#03『TITANE/チタン』ジュリア・デュクルノー 監督(3)

【男を演じ「人でなし」を出産するオンナ(第3話/全4話)】

『TITANE/チタン』は、殺人鬼のオンナの生と性を通して、エロス→フィーリア→アガペーへと至る「愛」の変容を描く物語である。

西洋哲学やキリスト教では「愛」を、「エロス」「フィーリア」「アガペー」の3種類に区別している。「エロス」とは性愛だ。「フィーリア」とは隣人愛・友情だ。そして「アガペー」とは無償の愛である。

3つの線引きは曖昧だが、最も自己中心的な「愛」が「エロス」である。それは破壊的で衝動的な欲情、主に性愛をさす。「エロス」から性的な感情がなくなると「フィーリア」になるし、それがさらに純化して自己犠牲をも含む、理屈を超えた越境的で全肯定的な愛へ至ると「アガペー」と呼ばれる。

ウィキペディアみたいな解説は、実に回りくどく、わかりにくい。よって、青色という「低み」でもって、愚かな男女にたとえて「愛の成熟/三段階」を再度、説明してみよう。

男女間に友情なんてない、などとイキリちらす男とオンナがここにいるとする。性欲にとりつかれているだけの二人は、「運命の相手だ、世紀の大恋愛だ」などと友達には自慢しつつ、本当はラブホ代がもったいないというケチな理由で結婚する。この段階の二人の愛は、「エロス」である。

家賃を払いながら、性欲解消に耽るのも飽きてきた頃に、二人に似た怪物がオギャーと産まれる。この怪物を育てあげるためには、セックスばかりやっとられんので、家事を分担するなどして、忌々しい暮らしを続けていく。お互いしかこの苦しみをわかる人間はいないので仕方なく、うちらは恋愛ではない、友情だったのだと思い込み、しのいでいこうと諦める。二人の愛は、「フィーリア」である。

そして気が付けば、男はハゲちらかり腹が出て中折れし、オンナは乾ききった砂漠となり化粧はもうのらない。お互いの姿を見れば見るほど、セックスなんかやっとられんので、オナニーだけですませる非暴力自家発電体となり、以前のように罵り合う元気もなくしてションボリし、最後には怪物のような姿になり果て「愛しているよ(お前だけでなくこの世界を)」などと呟いて、死んでいくのである。

涅槃……ニールヴァーナに至るその時になって、人はやっと「アガペー(無償の愛)」に達するのだ。しかしそれはもう、この世とおさらばする時である。成仏。人生も懐もリアルに寒いまま滅するのが、貧民どもの性であり生でもあるので、この世は常に地獄である。そういう、ふぶきふぶき氷の世界の救済とは愛で、「アガペー」だけがあたたかい……(完)。

おわかりだろうか? 余計わからなくなった一人ぼっちのあなたも、「アガペー」への道は険しく、ホンモノの愛を得るためには他者と、様々なレベルで殺し合わねばならない、ということだけは、理解していただけたであろうか。青色とかゆう貧民が、殺し合いばかりしているのも、すべては愛のためである。

本作の主人公アレクシア(アガト・ルセル)は、愛を求める殺人鬼のオンナだ。彼女は「実父に反抗する女児」として観客の前に登場する。父が運転する車の後部座席に、ちょこんと座するオンナノコは、エンジン音を真似て唸り声あげながら、沈黙を奏でる父をにらみつけている。父は振り返ることなく、バックミラーの中の娘をチラ見し、黙ってラジオのボリュームをあげる。

女児の反抗はさらにエスカレートし、父の座席を蹴り続ける。言葉はない。アクションだけだ。

苛ついた父は、振り返り怒鳴りつけたと同時に、運転操作を誤り事故る。アレクシアは負傷し、手術によって頭蓋骨にチタンプレートが埋められる。

物語の前半で描かれるのは、血縁関係にある「父と娘」の断絶だ。「男」を象徴する「車」という空間で、オンナノコは父の愛を求め、裏切られ続ける。

女児は、手術によって頭部にチタン=冷たい金属を埋め込まれ、「父(男)」の代用品として「車」を愛するようになる。冷え冷えとしたイエで、両親からの愛を得られない女児は、体温ではなく、車(機械)のエンジンルームから発せられる熱で、暖をとるのだ。

退院の日、アレクシアは馬の柄のTシャツを着ている。「馬」もまた、映画においては「男」を象徴するモチーフだ。これは、父(男)に加害されたことで、主人公が「男性性」を内側に抱え込んだという象徴だろう。

退院の日の家族の風景……娘と妻の後ろを、荷物を持って黙って付き従う父の姿は、事故によって男とオンナ、父と娘の力関係が逆転したことを示している。

冒頭の車のシーンでは、娘より前方に座りハンドルを握り、「男らしさ」でもってオンナコドモを率いていたはずの父は、「加害者」になることでイエの落伍者に転落する。アレクシアのイエで、男はオンナの従者である。

アレクシアは、ほとんど言葉を発しない。言葉の代わりをするのが、アクションだ。成長した彼女の仕事はダンサーだが、そのボディランゲージを、正しく理解する男はいない。

事故前の実父がアレクシアに言ったことばは、「よせ」「やめろ」「シートベルトを」だけだ。彼は、娘の目を見ず、娘を縛る否定のことばだけを向けた。

事故後の彼が言うことばは、もっと少ない。
「大丈夫だ」

加害の前には必ずといっていいほど、被害がある。父が起こした交通事故の被害者になり、「車」という「男性性」を孕んだオンナの殺人鬼が、大丈夫なわけない。被害者・アレクシアが実父に放つセリフは、たった一言だけだ。
「よく診て」

「よく見て」ほしかった女児が「よく診て」というのは、自身が病人であることを知ってほしいからだ。

しかし、医者である父は、彼女が救済を求める患者であるということすら気づかない。「大丈夫だ」ということばで突き放し、娘を直視しない。「大丈夫」とは「立派な男子」を示すことばでもある。この父の前に「オンナノコ」はいないのだ。

実家のアレクシアは、女性性を封じて生きるしかない、抑圧された存在だ。父に無視され続けることへの反動として、一方的に見られることに刃をむける殺人鬼となる。

血縁関係にある父娘の会話は、コミュニケーションとして成立していない。言葉は「通じない騒音」でしかない。物語の冒頭、女児アレクシアが、車のエンジン音を真似るのは、この父を相手に「ニンゲンのフリ」をしたって無駄だと分かっているからだ。それは、「わたしがもし車なら、お父さんは愛してくれるのかな」という、オンナノコがちっちゃな脳で考えた「一生懸命の最上級」だから哀しい。

婦人科の医者として、オンナの体を熟知する父は、娘のナカミを理解していない。彼は「父性」も「愛」も、専門である「医療」すら与えない。人生ではじめて関わることになる「大人の男」への不信ゆえに、アレクシアは男を愛さず、自らが纏う女性性も拒絶する。金持ちの両親がいて、贅沢なイエがある彼女は、精神的には「孤児」なのだ。

父の加害をきっかけに、人体には無害とされるチタンを埋め込まれた彼女は、害悪として生きる。原子番号22という「人でなし」へと変貌した彼女は、キャデラックとまぐわいエクスタシーに達し、車と人の間の存在を腹に宿す。そしてエンジンオイルのような黒い液体を、乳房や膣から垂れ流す。

男を殺し、オンナを殺し、実父を焼き殺して「人でなし」を内側に抱え込んだアレクシアは、生き延びるためにオンナの姿を捨て、「行方不明の男児」のその後になりすまして、逃亡をはかる。

火をつけて父を殺したオンナを、息子として受け入れるのは、火を消すことを仕事とする消防士の男だ。その男は行方不明の息子を探し続けてきた、愛に飢えた男である。物語の前半は「実の父と娘」という関係性が描かれるが、後半は「偽の父と息子」という関係性が描かれていく。

「行方不明の男児」とは、すなわちアレクシアのことでもある。父の愛を求めても振り返ってもらえず、欲望の視線をむける男たちしかいない、決して中身を見てもらえないアレクシアは、抑圧され内面に「男性性」を抱えこみ、誰とも交流できず、ひとりぼっちだったのだ。そして「行方不明の男児」を探す、ひとりぼっちの男と出会う。

本作は、男性優位社会をうつす寓話でもある。「男になる」ことでしかサバイブできない女性たちや、「男になれ」という圧で自分らしさを生きられない男たちのリアルを「父子関係」で描いていく。「男らしさ」に呪われた身体と、本来の「自分らしさ」の間で引き裂かれる痛みによって、連帯する男女の話である。

他者がいない世界で生きてきたひとりぼっちな二人は、それこそ文字通り「ハラをわって」話し合える他者を得る。擬似的な父子関係は、見つめ合い、愛を交換する。ハラに命をやどした「息子」の出産に、血縁関係にない代理父は「産婆」として関わっていく。ジェンダーが揺らぎながら、無償の愛にたどり着くこの物語について――わたしは一体、どのような哲学に影響され、地獄を脱ける救済へと「誤読」したのか。

次回に続く。

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