国境線上の蟹 14

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ブラジル、その遠いエコー(2)
 〜分かたれ、再びリンクする「沖縄」
 
 
 サン・パウロの東洋人街リベルダージや周辺の街区を歩いていると、とにかく「県人会」の3文字に出くわすことが多い。そこらに「ブラジル愛知県人会」「東京都友会」「在伯長野県人会」(「伯」はブラジルの漢字表記「伯剌西爾」のイニシャル)など、おそらく47都道府県すべての出身者の互助会の事務所がそれぞれサン・パウロに存在しており、ところによっては宿泊施設も完備して日本からの客を迎える準備をするなど、日本との繋がりを今に伝えている。
 中でも、1926年に設立された「ブラジル沖縄県人会」は会員数2500人の最大勢力だ。他の県人会が平均して200〜400人ということを考えると圧倒的な数だが、そもそも沖縄から海外に移民した人が戦前・戦後とも非常に多い(特に、沖縄戦の影響もあり戦後移民は全国一)ことに加え、先祖や血族の結束を大事にする琉球人の気質がこれだけの会員数を可能にしているのだろうか。異国の地に渡ったウチナーンチュ、またはその血を受け継ぐもの同士で故地の文化や伝統を守っていこうという機運がどの県よりも旺盛で、2017年には、県人会主催のものだけでもこれだけのイベントが開催されている。
①第10回沖縄角力大会 ②ビンゴ ③第8回沖縄県人会フォーラム ④第39回琉球民謡コンクール ⑤第21回慰霊法要 ⑥第26回ゲートボール大会 ⑦第35回陸上競技大会 ⑧第28回郷土祭り、ミス琉装 ⑨第一回研修生留学生報告会 ⑩第1回沖縄空手古武道演部会 ⑪第28回支部対抗歌謡カラオケ大会 ⑫第1回卓球大会 ⑬第39回琉球古典音楽コンクール ⑭第36回琉球舞踊コンクール ⑮第11回ウチナー芝居 ⑯第22回琉球民謡カラオケ大会 ⑰第1回実業家の集い ⑱ニーセーターツアー
 
 長らく続いているものもあれば「第1回」というものもあり、沖縄県人会の活動が現在進行形のものであることがわかる。移民社会も三世〜四世がメインの時代となり、他の県人会のメンバーが故地のアイデンティティを忘れない高齢層に偏りがちな一方、若い世代も積極的に行事に参加してアップデートがなされ、また故地である沖縄県との交流も活発に行われているのはひとつの大きな特徴だ。その代表的なものが、沖縄県内各地、そして世界各国のウチナーンチュ社会で盛んに披露される「エイサー」だろう。

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 エイサーは「沖縄の伝統芸能」というイメージがあるが、その起源は約400年前、陸奥国磐城郡(現在の福島県いわき市)にいた袋中という浄土真宗の僧が布教のために伝えた念仏踊りだという。それが沖縄の盆(旧盆)の時期に踊られるようになったが、近代に至るまでは念仏歌を歌いながら踊るだけの静かなもので、現在我々が知るようにショーアップされた勇壮なものとは程遠かった。沖縄で最も伝統的な様式を残しているエイサーの一つ「平敷屋青年会」のものを見れば、現在のイメージとはかけ離れていることがわかるだろう。この平敷屋を行政区分に含む沖縄県勝連村(現・うるま市)が1968年に発行した『勝連村誌』には〈太平洋戦争以前までは、中等学校在学中の若者は勿論卒業者もエイサーを蛮俗視して撲滅すべき悪習俗と軽蔑して、絶対に之に参加しなかった〉と書かれている。この資料のみからはやや判断しかねるが、これは多分に戦前に皇居遥拝を強いてウチナーグチを〝土人〟の言葉と決めつけ、皇民化教育を強いた日本政府の影響もあるのかもしれない。ともあれ、戦前におけるエイサーは、今とは位置づけも様式も大きく異なるものであった。
 戦後、沖縄戦で焦土と化しあらゆるコミュニティが分断された沖縄で、エイサーが復興し始めた。〈1948年、嘉手納村としての分立祝いの際に、余興として配膳された米軍の食器のトレーを即興で太鼓の代わりに叩いたことがエイサーの復活の最初とされている。その後、物資のない時代、米軍払い下げの一斗缶を切って太鼓の代わりに叩いた〉(論文『フェンスをこえるエイサー 戦後沖縄における民俗芸能の復興と米軍基地』森田真也、城田愛 2017)ことから、1950年代には旧盆と関係のないところでも徐々に若者たちを中心に「シマ」と呼ばれる地元の青年会を中心に共同体単位で出場するエイサーコンクールが開かれ始め、現在のようなパフォーマンス型のものに変化していった。いわば「新しい伝統」であるが、興行的あるいは商業的な動機を抜きにして、戦火になぎ払われた沖縄や各地域コミュニティを再び編み直し、未来につなぐよすがとして、ある種の切実さをもって形を成したものといえる。
 エイサーは戦後になってもまだまだ数多く海を渡っていったハワイや南米への沖縄移民たちやその子弟たちによって、少しずつ海外に広まった。ブラジルでエイサーが現在のような興隆を見せるきっかけになったのは、1991年に沖縄を訪問した小禄村(現・那覇市)出身者の子弟たちが初めて本場のエイサーに触れ、それをサン・パウロに持ち帰って始めた「小禄バンド」のようだ。ここから発展した「琉球國祭り太鼓」ブラジル支部(那覇の本部は1982年から活動)の設立10周年を伝える「ニッケイ新聞」2009年4月10日付の記事によると、当初のメンバーは16人。それが今や全国で600人を数える大団体に成長している。「琉球國祭り太鼓」の支部は日本国内だけでも50、海外ではハワイ、テキサス、ロス・エンジェルス、メキシコ、ペルー、アルゼンチンなどに28も存在している。
 そして、その海外支部のうちではブラジル国内にあるものが10を占め、最も多い。「レキオス芸能同好会」サン・パウロ支部など他の団体も合わせれば、ブラジル国内で相当な数の人々がエイサーを踊っていることになる。沖縄県系人のみならず、他県人や非日系人の参加者も多いそうだ。サン・パウロでは前回も触れた「日本祭り」や沖縄県人会の主催による「おきなわ祭り」では必ずエイサーの演目があるし、カンピーナスやクリチバなど、他の都市でもエイサーのイベントは行われている。本場・沖縄では毎年「世界エイサー大会」という演舞の大会が開かれ、ここに世界各国の沖縄系の人々が出場するが、もちろんブラジルから参加する組もある。

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 現代のエイサーには、演舞に使う音楽に関しても特段「これがマスト」というものはない。とはいえ、その中でも伝統的な様式の色濃い共同体のエイサーにおいては「エイサーエイサー ヒヤルガエイサー」という掛け声がエイサーを象徴する「仲順(チュンジュン)流り」や、いわば民謡界のパーティアンセムである「唐船(トウシン)ドーイ」など、いくつか定石ともいえる古謡が存在する。対して、近年ではショーアップを考えた新しい振り付けはもちろん音楽も現代のポップスが使われたり、民謡にポップス的なアレンジが施された創作エイサーも多い。沖縄を訪れる多くの観光客や、県外でエイサーイベントなどに行った人が目にするのは、ほぼこの創作エイサーであろう。
 旧盆の習慣がない中南米の日系社会では後者の創作エイサーの方が盛んで、近年よく使用される曲といえば宮沢和史「シンカヌチャー」、BEGIN「海の声」や「島人ぬ宝」、HY「時をこえ」、イクマあきら「ダイナミック琉球」など2010年代の沖縄ポップス(と、強引にくくるが)である。
 沖縄県及び国によって重要無形文化財に指定されている唄者(うたしゃー)の名渡山兼一が琉球民謡の保全・伝承を目的として立ち上げた「琉球音楽絃友会」の北カリフォルニア支部である「Genyukai Berkeley」のように、そもそも古典(ここでは「仲順流り」と並ぶエイサーの代表曲「久高万寿主」〜有名な「安里屋ユンタ」が演奏されている)を演奏することがその意義となっていたり、仏教寺院との密接かつ独特な関わりの中で「オキナワン・ボン・ダンス」と呼ばれ伝統的な古謡・民謡とともに踊られるハワイのエイサー(それとは別に創作エイサーの団体もいる)など例外もあるにはあるが、さらに遠く離れた南米の日系社会においては、エイサー及び琉球古謡の伝統はどちらかというと後景に退く傾向にある。ブラジルにおいても「野村流古典音楽保存会」「琉球民謡保存会」などのブラジル支部はあるが、それはあくまで民謡・古謡やウチナー太鼓といった伝統文化への働きかけに留まっており、一般的な日系社会における祭事としてのエイサーといえば、特にここ10年ほどは概ねポップス、すなわち平易な言葉とわかりやすいメロディーに乗せて舞われるケースの方が多いように思われる。

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 ここにも、やはり110年という時間の断層がある。
 
 あるとき、サン・パウロに駐在している商社勤務の友人と、リベルダージから車で10分ほど行ったところにあるピニェイロスというエリアの洒落たレストランで食事をすることになった。前回挙げたパウリスタ通りが丸の内、オスカル・フレイリが表参道とするならば、ピニェイロスや隣のヴィラ・マダレーナといった街区は代官山〜中目黒といった具合で、質の高いギャラリーやショップが並ぶエリアだ。著名な日系人アーティストであるトミエ・オオタケのインスティテュートもあって南半球最大都市のコンテンポラリーかつエッジの効いたアートやカルチャーに触れられる場所で、なんだかんだで自分もサン・パウロではこのエリアにいることが一番多い。
 友人が連れて来た恋人は沖縄系の四世でラウラといい、サン・パウロ大学の院生だった。専攻は都市工学で、ファッションやアートの話も好きな2010年代の若者だ。彼女の祖父は民謡保存会に入っていて三線を弾けるそうだが、彼女自身はポルトガル語と英語しか話さない。「沖縄の言葉はわからないし、歌もメロディーが複雑であまり好きじゃない。リベルダージにもめったに行かないし、エイサーも見ない」という彼女だが、「でも、いつかは沖縄に行ってみたい。自分のルーツだから」という。自分の仕事や興味の分野のことを話すと「これならゆっくりだし、知ってるよ」といい、日系社会で絶大な支持を受けるTHE BOOMの「島唄」のサビを「シ、マ、ウータヨ・カゼニノイ……」と歌ってくれた。5年後の今、彼女はその友人とは別れ、風の噂によるとニューヨークのどこかの研究所にいるらしい。沖縄には行っただろうか。
 このラウラは日系人とはいえ建築家の両親の影響もあってかなりグローバライズされた女性だったが、もっと日系文化どっぷりの環境に育っていても、彼女と同世代の日系の若者たちにとって、遠い故地と自らを結ぶ「言葉」は、代を重ね時を経るごとにおぼろげになりつつあるはずだ。標準的な日本語でもそうなのだから、ウチナーグチや琉球民謡にいたっては、日々触れ、歌うことがなければなかなか自らの心情を託す媒体としては使えまい。それゆえに、もはや日本の言葉を忘却しつつある世代にも、メロディや言葉がわかりやすく簡略化された歌謡曲やJ―POPが好まれ、前回紹介したような「のど自慢文化」が色濃く浸透している。日系社会で創作エイサーが盛んな理由も、おそらくはその延長線上にあるのではないか。その言葉と音を通して、彼らの中の「ウチナー」が立ち上がるのだ。

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 戦前の初期移民だった沖縄県人は、明日をも知れぬコロニア(入植地)での暮らしに加え、他の日本移民から「沖縄」というだけで不当な差別を受けることもしばしばあった。そんな彼らを支えたものが故郷の民謡や、それに不可欠の楽器・三線だったことは想像に難くない。ブラジル沖縄移民と三線との関わりを丹念に取材したファビオ・ロドリゲス監督のドキュメンタリー映画「Sanshin」(2013 Kinema)のトレイラーの中で1908年の第一回笠戸丸移民の二世カメミツ・トウマが話す「この楽器は家族から離れてはいけない、家族の精神を表している」という言葉が、それを端的に物語る。2010年にサン・パウロで、なんと200年以上も前のものといわれる三線が公開されて大きな話題になったことがあるが、ブラジルに来た時点で最短でも100年以上の時間を代々受け継がれてきたこうした楽器の存在こそ、ウチナーンチュたちの「家族の精神」、そして彼らがこの異国で過ごして来た時間を象徴するものだった。
 
 とはいえ、「Sanshin」の作中にも典型的に見られるように、民謡・古謡など伝統芸能の保存に携わる人々は、皆おしなべて高齢化している。ついついブラジルにおける沖縄文化の行方にも悲観的にならざるを得ないが、こうした個人ベースの活動や、民謡保存会が最近行なっている「民謡の祭典」というイベントのように、古典を古典として、その複雑さを豊かさとして若い世代に伝えていこうという試みは少しずつ増えつつあるようにも思える。だが、やはりそれだけでは足りない。日々消えゆく父祖の文化の記憶になんとかアクセスするための鍵がまだ幸運にも残っている状態であれば、そこにたどり着くためのルートは多いほうがいい。
 日系社会で特に好まれる創作エイサーは明らかにそのゲートウェイになりうる文化だと言えるが、入り口にいるものをコアへと導く力がまだ足りないような気はする。理由としてはプレイヤーたちのルーツ意識がまだまだ表象的な部分にとどまっていることもある(そもそも沖縄の土を踏んだこともないのでしかたないのだが)し、こうした新しい表現に対して文化の純粋主義の観点から眉をひそめる向きもあり、研究者やアーキビストが足りないこともあるだろう。
 だが、こう考えてみてはどうだろうか。アジアの片隅の群島の、さらに片隅から時代のうねりに翻弄され、ディアスポラのように世界に散ることになったエスニックグループが、言語や、様式の正統性・純粋性といった、故地のそれを頂点とする「権力構造」から解き放たれた場所で——例えば那覇とテキサスとサン・パウロで同じ創作エイサーを踊る、その実践の中において——再び同時代の文化の担い手としてリアルタイムにリンクしようとしているのだ。多くのディアスポラと同化/異化を経験してきた人類の近現代史の中で、これはなかなか稀有な事例といってもいいはずだ。ならば、ここはその地図の広がりをレファレンスとしながら、その根源にどのような文化の核がある/あったのかを再度確認していくという作業へと、我々の視野は移るべきなのではないか。

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 やや蛇足気味になるが、伝統エイサーと特に日系社会における創作エイサーとの大きな違いを、沖縄で何度か伝統エイサーを見る中で発見した。
 社会学者で『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(2017 太田出版)の著書もある上間陽子は、打越正行との共著論文『キャバ嬢になること——沖縄〈夜シゴト〉で働く女性たち——』(2013 日本教育社会学会大会発表要旨集録)において、おそらく特に伝統的なエイサーについて、〈不安定な雇用のもとで働く沖縄のノンエリート層の若者が、郷土芸能である「エイサー」と呼ばれる地域の活動に参加している〉ことを沖縄の経済状況と相互扶助の精神が奇妙にミックスされた、しかしトータルとしてはポジティブな作用であることを前提においた上で、こう指摘する。
〈こうした地域の活動は、そもそも男性が中心となってなされるものであり(中略)女性のエイサーへの参加は、男性の演舞の補助的な手踊りであるほか、そうした手踊り自体を取り入れていない地域もある。つまり、沖縄における地域の活動は、誰を包摂し誰を排除するのかという時に、ジェンダー的差異を伴いつつ実践されている〉
 確かに、前出の平敷屋青年会ではそもそも花形である大太鼓自体が存在せず、昔ながらの念仏踊りの要素が色濃いものの女性はほんの彩り程度で、手踊りすらない。最もメジャーな青年会の一つである山里青年会に至ってはメンバーは必ず男性と限られているし、この宜野湾区青年会のエイサーはかなりバランスが取れたほうだが、花形の大太鼓は必ず男性で、女性の役割は限定的である。この程度の役割分担をもって伝統エイサーが「女性差別的である」などと乱暴にぶち上げるつもりは毛頭ないが、そうしたジェンダーロールが存在する社会文化や文脈の中で、伝統エイサーが育ってきたということは事実だろう。
 一方、ブラジルの日系社会におけるエイサーはこんな調子である。比較的伝統エイサーの文脈に則っているテキサスのこの演目でも同じく、大太鼓は男女が等しく担っている。日本を含めた他の国・地域においても、創作エイサーでは楽器のパートにおいてジェンダーによる差異は意図的に見えるほど少ない。自分も全てを見ているわけでもないので軽々にその意味に関して推測はしかねるが、もう少し深くこのことの意味を考えていきたいとは思っている。
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 我々が「なかったこと」にしてきた——「ニッケイ新聞」編集長の深沢正雪氏の言葉を借りるなら「日本史のミッシング・リンクとされてきた」日系移民史の先に、もう一度、我々をつなぐよすがを探すとしたら、それはもしかしたら、世界のウチナーンチュたちが取りかかろうとしている「新たな同時代性の獲得」の中にあるのかもしれない。
 
 ブラジル日系社会におけるウチナーンチュのアイデンティティも、いずれやってくる一世や二世の退場とともに、いよいよ彼らの守ってきた「冷凍保存された純粋な沖縄」から離岸してゆくときがくる。そのときにどれだけのアーカイビングと、どれだけの研究、どれだけの混淆、そしてどれだけの逸脱がなされ、それぞれはどのような岸辺にたどり着くだろうか。その全てが楽しみだ。
 日系社会の文化状況を見ることは、故地を離れてある社会や文化の中へと移行するという経験の中で、それぞれのミクロの生が自己認識の折り合いをどうつけ、そしてどの時点/どの地点のどの文化に向かってリンクを貼っていくのかというある種の哲学的命題における、この上なく豊かなケーススタディになると思う。その積み重ねの中に、我々が他者とともに/他者として生きていくヒントも見えてくるはずだ。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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