。
スラッシャー映画の殺人鬼のステレオタイプは、「独身」で「他者とコミュニケーションできない孤独な存在」だ。そのうえ、「セックスから遠ざかった(不能の)」男というのが定番だ。
他者から無視されている彼らは、チンコの代わりにローテクな凶器を持ち、セックスの代わりに殺戮することで、支配欲をみたす。『13日の金曜日』のジェイソンも、『ハロウィン』のマイケルも、『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスもそうである。
アレクシアもまた、「独身」で「他者とコミュニケーションできず」「ヒトとはセックスできない」ニンゲンだが、性別だけはステレオタイプにのっとらない。ジェンダーが異なると、「殺し」の動機が変わってくる。
スラッシャー映画の殺人鬼の男たちが、「他人のセックスを盗み見た」ことをきっかけに殺しに励むのとは違い、アレクシアは「見られたから殺す」。
アレクシアは、「穴」を掘られないために、男の「穴」を攻撃していく。かんざし、火かき棒、椅子の脚などを使い、男の耳や口などの「穴」に「棒」を突っ込んで男を殺すのは、支配されないため、あるいはセックスを拒絶するためだ。
チンコ代わりの武器を持って殺す彼女に、ためらいなどない。なぜならアレクシアの内面は、「監獄で男にケツの穴を掘られそうな男」だからだ。
「オンナらしく」従順で善良であれと強いてくる、男社会という牢獄で、プッシーを狙われた囚人は、生理的な嫌悪感から過剰防衛として、男だろうとオンナだろうと殺し、相手をモノとして「破壊」しつくす。
スラッシャー映画の犠牲者は、「性的に逸脱した行為をとる」と殺される。本作においてもそうで、アレクシアに無理矢理キスをしようとした男が殺され、セックスになだれこもうとしたオンナが殺され、目撃者も皆殺しにされる。
アレクシアが犯す連続殺人のシーンは、同時にコメディとしても機能している。犠牲者の男に、彼女がエクストリームな暴力を振るい出すと同時に流れる爆音は、アップテンポでキャッチーな、「お気楽極楽」の60年代のイタリアン・ポップスだ。カテリーナ・カゼッリ(Caterina Caselli)による1966年のヒット曲。そのタイトルは『誰もわたしを裁けない(Nessuno mi può giudicare)』。
男性犠牲者の息の根がとまると同時に、音楽も止むふざけたノリは、殺人まで茶化しまくるスラッシャー映画の俗悪なノリの模倣であると同時に、ホラー映画の主要な観客=童貞マインド映画オタク男たちの「女性蔑視的な視線」にケンカを売るためでもある。
ホラー映画を見る男たちの欲求は、「超ヤバい」何かを目撃したいってことでしかない。その「超ヤバい」には、「こわい」と「アガル」と「ウケるw」が同居する。
童貞マインドの快楽のために、ホラー映画の女性キャラクターは、逃げ回り、瞳孔を開き、恐怖にふるえながら死んでいった。男がなぶり殺されるシーンで「誰もわたしを裁けない」と女性が歌う軽快なポップスが流れるのは、「男たちだって今まで、映画の中でオンナに散々暴力をふるってきたじゃん」というオンナからの嘲りである。
誰が生き残り、誰が殺されるのか、どのように殺されるかも、女性監督からの映画という視覚芸術に対する返答である。ジャンルに内包される女性蔑視をアップデートし、「オンナが見返す」構造に置き換えられるかどうかで、それらは精査されているのだ。もちろんゴア(血みどろ)表現にも、フェミニズム的なこだわりがみえる。
男たちは人種の見境なく、モノのように全員殺される。
映画の冒頭で殺される、プライベートな領域に土足で踏み込んできた男の死に様は、セックスでイク女を戯画化しているかのようだ。同意なく唇を奪った「彼」は、耳の穴を掘られ、口からまるで精液のような白くどろりとしたものを吐き、痙攣し、血すら流さず「逝く」。
アレクシアがオンナを殺す場面に居合わせただけの男たちは、ホラー映画の観客へのサービスでもある「血みどろシーン」のためにモノとして消費され、なぶり殺される。その死体はカメラに映され、殺人鬼のコレクションとして陳列されてゆく。男たちの無残な肉体は、映画が再生されるたびに観客たちに略奪され、所有されるのだ。かつてホラー映画では、オンナたちの死体がそのような目的で映されてきたように、だ。
一方オンナが殺されるシーンは「映さない」。死体も映らない。殺人鬼オンナvs犠牲者オンナのキャットファイトはソファーが邪魔して、何をやっているのかすら、よく見えない。しかも、女性はひとり生き残る。
アレクシアが殺し損ねた「ファイナルガール」は、スラッシャー映画の犠牲者の定番である「オッパイ」と「叫び」担当の「金髪」だ。これは明らかに、ジャンルのお約束に対する、女性監督からの宣戦布告である。童貞マインド諸君に対する、「オンナをなめるな」というファックサインなのだ。
画面手前にむかってハダカで逃げてくる女のオッパイは、追うアレクシアによって両手で掴まれ、乳首を隠される。わたしはこのシーンをみて、ギョッとした。もしかして、殺人鬼アレクシアは、「見る」ワレワレ観客の視線を、気にしている?
物語世界と、スクリーンを見るわたしたちとの間には、「第四の壁」とよばれる架空の区切りが存在する。その見えない壁が突破され、スクリーンの向こう側のキャラクターに、こちらの存在を悟ったようなふるまいをされると、観客は戸惑う。物語世界から「見返される」ことはないという、暗黙の了解事項が破られるからだ。
「第四の壁を突破する」メタ的な演出が示すのは、スラッシャー映画を愛する童貞マインド男たちの要求になど、乗っかってたまるかと言う女性監督からのファイティングポーズだろう。
今まさに殺されそうなオンナのハダカが、観客に消費されないよう殺人鬼が守る……それは、殺し殺される間柄にもシスターフッドは存在するという、女性監督からの激アツなメッセージであり、観客が映画を観るときに内面化している「メイルゲイズ(男性のまなざし)」を拒絶する、まなざしのコントロールでもある。女性キャラクターを「見られる装置」にせず、モノのようには扱わないという女性監督の強い意志の表れだ。
連続殺人を犯し、実家を燃やしたアレクシアは、逃亡犯となる。正体を隠すため、彼女はたまたまニュースでみた、10歳の時パリで行方不明となった男児アドリアンになりすまし、逃げ切ろうとする。髪を切り、胸はさらしできつく巻いて締め上げ、自分の鼻を洗面台に叩きつけて砕き、外見を変えていく。
鼻がやっと折れた時、アレクシアは鏡の中の自分を見て、ちょっと笑う。
自ら外見を損なわせ男に化けていくその様は、他者からモノのように扱われ、消費される「オンナ」の立場を終わらせるための儀式のようにも感じられ、痛々しく哀しい。
「チンコのない男」としか扱われないオンナにとって、アイデンティティを偽装することは、男に消費されるだけの忌々しい外見を脱ぎ捨て、内面の自分に似せることで「分裂を統合してゆく行為」のようにも映る。
ジェイソンしかり、レザーフェイスしかり、スラッシャー映画の殺人鬼のステレオタイプには、「仮面」をかぶるという外見上の特徴がある。アレクシアは、鼻を折り、長い髪を切り、「男」に偽装することで「仮面」をかぶったといえる。
しかし、そもそもオンナの外見こそが、彼女の魂を殺すものだったのなら、その仮面を剥ぎ取り「自分らしく」ふるまうために、暴力が必要だったということにもなる。
物語の前半、性別も外見もオンナの「アレクシア」は、生きるために殺人を犯す。後半は生き延びるために、男に「なりすます」。デストロイ&ビルド。「アレクシア」から「アドリアン」へ。「女性性」を「破壊」しつくした孤独なオンナは、男としてふるまうが、妊娠した身体は日に日にかわってゆく。
「男らしい」オンナは、ジェンダーを乗り越えられるのだろうか。他者を攻撃せずに「自分らしさ」を開示できるようになるのだろうか。次回に続く。
※参考記事
Vague Visages (Vawg-Vee-Sawj)
『Soundtracks of Cinema: ‘TITANE’』
By Q.V. Hough on October 26, 2021
「人生で選べたことなんてあったか?」
緊急事態宣言下、追いつめられたオンナの運命は…。
90年代に青春を送り、コロナ禍の〈今〉を生きる氷河期パンクスの「痛み」と「反抗」の物語。オルタナMANGA、ついに単行本化!
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