国境線上の蟹 18

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ブラジル、その遠いエコー(6)
〜正しい世界が消え去った夜に(後)
 
 
 1952年4月28日、前年に調印されたサンフランシスコ講和条約が発効された。これをもって名実ともに敗戦国・日本はアメリカ及び連合国軍の統治下を脱し、戦前のあらゆる海外権益を放棄することに同意し、国際社会の一員に再び迎えられた。
 同年6月3日、サン・パウロの北部にあるチエテ移住地(現ペレイラ・パレット市)で、日本移民の家族9人が全員で命を絶つ集団自殺事件が起きた。
 養蚕を営んでいたこの一家は、前年あたりから周辺住民とも交流を絶っていた。自宅の四方をぐるりと鉄条網で囲って「面会謝絶」の札をかけ、母屋と作業場には高さ80センチの土塁を築いたと思ったら偵察用ののぞき穴を掘り、その様子はまるで要塞か何かのようだったという。さすがに不審に思った警官隊が家に近づくと、一家は立てこもって発砲。警官隊も威嚇射撃で応酬し、弾切れを見計らって中に踏み込んだところ、そこにはすでに事切れた9人——8歳から69歳までの3世代——が倒れていた。服毒自殺であった。
 彼らは日本の戦勝を信じる「勝ち組」の一家だった。そのあまりに強固な〝信念〟ゆえに敗戦を認識する世間との折り合いがつかなくなり、このような事態に陥ってしまったのだ。戦後7年、祖国では朝鮮戦争による特需景気もまだまだ続いており、敗戦の焦土から高度経済成長の第一歩を踏み出そうとする中、ブラジルの日本人社会では、まだ戦争は終わっていなかった。

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 敗戦の翌年に起こった「臣道連盟」とその意を汲んだ「特攻隊」による連続テロ事件(前回参照)が幹部連の壊滅をもって一応の収束を見てもなお、ブラジル各地で「勝ち組(信念派)」と「負け組(認識派)」の対立は続いた。「勝ち組」の多い入植地では〈国賊 ユダヤ主義者●●(人名)天誅 首を洗って待て〉などという落書がみられ、存命の人物の〝葬式〟を白昼から公然と催す入植地さえあった。やはりサン・パウロに近ければ近いほど徐々に日本の敗戦がきちんと受け入れられるようになったものの、「特攻隊」の残党の活動はむしろアマゾン入植地など情報の届きにくい地方に伝播し、暴力や憎悪の連鎖はしばらく続いていくことになる。
 1947年にはブラジル政府が定めていた外国語新聞発行禁止の憲法が改正され、その年の末から年始にかけて『サンパウロ新聞』『南米時事』『パウリスタ新聞』などが次々と復刊・発刊。それ以前からガリ版刷りで各地に配られていた啓蒙チラシや各認識派が独自に発行していた雑誌と合わせて、「負け組」が目指す戦勝デマ一掃の大きな役割を担い始めた。しかし、「勝ち組」のほうも負けじと『昭和新聞』『中外新聞』といった新聞を発行、「日本戦車隊がサンパウロ市中を行進」「石射大使がブラジル入り、政府と交渉を開始」など、今でいうフェイクニュース満載の紙面を作り始めた。
 とはいえ、この頃になると、当初は圧倒的多数だった「勝ち組」の勢力は急速に減退していた。「迎えに来る」と言われた日本の軍艦がいつまでたっても迎えに来ず、漏れ伝わるのは焼け野原となった日本の窮状ばかりであったからだ。そして、それをもっとも認識しつつあったのは、実は「勝ち組」の面々であった。
〈彼らの言論は、いつのまにか、「勝ち負けが問題ではなかった。皇室や祖国日本を誹謗するやからに対する愛国者としての立場から、自分たちは戦っているのだ」と宣言するようになってくる。そして、「敗戦」に対してみずからを「強硬」ととなえる一派は、あいかわらず団結して、コロニアに対立の溝を深めていった〉
〈(新聞発刊による)言論的保証を得て安心しているかのように見えながら、外出のときは肩をいからせ、目じりをつりあげて眼前に敵をひかえたような態度を示していた。「あすこに勝組がくるよ……」と一見してわかるような格好であった。つねに内心と戦っている姿であった〉
(ともに『移民の生活の歴史』第3巻 半田知雄 1970 サンパウロ人文科学研究所)
 彼らの思考は、次第に「実際の勝ち負けはもうどうでもいい」という方向に変質していく。天皇に忠誠を尽くし、その功により名誉の帰国を果たすことがレゾン・デートルになりつつあった彼らは、ただひたすら皇国の臣民として恥ずかしくないよう生きることを己に課し、祖国に「敗戦の汚辱」を着せるものに対する敵愾心を燃やしながら生きていた。帰国を諦め、ブラジルに同化して穏やかに生きていくことを選び始めた「負け組」の人々は、いわば敗戦という現実に早々と適応して祖国を捨てた裏切り者だ。現実を受け入れるものがどんどん増えていっても、彼らはもはや引き下がることなどできなかった。
 そうこうするうちにブラジルと日本の往来もぽつぽつ復活し始め、1950年3月には戦後の水泳界で次々と世界新記録を樹立して「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋廣之進ら水泳日本代表がサン・パウロを訪れた。敗戦国の、そして遠い故郷の青年が成し遂げた偉業と、その人物がブラジルの同胞たちに会いに来たという事実は多くの移民たちに希望を与えはしたが、一方で、選手団は戦争の帰結について最後まで口に出すことはなかった。おそらくは現状認識派の誰かから「面倒なことになるから」と釘を刺されていたのだろう。案の定、日本の勝ちを語っていない(負けも語ってはいないのだが)ということで「彼らは本物の日本選手団ではなく、アメリカの謀略でやって来た間者なのではないかなどといぶかる声も噴出した。この調子で、「勝ち組」の面々は一層頑なになっていく。日本からの郵便が再開し、親族や友人たちから敗戦国の近況を知らせる手紙が届いても、「これは敵国の謀略だ」と一顧だにしないものも多かった。
 もはや、これは事実を脇に置いて「日本精神」のありかをめぐる思想戦となっていたのだ。

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「日本は、世界政府を樹立して世界平和を完成させるため〝戦勝〟という事実をあえて隠している」——同じ頃、移民社会にこうした説も流布され始めた。
 これを流したのは川崎三造、加藤拓治という二人の詐欺師で、彼らは「ブラジルにおける日本の支配体制を確立するため、近く朝香宮殿下(昭和天皇の叔父である朝香宮鳩彦王の第二皇子という設定だった)が秘密のうちにブラジルに来られる」「日本人は何人たりとも殿下の命無くして帰国は叶わない」「献金を行い、勤皇の意を示すものは来るべき平和の日に一等船客として無料帰国が叶う」などと言葉巧みに各地の日本移民から献金を巻き上げ、なんとそれだけでサン・パウロに豪邸を建てた。その後、黒幕の川崎を「総理大臣」とし、敗戦認識派の主だった面々を「処刑」「終身刑」などとリストアップして公表する段になると、彼の「大臣」たちの列にはもと臣道連盟の特攻隊にいて暗殺計画に関わった人物などが加わるようになる。詐欺師と人殺しの内閣である。
 ニセ朝香宮の一味は最終的には彼らを信奉する農民たちを集めて入植地を建設するに至るが、やがてその中で権力構造が生じてリンチや暴力が頻発するようになり、「本当の宮様がこんなことを命じるはずがない」と気づいた入植者が警察に訴え出て事件が発覚。二人が逮捕・収監されたのは計画開始から実に5年が経った1954年で、人々はそれまで騙され続けていたことになる。
 いや、単に「騙された」という表現が適当なのかはわからない。
 種村季弘は『詐欺師の楽園』(1975 学芸書林)の中で、詐欺師の要件についてこのような考察をしている。
〈彼は他人のあるフェティシズムを他のフェティシズムに転移させてやることによって、医師のように、相手を重症フェティシズムから解放してやる。(中略)しかしながら、彼自身はいかなるフェティシズムにも冒されてはならない〉
 この「他人のフェティシズム」を、もともとブラジルで一儲けして帰るつもりだった日本移民たちのパラノイアックなほどの郷愁、異国で時間ばかりが過ぎていくことへの不安や焦燥のことと換言するならば、ニセ朝香宮は見事に、彼らを夢にまで見た皇族に仕える一等臣民として定義してやることによって、大いなる嘘の中に一縷の救いを与えたのかもしれない。永遠に叶わないことがほぼ確定しつつある帰国の夢を、ニセ朝香宮のもとにいる間はまだ見られたのではないか。その崩壊が、彼らがその構造を結局のところ〝現地における権力〟として固定してしまおうとする新たなフェティシズムに冒されたよって起こったというのもなかなか示唆深いが、ともあれ移民たちはどこか、自ら進んで彼らの嘘にすがったようにも思える。
 1951年頃には、「勝ち組」の中から実際に帰国が叶ったものもいる。だが、そこで初めて「勝ち組」というものの存在を知った日本の人々の反応はこうであった。
〈日本の新聞が伝える勝組の姿は、「時代おくれの人間のカリカツーラ(筆者注:カリカチュア)」としてのそれであった。移民社会におこった悲劇については、時代の先端をいくジャーナリストといえども日本では到底理解できるものではなかった。忠良なる臣民であったがために、祖国を信頼していたが故に、無知とあなどられ、時代おくれと軽蔑されながら陰謀にまきこまれていった移民の心情は、移民の歴史を知り、異国に苦労をかさねた人々以外には理解することができなかった〉
(前出『移民の生活の歴史』第3巻)
 かつて熱狂とともに「神州不滅」を叫んだはずの日本人たちは、今やアメリカに民主主義とチョコレートを与えられて朝鮮特需に沸き、一刻も早く生活を取り戻そうと躍起になっていた。そんな時に突如現れた、かつての自分たちの合わせ鏡のような人々を、日本がどのように迎え、どのように遇したか。彼らのその後を示す資料が皆無に近いので判断しかねるが、おそらくそう幸福な帰還ではなかったのではないだろうか。
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 1953年にはまたぞろ、ブラジル日系社会に「皇国日本の精神」「日本への帰国」を標榜する新たな団体「桜組挺身隊」が出現する。ただ、それまでの「勝ち組」団体と違うのは、ブラジルに根を張ろうとする敗戦認識派の行動を激しく非難しながらも、敗戦そのものは認めていたことだった。それでもなお自分たちのブラジルにおける「独立」と、「日本民族は日本人として生きるべきである」という主張を訴えながら街頭デモを繰り返し、この年の9月、10月、翌54年1月と12月にそれぞれ逮捕者の出る騒ぎを起こしている。55年2月の蜂起は特に激しく、サン・パウロのセー広場が戦闘服に戦闘帽の集団で埋め尽くされるという異様な光景の中「完全独立のために起て」「四十万総引き揚げ」という幟を掲げて練り歩き、最終的にはこの数年前に再開された日本総領事館に赴いて帰国の請願書を渡すという事態に発展する。
 これが無視されたと知るや、その年の3月には十数名で領事館を襲撃。領事の首を締め、副領事に暴力を振るうなど大暴れした。さすがにこれを重く見たブラジルの官憲は翌月、彼らのアジトを武装警官で包囲し257名を一斉検挙。挺身隊を強制解散させている。
 しかし、驚くべきことに10年が経った1965年にも、桜組挺身隊の残党2名が短刀を手に領事館を襲撃。取り押さえられ逮捕された彼らは、『パウリスタ新聞』の取材に応じ、「(総領事が)日本の代表として誤っている以上、これをくつがえさなければならなかった」と答えている。この後に及んでもなお、ブラジル各地には日本戦勝・皇国不滅を信じている同胞が300人以上いる——とも。
 
 この前年、日本では戦後復興の象徴とも言える東京オリンピックが開催され、アジア初の国際通貨基金・世界銀行会議の総会も開かれた。世界経済の最前線に驚異的なスピードで復帰していく日本は、遠い異郷で今も「神州不滅」の夢を生きる人々のことなど、完全に忘れ去っていた。

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 ルポライターの藤崎康夫は、その著書『陛下は生きておられた! ブラジル勝ち組の記録』(1974 新人物往来社)の取材過程において、発行の前年である73年に至っても日本の勝利を確信し続ける移民3家族のコミュニティ「報国同志会」の人々と接触している。
〈「天皇陛下様がお元気でいらっしゃるのに、負けたなどといっても、そんなことは絶対に考えられません」〉
 
 こう言い切り、彼らが「敗(はい)」と呼んで蛇蝎のごとく忌み嫌う「負け組」——実際には、この時点でももはやそんな呼称が成立しないほど、日本の敗戦は自明の歴史となっている——とは交流を断ち、人生における可能性の全てを投げ打ってかつての「皇国」の教えを守り抜きながら、寒村でつましい暮らしを続ける人々。粗末な家に天皇の御真影を飾り、教育勅語ともう一つ、おそらくは偽の勅語である「在外邦人ニ与フル勅語」(前回参照)を暗唱しながら、天皇の命令による帰国の日を待ちわびる人々。
〈「私たちは全員この勅語を立派に守り通しました。子供たちも、みんなそらでいえるんです」〉〈「日本人として、立派な行いさえすれば、きっと、帰国が許されます」〉と胸を張りつつ、「困っていることは?」と聞かれると〈「太郎やみよ子(筆者注:ともにこの家族の若者たち)が結婚できんことですよ。本人たちも『敗とはしない。日本に帰国してから』といってるんです〉と声を詰まらせる人々。
 彼らは単なる狂信者だろうか。
 この3家族はその後、政府が特例的に適用した在外の困窮邦人に対する帰国費用貸付(国援法)のおかげで、終戦後28年にして初めて日本の土を踏む。羽田空港に着陸した飛行機からタラップが降ろされ、その中ほどに立って「天皇陛下万歳、日本万歳」と叫びながら万歳三唱をし、羽田空港の賑わいを見て〈「私たちが信じていた通りです。こんな立派な日本が負けたはずはありません」〉と言い切る人々。彼らは全員沖縄出身の一族であったため、ようやく〝返還された〟ばかりの沖縄に在住する親族が迎えにきていた。カメラを向ける報道陣を鋭く「なんですか、あんた方、こんなに騒いで」と制し、「地獄ですよ。島(沖縄)に行ったら…」とこぼす親族の心を知らず、名誉の帰国に胸を張る人々。
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 もう一度問う。彼らは単なる狂信者だろうか。もしくは、現代の我々とは一切関わりのないことのような顔で、気の毒そうに「かつての軍国主義の被害者だ」とでも言えばいいのだろうか。
 そもそも最初の経緯からして故国に棄てられたような状態で海を渡り、戦時にはその保護責任すら決定的に放棄され、終戦を経てもなんら救済措置が取られることなく忘却された、ごく普通の人々。彼らを現実離れした想念の世界の住人にしたのは、強く大きくなるために、それにそぐわないあらゆる小さなものを「不要なもの」「自分には関係ないもの」という境界の向こうに捨象してきた、近代の我々の社会思想そのものではないのか。さらに問うならば、この社会はバブルを経て、オウムを経て、震災を経て、2018年の現在に至るまで、そこから何か変わっているか。
 社会生活における可能性と幸福の全てを投げうって帰国を熱望し続けた祖国は、その目に現在、どう映っているか。彼らに聞いてみたくとも、おそらくはもうほぼ叶わない。彼らはすでに眠っている。サン・パウロの片隅の寺で、荒野を貫く線路の果ての共同墓地で、アマゾンの森の奥で、あるいは(願わくば)沖縄の海を見下ろす一族の亀甲墓の中で、時間の底に眠っている。

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 2016年2月に亡くなったウンベルト・エーコの遺作『ヌメロ・ゼロ』(中山エツコ訳、2016 河出書房新社)は、とある日刊新聞——常に〝発行前〟の状態で、その実はオーナーが政治家や経済人たちの裏ネタをつかんでいるぞと脅して己を上流社会に紛れ込ませるための、いわば「ブラフ新聞」なのだが——の編集部を舞台にした小説だ。
 永遠に発行されないその新聞の特ダネとして編集会議で挙がるのは全てが過去にイタリアで実際に起こった事件を題材にとった焼き直しであり、最終的には「第二次大戦後に処刑されたはずのムッソリーニがまだ生きていて、1970年代のクーデター事件の首謀者となっていた」という大ボラも混じってくる。人々は次々に現れるそうした新奇な陰謀論や衝撃的なスキャンダルの数々に飛びつき、その前にしていた話をあっさり忘れていく——という、メディアの空間とそれを消費する我々自身に対する巨匠の批評精神を多分に発揮した作品である。
 本作中でエーコは言う。
〈記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う〉
 かつての罪を、かつての悲しみを、かつての畏れを、早く忘れよと時代は言う。アムニージアック(記憶喪失者)の群れが「ここには住むな」と言われたはずの沿岸に再び街を作り、「繰り返しませぬから」と誓ったはずの過ちを再び繰り返しながら、ごく小さな無数の「?」を忘却し、誰かが大文字で叫ぶ「正しい世界」の下に埋め立てていく。
 例えば我々が自分の過去について考えることは、いわば世界の薄皮をその都度めくり、今でこそ自明だと思っているものがかつては決してそうではなかったことや、自分自身がどこから来てどの地点に立っているのかということを、きちんと思い出すことだ。記憶は過去のことしか語らないが、それをもとに発される言葉は未来を語ることができる。「正しい世界」というものがもしあるとしたら、それは記憶を捨象した暴力的な大文字の言葉の中ではなく、あらゆる個人が抱く固有の未来への祈りの中に、過去と未来をつないだ線上に存在するはずだ。思い出すことは、そこに向かおうとする/していた足どりを自ら取り戻すための方法でもある。
 ならば、我々が忘れ果ててきたかつての同胞について考えることもまた、この社会にとって同じ意味をもつのではないだろうか。
 今ならば、まだ。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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