国境線上の蟹 13

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ブラジル、その遠いエコー(1)
 〜また出会うための歌
 
 
 サン・パウロは実に生真面目だ。
 日本の23倍の国土面積を持つ南半球随一の大国・ブラジル。この国を代表する2大都市——サン・パウロとリオ・デ・ジャネイロを比べると、その差は日本でいう東京と大阪の比ではないほど大きい。自然と近接し、音楽と享楽が溢れ、何より人々が実に本能的にサンバのリズムで生きているようなリオに比べ、サン・パウロはブラジル最大の経済都市としての役割を果たすべく努めて計画的に、効率的に、規律正しく動いている。
 カルチャーも全体的にリオよりコンテンポラリーであり、アートや音楽もモダンで実験的なものが多い。以前この街で友人になった外資銀行勤務のアレックスは、「ブラジル人がみんなサンバ好きと思ってもらっちゃ困る。あんなのは田舎くさい怠け者の音楽だ。僕はテクノが大好きで、日本に行ったらAgeHaに行きたいんだよ」と、リオではそもそもほとんど通じない英語で語ってくれた。
 リオから国内線でサン・パウロに飛行機で向かうと、美しい海岸線が広がる低海抜地帯をしばらく飛行したのち、機体はにわかに急角度の上昇を始める。これはサン・パウロが標高700メートルを超える高地に位置しているためで、そのせいもあって、この街は夏でも気温が30度を上回ることはほとんどないし、冬の最低気温は10度を下回ることもある。かといって日本のように極端な気温差があるわけでもないので、わかりやすい四季のようなものは存在しない。
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 季節のないこの国には、しかし、世界で最も四季に敏感な国民——そう、日本移民やその子孫である日系人たちが約160万人も住んでいる。
 1908年4月28日、神戸港を出航した汽船「笠戸丸」に乗っていた781名の移民団が、日本から渡ったブラジル移民の第一陣となった。この原稿を書いている現在から数えて110年前である。
 本連載の第6回にも書いたが、明治〜昭和初期における日本の移民政策は、しばしば「棄民」と批判される。これら初期海外移民の多くは、北は北海道、南は沖縄と日本全国から集まってきた貧農、不況で発生した失業者といった、富国強兵の時代から取り残された人々だった。
 主に東北地方から来た移民志願者たちが出港するまでの8日間を題材にその迷いや悲哀といった人間模様を活写し、1935年に第1回の芥川賞を受賞した石川達三の『蒼氓』には、彼らの心持ちがこう書かれている。
〈故郷には傾いた家と、麦の生え揃った上を雪が降り埋めている幾段幾畝(いくせ)の畑と、そして永い苦闘の思い出とがある。しかし、家も売った畑も売った。家財残らず人手に渡して了った。父と祖父と曽祖父と、三つで死んだ子供と、四基の墓に思いっきりの供物を捧げてお別れをして来たではないか〉
 
 この時代の農民にとって、父祖の土地を手放して何ひとつ様子のわからない異国に旅立つことは、身を切るより辛いことだろう。それでも移民を選んだのは暮らしの貧しさだけでなく「コーヒーは金のなる木だ」「海外に雄飛する日本の先駆者に」などという甘言のせいもあった。奇しくも第一回移民と同じ1908年にこの世を去った榎本武揚が志したメキシコ殖民やハワイ移民に代表される「官製移民」の時代は過ぎ、これらの移民事業は、ブラジル移民の頃になると政府の主催ではなく民間の植民会社に委託されていた。彼らは政府からの支援金を目当てに嘘八百の好待遇を喧伝して移民をかき集め、ろくに調べもせず海外に送って莫大な利益を得ているということも多かった。
 移民たちは数年ブラジルで働き、金を貯めて郷里に錦を飾るくらいのつもりでいたが、実際のところは、ブラジルのコーヒー園で奴隷同然の扱いで働かされていたイタリア人移民団が引き揚げてしまったため、代わりに安価な労働力を求めていたブラジル側からの要請という事情が大きい。彼らは到着まで、それを知らされることはなかった。
 また、この頃、日本の政策的な関心はすでに中国大陸やアジアへの権益確保に向かいつつあった。そんな中、「生産性のない」貧民たちは国内の政情を安定させるため、そしてまだまだ貧しかった日本が外貨を獲得するため、もはや国が半分興味を失った南米に、最初からなかば放り捨てられるように渡ったのだった。
 笠戸丸は6月18日、サントスの港に入港。そこから列車でサン・パウロの移民収容所へ移動し、それぞれが期間限定のコロノ(契約農民)としてサン・パウロやパラナなどの郊外にある契約コーヒー園へと散り散りに向かっていった。以降の移民も概ねサン・パウロをターミナルとして各地に赴くケースがほとんどであったため、この街は自然と、日本移民やその子孫たちの首都となった。

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 様々なグローバル企業や金融機関のビルが立ち並ぶパウリスタ通り、または最新のファッションやユースカルチャーの中心地であるオスカル・フレイリ通り周辺が世界のBPMに合わせて鼓動する現在進行形のサン・パウロであるとすれば、そこから2キロほど北東に下った場所にあるセントロ(旧市街)は、世界のほとんどの大都市でそうであるように、どちらかといえばローカルな色合いの濃い、東京で言えば浅草的な雰囲気が漂うエリアだ。
 その中心にある大聖堂カテドラル・メトロポリターナと隣接するセー広場が、この街の心臓部。散歩する学生、ベンチで日光浴する老人、人によっては一芸を披露するなどして比較的アグレッシブに小銭をせびってくるホームレス、真っ昼間からウロつくやや目つきの不安な(おそらく)ジャンキーなどをやり過ごしながら広場の中心部にたどり着くと「Marco Zero(ゼロ地点)」という大理石でできた六角形の碑があり、その各辺部が向いている方角にある6つの都市または州の名と、それぞれを表すアイコンが刻まれている。
「この世界のすべて」といっても過言ではないきらめく美の結晶リオ・デ・ジャネイロ、金とダイヤモンドと開拓者の夢が夕日とともに大地に眠るミナス・ジェライス、ゴールドラッシュの熱狂に浮かされ翻弄された人類史の遺産ゴイアス、大湿原パンタナールをその深奥に抱く広大無辺の密林と原野の国マット・グロッソ、ヨーロッパが果たせなかった理性と哲学が計画都市クリチバに結実したパラナ、そして日系移民たちの玄関口・サントス。
 セー広場からそのサントスに向かって——というと大げさだが、南南東に向かって歩くとすぐに、リベルダージ(東洋人街)にたどり着く。2004年まで正式に「日本人街」と呼ばれていた、ブラジル日系人たちの一大拠点だ。街を歩けば日本食材や日本料理の店が立ち並び、いたるところで日本語の看板や建物の表書きを目にすることになる。日曜日には朝市も開かれており、様々な出店に混じって「南米大神宮」というサン・パウロの神社がおみくじやお札を売るブースを出展していたりもする。第6回で少し紹介した「ニッケイ新聞」や「サンパウロ新聞」といった邦字紙もある。
 現在では日系人たちが三世〜四世から七世まで存在する世代になってブラジルへの同化が進む中で中国系や韓国系住民の割合も増えており、そのへんで適当に入った和食屋も聞いてみれば台湾人の経営だったりしたが、依然としてこの街を満たしているのは「日本」へのある思いである。

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 ブラジルに渡った移民たちは、サン・パウロ市内にのみ居住していたわけではない。当初は出稼ぎ感覚でコロノとなった移民たちだが、契約期間では大した金を稼ぐことができず、それならばとコロノを辞め集団で農場の土地や荒地を買い取り、自らそこを開拓して自営農民として定住する道を選ぶものも出てくるようになった。1913年、当時の桂太郎内閣の後押しもあり、サン・パウロ郊外のイグアッペに初めての大規模植民地ができたのを皮切りに、1925年にはサン・パウロの奥地に、最大の成功を収めることになる「アリアンサ植民地」が完成。こうした成功事例を励みに、ブラジル各地——「緑の地獄」と呼ばれたアマゾン奥地にまで、日本の開拓移民が集団で入植していくようになった。
〈原始林の手前の土地は、前年度に開拓されていて、その隣人の掘っ建て小屋に入れてもらった。土壁も付いていない細い割木を並べただけの小屋である。横なぐりのしゅう雨が来ると小屋の中まで濡れた。その小さな小屋の一室に高い床を張り、布団を敷き詰めて家族七人で寝た〉(『女たちのブラジル移住史』小野政子・中田みちよ・斎藤早百合・土田町枝・大槻京子・松本純子著、日下野良武監修 2008 毎日新聞社)
 まず黒々とそびえる密林を切り拓いて開拓地を作ることからスタートしなければならなかったアマゾンなど奥地の入植地では腸チフス、アメーバ赤痢、スペイン風邪、三日熱、そしてマラリアなどあらゆる病気がはびこり、また地質や植生の知識も乏しかったためせっかくの作物をバッタに食い尽くされたり、ここを一等地と定めて集中的に植えたコーヒーが実は地質が合わず全滅したりと、各地で相当な苦労を味わった。開高健『オーパ!』のブラジル編にも登場するサン・パウロ在住の作家・醍醐麻沙夫の『森の夢 ブラジル日本人移民の記録』(1981 冬樹社)は実在の入植指導者・平野運平を主人公に彼の入植地で人々が経験した苦難を描いているが、平野入植地では百人足らずの入植者のうち60〜70名が病気で死に、平野自身も命を落としている。
〈平野植民地に入植した人々の苦難は、今日から見ると異常なほどであるが、決して特殊な例ではなくすべて開拓者が味わった苦難であった。(中略)開拓者たちの回想を聞くと、大正から昭和初期にかけてすべての人々が平野植民地と大同小異の経験をくぐっている〉(『森の夢』著者補より引用)
 こうした苦難を経て、徐々に商売を興したり開拓に成功して大農場主となる成功者も現れた。そうした人々の努力もあって今では日系人の地位は格段の向上を遂げており、たった人口の1%ながらブラジル社会で大きな存在感を発揮している。日本の東大にあたるサン・パウロ大学の学生における日系人比率は実に10%を超え、有名な事業家や官僚も多く輩出している。第二次大戦勃発時には90%以上だった農業従事者の数は宮尾進による1988年調査の時点ですでに11.5%となっており、ホワイトカラー化も顕著であった。現在はさらに減っているだろう。
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 日系人たちは、初期移民であればあるほど、異国の地で「故国の文化」を守ることを心の支えにしてきた部分がある。一部はまた改めて書くが、移民のごく初期から浪曲や流行歌、短歌に俳句、茶道、生け花などが持ち込まれ、今日では日系人のみならず多くの人々が日本文化に親しんでいる。移民一世たちは奴隷まがいの重労働に耐えながら、明日をも知れぬ密林の闇夜に怯えながら、そうした文化をよすがに「日本」を思って生きた。日本を知らぬ二世・三世たちも、親や祖父母からそれを聞かされて育った。
 ブラジルには「サウダージ」という言葉がある。日本語にすると「郷愁」が最も近いとよく言われるが、単に「昔を懐かしむ」というものともまた違う。
〈過ぎ去るものを愛で、失われるものを悼み、別離をいとおしむ感情が、異なった時間的産物として、あるいは【無時間の地平に置かれた瞬時の感情のはたらきとして】存在している、ということでもあった。私は、たえず【「いま」という時の瞬間的な充満と喪失】に配慮するこの得意なブラジル的悲嘆のあり方を、「サウダージ」という翻訳不可能な深い感情複合体の核心に感じとった〉(『サンパウロへのサウダージ』クロード・レヴィ=ストロース、今福龍太著 2008 みすず書房、【】部強調は筆者)
 
 自分と同じ時間軸の中に存在している/いないを問わず今や圧倒的に遠くにあると感じる物事、あるいは誰か——それを思う時に我々が感じるさみしさや、その対象が存在する/したことに対するいとしさ。「今、この瞬間」に湧き上がる、そういったものがないまぜになった、静かに胸を焦がす感情。
 日系人たちもまた、日本に対してそうしたサウダージを抱き続けてきた。

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 移民も多くて七世を数えるようになり、多くがブラジル社会に同化しつつある、と先ほど書いた。当然、文化的にもその状況は顕著であり、サン・パウロで言えば人気バンド「パト・フ」のヴォーカルのフェルナンダ・タカイ、近年注目を集めつつあるヴィヴィ・ホーシャ、ねじれたポップネスがいかにもサン・パウロといった感じのドゥドゥ・ツダなどはいずれも日系人だが、その音楽はもはや完全に「同時代のブラジル人の音楽」と言って差し支えない。
 しかし、同じ時間軸の中に、例えばこのヤスミン・ヤマシタのような存在がいるというのは、一体どういうことなのか。2013年にテレビのオーディション番組で衝撃的な登場をした日系四世の歌手ではあるが日本語を話せるわけではなく、それでも日本語の歌——彼女の祖父母や曽祖父母世代の“昭和の歌”を切々と歌いあげる姿に、我々は何を思えばいいのだろうか。
 ブラジルにおいては、1930年代頃からいわゆる「のど自慢(カローロ)」が流行するようになった。不穏になりゆく世界情勢に呼応するかのように、1920年代前半から美術や文学などの世界であらゆる移民の集合体であるブラジルにおいても「ブラジル性」を定義しようという〝国家主義化〟が起こりはじめ、この国の雑食性を「食人」というモチーフに託したオズヴァルド・デ・アンドラーデを中心にして、文化表象の中にナショナリズムの色が強まっていく。一時期彼とパートナーの関係にもあったタルシーラ・ド・アマラルのように意図せずして「国民画家」に祭り上げられ、戦後その揺り戻しの中でその芸術的価値が不当に黙殺される結果になった作家もいるが、そうしたナショナリズム的な状況が大衆化したものの中に「のど自慢」があった。ブラジル音楽の歌詞には今も昔もとにかく祖国を讃える意味で「ブラジル」という言葉が頻出するが、ラジオ局は政府の支援を得て全国ネットでのど自慢を放送、決して愛国主義的ではないものも含め、「ブラジル」を歌う曲を全国に放送し、国民統合の道具とした。
 当初はむしろ植民地の奥深くにこもっていた日系社会だが、第二次世界大戦後、移民社会に生まれたある深刻な分断(これも改めて書く)を修復したいという願いも込め、1950年代から盛んにのど自慢大会が行われるようになった。初期の開催はもっぱらサン・パウロが中心だったがあっという間にブラジル各地のコロニア(入植地)に広まり、津村謙「上海帰りのリル」、小夜福子「小雨の丘」(映像は服部富子の歌唱)などが歌われた。全国予選を経てサン・パウロでの本戦に進むスタイルの大会もあり、多くの日系人たちが参加したという。
 交通網の発達に加え、移民たちの生活の向上や都市化、戦後移民の増加、さらには当初ブラジルで稼いで帰るつもりだった戦前移民一世、そして日本を知らないものも多かった二世以降にはより色濃く「もう日本には帰れないかもしれない。ならば、ここで日本を思いつつ生きよう」という意識が芽生えたことが、その隆盛に大きく影響している。のど自慢大会の優勝者らが集まって始め、現在でも行われているブラジル日系人オリジナルの「紅白歌合戦」(正確には最終の日曜日に行われる忘年歌謡大会)なども登場し、文化的にも「ブラジル人」に近づいていく二世や三世たちを横目に「昭和の日本」を固守していく人々が生まれたのだ。その頃、戦後日本は高度経済成長の階段を三段飛ばしで駆け上がり、戦前に遠い南米に放り捨てた人々のことなど猛スピードで忘却しつつあった。
 1975年には日本からカラオケが上陸し、10年足らずでのど自慢に迫る娯楽になっていった。日系人にとってのカラオケは、日本のようなボックス形式ではなく、飲食店や公民館、または個人宅などに機械を運び込んで歌うスタイルだ。多くの場合、歌唱者はステージや小上がりのようなところで歌うことになる。日系社会の風俗を驚くべき緻密さで描いた細川周平『サンバの国に演歌は流れる』(1995 中央公論新社)によると、日本企業の駐在員や、非日系のブラジル人(と便宜上言うが)たちはいわゆるカラオケバーがもっぱらで、日系人たちのようなスタイルのカラオケはしないという。
 一度だけ、リベルダージ周辺のホテルで開催されていた日系人たちのカラオケ大会を覗いたことがある。中くらいの宴会場にパイプ椅子が並び、「のど自慢」時代からの伝統である審査員もいるスタイルで、老若男女が順番にステージに上がって歌っていく。「残酷な天使のテーゼ」やJーPOPを歌う若者や子供の歌唱者もいたが、圧倒的多数は老人である。「カスバの女」「夜霧よ今夜もありがとう」「つぐない」「悲しい酒」「乾杯」など、往年の演歌や歌謡曲を、情感を込めて歌う。うなる。涙するものもいる。このうちのどれだけの人が日本をじかに知っていて、どれだけの人がまだ日常的に日本語を話しており、そしてどれだけの人が今後日本の土を踏むのかもわからないが、宴会場の巨大なスピーカーを通して、そこには確かに彼らの固有の「日本」が反響していた。

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 1968年、ブラジルの航空会社ヴァリグの日本〜ブラジル路線の就航に伴いCMソングとして放映された「浦島太郎の歌」が日系社会のみならず、ブラジル各地で大ヒットした。アニメとして製作されたポルトガル語のCM中で、浦島太郎は竜宮城(=ブラジル)ですでに老いてしまっているが、ヴァリグの往復航空券が入った玉手箱を開けると、元の浦島伝説とは逆にみるみる若返り、勇んで母国へと飛び立つ。戦前移民の若かりし思い出の日本へ、二世・三世が聞かされて育った美しい日本へ。東名高速道路が開通し、イタイイタイ病が公害認定され、明治100年に沸く一方で多くの日本人がほぼ忘れ果てていた「棄民」たち。日本に降り立った浦島の目に映ったのは、果たして彼らがサウダージとともに思い描いた通りの祖国であったか。
 サン・パウロでは毎年7月に、日系移民の子孫たちやその関係者、日系企業や政府関係者なども集まる「日本祭り」という盛大なイベントがある。毎年必ず唱歌「ふるさと」の合唱で始まるこのイベントにはカンファレンスやシンポジウムもあるが、一般客の楽しみはやはり様々な日本食の出店、エイサーなど各地芸能の演目、そしてコンサートだ。先ほど挙げたヤスミン・ヤマシタのように、日系社会独特ののど自慢文化から生まれ出てきた、日本を知らずに日本の心(やや古めの)を歌うシンガーが数多くいる。そうした中から、古くはマルシアのように日本で歌手デビューを果たすものも数々出てきた。彼女のような恵まれた環境を勝ち得た例はごく稀だが、今でも歌手を目指して日本に渡るものはブラジルにとどまらず、アルゼンチンやペルーなどからも多数存在している。彼らの中にある「日本」とは何だろうか。日本を知らずして日本を思う、日本語を解さずして日本を歌う、自分自身にごく近い歴史の中から分化していった人々がいることを、我々はどれだけ知っているか。
 現在、日本には約30万人弱の日系ブラジル人が住んでいる。かつての日本移民とは逆に「デカセギ(これはブラジルの言葉にもなっている)」として、日本語をあまり解さぬまま全国各地の工場などで働く彼らは日本人からは単に「ブラジル人」と言われ、多くの外国籍の人間が日本で経験するのと同じような差別を味わう。リーマンショックで企業の業績が急降下した際には多くの工場で不当解雇が起こり、片道切符だけを持たされて帰国させられたものもいる。我々は、かつて「棄てた」人々の子孫を利用するだけ利用し、再び棄てている。
 移民110周年の今年は、記念ソングとして日系歌手の平田ジョーエが歌う「ありがとうブラジル」という曲が日本・ポルトガル二か国語で制作された。完全に「のど自慢文化」の延長線上というか「JーPOP風演歌」といった趣のこの曲のサビで歌われるのは、〈どうもありがとう 憧れの祖国よ どうもありがとう 日本/どうもありがとう 母なる大地よ どうもありがとう ブラジルよ〉という言葉だ。日本ではシリアスな歌になかなか「どうも」という言葉は使わないし、この辺りに若干のおかしみも感じてしまう。それも、大袈裟に言えば110年という時間の作った断層だ。
 同じくらい違和感のある言葉として「憧れの祖国」というフレーズがある。日本にいる我々はわざわざ祖国に「憧れ」などしない。だが、彼らの多くにとっての日本とは、もはやその物理的、そして精神的な遠さゆえに「憧れの祖国」として概念化された存在なのだ。
 愛している、たとえ届かずとも。
 ただそれだけの想いを込めて、110年の間に幾多の歌が歌われてきた。我々は、この国はそれに応えられる存在であってきただろうか。寄せられるその愛にただ胡座をかいて「世界が尊敬する日本」などという虚構の中で悦に入るだけで、何ひとつ彼らのことを見てこなかったのではないか。彼らはまだそこにいて、その声はまだ発されている。では、我々は。
 日本移民、特にブラジル日系人の歴史は常に、遠いエコーとして我々の姿を照らし返している。これからしばらく、そんなことを書いていきたいと思う。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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