#03『TITANE/チタン』ジュリア・デュクルノー 監督(4)

【男を演じ「人でなし」を出産するオンナ(第4話/全4話)】

実父を焼き殺した主人公、オンナ殺人鬼アレクシア(アガト・ルセル)は、行方不明の男児アドリアンのその後になりすまし、警察に名乗りでる。

彼女を息子として受け入れる新しい父の名は、ヴァンサン(ヴァンサン・ランドン)という。息子を探し見つからず、絶望を生きてきた彼は、眼の前のなりすましのオンナに、すべてを賭ける。DNA検査を拒み、「愛する」と決意し、疑わない。

ヴァンサンは、冷たい実父とは対照的に、暑苦しくエモい男だ。出会ってすぐのアレクシアの目をのぞきこみ、涙ぐみ体を抱きしめる。アレクシアは、彼が運転する車の助手席に座る。二人は最初から、欠けた者として補完しあうバディなのだ。

ヴァンサンは消防署のトップだ。人助けを労働とする男は、肉体自慢の男ばかりの組織で「男らしさ」を誇示することで尊敬されている。彼は「息子」であるアレクシアに、「お前に手を出す者は俺が殺す、俺がお前を殴ったら自殺する」という痺れるセリフを吐く。

「いのちがけ」で相対し、相手の面倒をみて信頼関係を築くというのは、ヤクザの論理だ。愛のためなら命だって捧げるし、オマエを傷つけるヤツは何人たりとも許さないという益荒男の態度は、はみ出し者である極道の心性からきている。

話はここで大きく脱線する・・・。わたしはその日テレビで、NHKの番組を観ていた。『アナザーストーリーズ 運命の分岐点 山口組対一和会〜史上最大の抗争〜』だ。それは、1985年1月26日、四代目山口組組長、故・竹中正久が銃殺された「山一抗争」を描くハードコアなリアルストーリーである。

そのドキュメンタリーのなかで、亡くなった武闘派・四代目ドンの「オンナの口説き方」エピソードが、当時の顧問弁護士から吐露されていたが・・・これにわたしは痺れてしまった。いわく、気に入ったオンナをヘッドロックした上で、「殺してほしいヤツがおったら誰でもヤったる」と言うらしい・・・。わたしは絶叫しそうだった「ヴァンサンじゃん! 」

関西だろうが、おフランスだろうが。肉体派の男たちの組織をとりまとめ、男に惚れられる男の愛情表現とはすなわち、暴力である。男に惚れられる男がまき散らす純情愛情は過剰で異常だから、ぶん殴りながら抱きしめる。極道にとって愛の告白とは、肉体をぶつけあう激しいやり取りで、ハードコアとはそういうものだ。怖い。ヤバい。殺される!

消防署長ヴァンサンのヤクザな愛をうけとるアレクシアも、カタギではない。暴力的ニンゲンの飢えや乾きは、純情愛情過剰に異常な関係性でしか満たされない。二人はダンスし、格闘もする。言葉より、常にアクション優位だ。

アレクシアに向けられるヴァンサンの愛情表現は、赤の他人が親子の関係を結ぶ時の盃に等しい。ふたりは極道の信頼関係でもって結びつき、麻痺してゆく。血縁関係にないものは「血より濃い契り」が必要だからで、それは脆く不完全な二人きりにしか通じない、愛という名の補完計画である。

「妻がいて、尊敬される仕事があり、大きなイエを構える金持ちの父親」から、カネ以外は何も与えられなかった「娘=アレクシア」は、「妻と別れ、息子は行方不明で、人を助ける労働で〝助けられなかった〟喪失感でいっぱいの男」からは過剰な愛を注がれて、ニンゲンらしさを取り戻していく。人間らしさとは、異質な他者と「ともに存在して」生きていくことである。

アレクシアは「アンドレア」になって以降、殺しをためらうようになる。以前なら即・皆殺しにしたであろう、ミソジニー男たちと接しても、じっと堪えぬく。彼女にとって、人殺しの凶器でありチンポの代替品でもあった「かんざし」は、握りしめても使わない。ヴァンサンに息子として受け入れられ、男のコスプレを続ける「元・シリアルキラー」は、象徴としてのチンポを手放し、「オンナらしさ」「ニンゲンらしさ」を取り戻してゆく。

殺人鬼のオンナに「俺の息子アドリアン」という新しい可能性を与えたヴァンサンは、ケツにステロイドをブっ刺し過剰に筋トレし、老いに怯え肉体に執着する、老兵のようなオッサンだ。男らしさに固執する「彼」は同時に、理想的な「ママ」みたいな振る舞いもする。

アレクシアの「ひげ」をそり、「男らしく」身なりをととのえてやり、洗濯し、料理する彼は、強い父親、強い男を装いながら、そのナカミは優しいオンナ、お節介な母であり、男をかいがいしく世話をする「彼女」である。

最愛の息子を行方不明で失い、愛を与えられないまま生きてきたヴァンサンは、欠落を抱えているからこそ、偽の息子にありったけの愛を注ぎ込み、「穴」を埋めていく。

外見マッチョな彼は、本質的には「穴」のある「オンナ」である。その姿はまるで、筋肉を強調し男を戯画化してパフォーマンスをする「ドラァグキング(男装した女性、ドラァグクイーンの男版)」のようにも見える。本作で「彼」に与えられた裏設定は、男の体でオンナを表現させるということだし、父のかたちで母性を表現することでもある。

チンコだらけの集団をとりまとめるヴァンサンは、「信頼に足る俺たちの擬似的な父」として尊敬されているが、ほんとうの姿は微風で崩れ落ちる砂山だ。息子を失って傷つき、薬物にたよって「男らしさ」を偽装する「彼」である彼女は、助けが必要な弱者である。「彼」であるために必要な分厚い筋肉は、マチズモの美化ではなく、苦痛に満ちた呪いであり、メイルゲイズの否定として描かれている。

ヴァンサンは、ステロイドをケツに注射してほしいと、アレクシアにたのむ。

男らしさを演じる「父」にケアされながら、「息子」を演じる殺人鬼の女:アレクシアは、血縁関係にない親のケアもしていくのだ。

本作で描かれるのは、親と子という力関係の反転であり、男と女という性別・ジェンダーの反転であり、ケアしケアされる者の役割の反転であり、血縁関係の反転だ。そこで描かれる擬似的な「父×息子」関係は、「メイルゲイズに傷ついた者たちの連帯」である。

偽の子供を無条件に育み、母性を爆発させるヴァンサンとは対照的に、彼の元妻はとても「男らしい」オンナである。彼女は感情に決して流されず、アレクシアは息子ではない、男ですらないと一目で見破る。彼女が体現するのは「父性」だ。革ジャンを着る男として、男を演じるアレクシアに説教し、弱いオンナであるヴァンサンを守れと諭す。シスターフッドにみえるふたりの連帯は、「男の友情」でもある。

消防署の組織で隊長(神)であるヴァンサンは、隊員たちにアレクシアを「神の息子・キリストだ」と紹介する。ステロイドのやりすぎで倒れたヴァンサンを後ろから抱きかかえたアレクシアの姿は、西洋絵画でおなじみの「ピエタ」のマリアだ。

ピエタとは、西洋美術史で繰り返されてきたキリスト教のモチーフだ。それは、十字架から降ろされたイエス・キリストの亡骸を膝に抱き、嘆き悲しむ聖母マリアの姿である。神=ヴァンサンに息子=キリストとして受け入れられたアレクシアは、マリアに覚醒してゆく。「男」に偽装した元殺人鬼は「オンナ」を取り戻し「母」として目覚めていく。

映画がはじまった時、実父の車の中で流れていた音楽は、『Wayfaring Stranger』というアメリカの民謡だ。歌詞はこうだ。

~貧しい旅人が放浪している。病も苦しみもない輝ける世界に、たどり着きたいと願っている。そこには救世主である「父」が待っている。もう放浪しなくていいよと、言ってくれる。旅人は、ヨルダンを越え、ホームも超えてゆく~

越えねばならないヨルダンやホームは、聖書的な比喩であり、死を経て天国に逝くことを意味している。

アレクシアは父性を求め、イエを離れた放浪者だ。彼女が出会う神であり救世主とは、息子を失い傷ついた父、ヴァンサンである。彼は火を消す消防士で、火に身を焼かれるもする。ふたりは共に、地獄で愛に飢え、業火に身を焦がしながら、さまよい続ける罪人だ。

神の子キリストであるアレクシアは、キャデラックという高級車とセックスしたオンナでもある。「伝統的な家父長制や男性性」を憎むオンナと、その象徴のハイブリッドである「新人類」は、「旧体制」と「新体制」の「間」だ。アレクシアは境界例を育む器でもある。

アレクシアの体は、妊娠・出産によって引き裂かれていく。「旧体制」と「新体制」の合体という、新たな価値を産む行為によって傷だらけになり絶命するアレクシアの苦しみは、まるでキリストの受難である。その死は、神の計画に基づく「身代わりの死」のようにも受け止められる。その出産に立ち会うヴァンサンは、新人類の「いのち」をとりあげる「産婆」だ。

マルクスは『資本論』において、古い社会が新しくアップデートされるとき、暴力が産婆となる、と主張した。本作は暴力にはじまり、新旧がアップデートされ、男が産婆になる話だ。しかし、本作で描かれるのは「マルクス」的価値観ではない。

人間を労働プロセスに閉じ込めるマルクスの思想には矛盾があると論破したのが、『全体主義の起源』や『人間の条件』を著した哲学者ハンナ・アーレントだ。彼女は、「労働が人間の本質である」というマルクスの理論にのっとると、労働から解放された人間は「人間であることをやめる」ことになってしまうと指摘した。

ハンナは、人間がそれぞれ異なる唯一の存在であるという「多数性」を説いた。わたしが「何者であるか」は、わたし一人では決められない。他者の目に晒され、他者に語られる(物語化される)ことで、初めてわたしのアイデンティティは確立できるとした。

強制力や暴力を否定するためにハンナが提示したのは、「許し」と「約束」という概念だ。「許し」が復讐の連鎖を断ち切り、過去から人間を解放し、「約束」が未来の不確実性に立ち向かう方法だとした。

『TITANE/チタン』に描かれるのは、暴力が産婆になるマルクスの主張ではなく、ハンナ・アーレントの哲学の実写化だと、わたしは誤読する。

「行方不明の男児」を演じ、沈黙を続けてきた殺人鬼のアレクシアは、血縁関係にない父ヴァンサンに「お前が誰であろうと俺の息子だ」と言われ、過去を許され、受け入れられる。まなざしを交し合い、ほんとうの名前を教え、返答されて絶命したアレクシアは、ヴァンサンと対話することで「自分が何者であるか」やっと分かった。主人公が男に唇を奪われ殺人することから始まった物語は、救世主に人工呼吸されて終わるのだ。

そういうオンナが産み落としたのは、「機械」と「ニンゲン」のハイブリッドであり、「家父長制」と、「家父長制を憎むもの」の間でもある。その「新しいいのち=新体制」を手渡された「産婆の男」は暴力を超え、労働から離れて生きていくのだろう。受け渡された命こそが「約束」である。

欠落を抱えた利己的な男女が、性別を超え血縁を超え、種としての境界までも超えて、異なる唯一の存在として許しあい、互いに支え合う。アガペーに至る「利他的」で「相補的」な関係性を描くのが本作だ。

男になりすますオンナは、家父長制を憎みながら、憎しみまで受け入れ取り込んだ「新体制」を産み落とす。『TITANE/チタン』はフェミニズムを超える可能性であり、革命的な愛の物語である。

アレクシアは両胸の間に、チャールズ・ブコウスキーの詩集のタイトル「“Love is a Dog from Hell”(愛は地獄からきた犬)」というTATTOOを入れている。ブコウスキーが描く「男らしさ」は、強さではない。それは弱さだ。彼の分身たる男性キャラクター=ヘンリー・チナスキーは、マッチョで無敵なヒーローではなく、貧しく、孤独で、アルコールを浴びる敗者である。

本作が描くのは、愛を恐れ、愛に飢え、さまよい続けた負け犬どもの「連帯」である。男もオンナも、親も子も、痛みを抱えた負け犬だからこそ、痛みからなんとか逃れた先でアガペーに至ることができるのだ。

『TITANE/チタン』は、「男らしさ」に傷つけられた者たちの弱さを、祝福する映画である。DOGの綴りをひっくり返せば、GODだ。

“Love is a Dog from Hell”

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