#03『TITANE/チタン』ジュリア・デュクルノー 監督(1)
(日本公開2021年)
【男を演じ「人でなし」を出産するオンナ(第1話/全4話)】
男はオンナを「見て」、オンナは男に「見られる」。
この構造には「炎上」の予感しかない。「見られたくなくて」ブチぎれるオンナと、「見ただけで」怒るオンナにキレちらす男の攻防が、毎日のように繰り広げられるSNSは、真の不毛地帯である。
「見る/見られる」関係性にも、支配構造は「見える」。フェミニズムは、性差をめぐる不均衡が存在する社会においては、眼差し(gaze)だって中立ではないことを指摘してきた。そういうジェンダー論は聞き飽きたあなたも、映画の話だとあきらめて読んでくれ。
本作の主人公、アレクシア(アガト・ルセル)は、男にじろじろみられる女性労働者だ。炎の柄がペイントされたカスタムカーの上で、露出度の高い衣装を着て、ファックするように腰をふるダンサーである。
モーターショーで陳列される「かっこいい車」と「エロいオンナ」に注がれる視線は、メイルゲイズだけだ。狩りマインドの男たちと、獲物にされるオンナたちの視線が、交わることはない。それは常に一方通行の刃であり、イコール「搾取」である。「見られた」アレクシアは、メイルゲイズを拒絶するために殺人をおかす。
映画という文化がいかに根深く「男性のまなざし(メイルゲイズ)」に拘束されているかを論じたのは、映画研究者で映画監督でもあるローラ・マルヴィ(Laura Mulvey, 1941-)だ。女性キャラクターたちは、男たちの視線の前に「陳列」され、「見られる装置」としてねじ曲げられて描かれてきたことを指摘し、映画がいかに「男が女をモノのように見る」支配構造を抱え込んでいるかを論じた。
このローラ・マルヴィの指摘に生真面目に応答した映画が、本作『TITANE/チタン』である。前半はスラッシャー・ホラーで、後半はボディ・ホラーだ。
かつて「ホラー映画」といえば、男がオンナを見て、モノのようになぶり殺すのが常だった。本作は、「男が女を暴力的に見る」構造が堅牢なジャンルの枠組みを逆手にとって、「オンナが男を見返す」構造に反転させ、「メイルゲイズ」を破壊していく。
……あー、はいはい。またですか。女性監督が「フェミニズム」的な模範解答を示し、「見る見られる」関係性をアップデートさせた映画なんですね……と、ちょっとばかり白けたあなたの気持ちは、わたしにも分かる。
道徳や倫理で映画を観るわけじゃない快楽主義者たちは、映画で説教されるとうんざりし、上映中でも小便を優先させる。しかもヤツらときたら、ついでに喫煙までし、不良だったあの頃に思いをはせるだろう。 授業をさぼって非常階段でファックした、かわゆいあの子はもう二児の母……
否! 映画館しか行き場のないシネフィルは、そんな不良ですらないから、いろいろ始末におえんのだ。40代童貞。50代処女。映画にしか快楽をみいだせない奴らは、そういうファッキン・グレイトな糞味噌である。
ワレワレ糞味噌は非暴力ノーマル人間だからこそ、映画を観る時ぐらいは常識人のタガを外し、キ●ガイどもの暴力とファックが観たいという「むきだしの本音」でもってスクリーンに相対する悪人となるのだ。無害な善人という仮面をかぶって小銭を稼ぐしかない貧民どもは、たまには醜い素顔をさらし、アブノーマルという快楽に浸りたいのだ……そういう安らぎをくれる暗闇が「映画館」って場所ではないのか。
「シネフィルは~」などと、映画好きな皆様を雑な「全体」に押し込んでまで、個人的な欲望を綴って売文するのが、青色とかいうゴミだ。そんなオンナのクズい眼差しまでも、本作の女性監督、ジュリア・デュクルノーは熟知している。彼女はわたしの趣味をご存じのようで、オンナを決して被害者目線で語らない。
ジュリア・デュクルノーは、主人公を「頭蓋骨にチタンプレートが埋め込まれている」女性殺人鬼にしたてあげ、「車とファックし、人でなしを出産する」というネジの外れた脚本を書いた。そして、ホラー映画をみる俺たちには、まるで興味の無い「フェミニズム」説教を超えてゆく物語をつくりあげた。本作は、第74回カンヌ国際映画祭にて、最高賞のパルムドールを受賞した。
コロナ禍により1年延期を経て2年ぶりに開催された、この年の審査員長はスパイク・リーで、女性監督がパルムドールを受賞するのは、1993年に『ピアノ・レッスン』で受賞したジェーン・カンピオン以来、史上2人目の快挙であった。
殺人鬼オンナのセックスの相手はぴっかぴかのキャデラック……などという狂った設定の、実に暴力的でグロいホラー映画にも関わらず、本作のラストが示すメッセージは、機械と人の境界まで超えていく「愛」である。さすがパルムドールは真面目だ。
本作の主人公・アレクシアがセックスするキャデラックは、デカくてラグジュアリーなアメ車である。映画の中で車とは「男性性」の象徴であるし、キャデラックとなると「富裕層」すなわち「家父長制における権力」の体現だ。
しかし、アレクシアがまぐわるそれは、単なるビンテージ・カーではない。車高が極端に低く、ハイドロ(油圧サスペンション)で車体が生き物のように跳ね上がる(ホッピング)、過剰に改造が施されたカスタム・カーだ。
「官能性」を放つこの「金属の塊」をジュリア・デュクルノー監督はインタビューで、『“feminine” car(フェミニン・カー)』(※1)と表現する。家父長たる男の象徴であるアメ車を「オンナらしい」と表現するのは、その車が「ローライダーの改造車」だからだ。
車を改造し特別仕様にするカスタムカーの文化は、1930年代カリフォルニアの若者たちからはじまった。第2次世界大戦後、帰還兵たちが戦前の古いフォードなどをレース用に改造し、砂漠地帯のひあがった湖でスピード競争したことがルーツらしい。この魔改造カルチャーは「ホットロッド(Hot Rod)」とよばれた。ボディーを軽量化したり、エンジンの出力をあげるのは、加速性能と最高速度を追求するためだ。炎のペイントや、爆音を響かせるのも特徴である。
「ホットロッド」に後続するカスタムカーのカルチャーが、「ローライダー(lowrider)」だ。
それは1940年代から50年代にかけて、アメリカ西海岸に非合法な手段で移住し、不法就労という「しのぎ」で生き延びてきたメキシコ移民たち(チカーノ)コミュニティから生まれた文化である。
貧しく新車が買えない移民たちは、安価に手に入れた1930年代から40年代の中古車を改造し、新車に負けない「美しさ」と「豪華さ」を持たせようとした。車高をギリギリまで低くし、ラメのペイントを施し、鏡のように磨き上げ、クロームメッキのパーツで飾り立てられた車は、「走る芸術品」ともよばれる。「見た目」にこだわる文化である。
「速さと力強さ(Speed & Power)」にこだわるホットロッドが、車を男とみなす美意識だとしたら、「低く、ゆっくり(Low & Slow)」「見せる(魅せる)」ことを価値とするローライダーのレイドバックしたノリは、車をオンナに見立てる価値観である。「ローライダー」に乗る男たちは、「オンナ」に乗っている……つまり彼らにとって運転とはすなわち、セックスなのだ。
ローライダーのカルチャーは、西海岸のストリートカルチャーと深く結びついていく。HIP HOP(特に西海岸のギャングスタ・ラップ)にもとりこまれ、90年代にはミュージックビデオによってMTVを介して全世界へばらまかれた。
「裏通りをローライダーで忍び寄る」というリリックからはじまる、ドクター・ドレーの『Let Me Ride』(1993)は、ローライダー文化を世に知らしめた金字塔的楽曲である。90年代のコンプトンなど西海岸のストリートでローライダーは、富、自由、反骨心の象徴だった。ドレーが愛車・64年式のシボレー・インパラでクルージングするこの曲のMVを観れば、どれだけ車を高く跳ねさせ、華麗に片輪走行ができるかが、当時のラッパーやギャングたちのステータスとなっていたか、一発でわかる。
映画で90年代西海岸のギャングスタ・ラップとローライダー文化の蜜月を味わいたければ、デンゼル・ワシントンが極悪を演じ、スヌープ・ドッグとドクター・ドレーも出演した映画『トレーニングデイ』(2000)を観ればよい。デンゼル・ワシントンが演じるロサンゼルスの悪徳麻薬捜査官が乗る車は、カスタマイズされたシボレー・モンテカルロだ。低い車体のデラックスな車で、ゆっくり街を流す悪はこう言う「この車、セクシーだろ!? 」
ジュリア・デュクルノー監督が言う「フェミニン・カー」とは、ローライダーを乗り回す「黒い」男たちの価値観に根ざしている。「セクシーな車」に欲情するアレクシアは、性別こそオンナだがナカミは「彼」であり、ワルい男、つまり「黒い(ストリートの)側」なのだ。
その一方で、アレクシアの父は白人の医者であり、彼女は裕福なイエの育ちの白人女性でもある。この内面と外見のギャップが、 彼女を混乱に陥れている。 さらに 彼女は「父」に愛されないオンナノコでもあり、 父のおこした交通事故によって、チタンという冷たい金属をインプラントされた、「機械と人」のハイブリッド という特性まで持つ。とにかく複雑すぎるのだ。
アレクシアの内面は「父に対抗する男」であり「車とセックスする性的マイノリティ」であり「越境する悪」で「圧倒的に黒」である。しかしその外見は「白人」で「裕福」な「オンナ」だから引き裂かれている。彼女は「家父長たる男」の象徴である「炎のペイントがされたホットロッドなキャデラック」をセックスで支配し、身体にとりこむことで乗っ取ろうとする。
しかしそのキャデラックは、同時にハイドロでポンピングする機能もそなえた、ローライダーであり、「セクシーな女性性」の象徴としても描かれているから、話はややこしい。アレクシアが越境的な存在なら、カスタマイズされたキャデラックだってそうなのだ。
密入国、移民、不法就労、のコミュニティからうまれた『ローライダー』のカルチャーが示すのは、反骨精神である。それは抑圧してくる相手に対する「抵抗」であり、「ふてぶてしい自己主張」であり、黒い居直りだ。チタンを埋め込まれた殺人鬼アレクシアも、ポンピングするキャデラックも、ローライダー的魂をもつ、孤独な越境者で、同志でもある。「男らしさ」と「女らしさ」の間を揺らぐ個と個は、唯一無二の鏡面として連帯し、愛し合い、セックスする。
そういうペアリングによって、受精した「新しいいのち」は、機械と人間の「アイノコ」である。それは周辺に追いやられた孤独な魂が、衝突することによって産まれた「愛の子」であり、「間の子」である。
男らしいオンナの殺人鬼アレクシアが、「オンナらしさ」を破壊し、「男らしさ」を炎上させた果てにたどりつく結末で観客が「見る」のは、ありとあらゆる「越境」だ。痛みにさいなまれ、孤独にのたうちまわりながら、出産するのは、車と人のあいの子=越境的な奇形児、ニュータイプである。
物語がすすむにつれ、「男/オンナ」「父/母」「血縁/非血縁」「冷たさ/熱」「人/機械」の境を超え、視線は攪乱され、ジェンダーは曖昧になってゆく。そして、ただ「命が命と連帯する」という崇高な愛だけが立ち上がって、物語は終わる。
その「神々しさ」は、オンナの殺人鬼が「メイルゲイズ」を切り裂いた後にやってくる。まずは、ホラー映画でフェミニズム的なアップデートをどのように達成しているかについて、次回、詳しく語ることにする。
参考記事
※1―Dread Central
『Why the Car in ‘TITANE’ Had to Be a Lowrider』
Max Weinstein(Sep 24, 2021)
「人生で選べたことなんてあったか?」
緊急事態宣言下、追いつめられたオンナの運命は…。
90年代に青春を送り、コロナ禍の〈今〉を生きる氷河期パンクスの「痛み」と「反抗」の物語。オルタナMANGA、ついに単行本化!
◾️編集長より「『彼岸花』の帯がお前たちに見えるか?」
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