国境線上の蟹 17
安東嵩史
15
ブラジル、その遠いエコー(5)
〜正しい世界が消え去った夜に(中)
「日本は勝っている」
1945年8月15日、太平洋戦争の〝終戦の日〟を境に、海の向こうのブラジル日系人社会に、こんな言葉が亡霊のように現れた。
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ブラジル政府により「敵性国民」として扱われ、日本人同士での集会や日本語教育、そして日本語新聞の発行やラジオの所持までも禁じられていた人々にとって、かろうじて没収を免れた数少ないものの家に集まって聞く「日本連戦連勝」の大本営発表だけが情報源だった。「祖国は必ず勝って、遠い異郷で耐える我々を迎えに来るのだ」——愛と郷愁、そして苦しみに耐えながら働いてきた異郷で突然に押し付けられた「敵性外国人」というレッテルに対抗する気持ちによって、「神国・日本」はそれこそまるで神そのもののような、移民たちの精神のよすがになっていた。
それゆえ、突然の敗戦の報に多くの人々は激しく動揺し、悲しみに打ちひしがれた。少し行動力のあるものは正確な情報を得ようと地方からサン・パウロまで出向き、状況把握をしようと躍起になる一方、移民社会には地方になればなるほど「つい最近まで連戦連勝だったものが負けるはずがない。これは何かのデマだ」という〝空気〟が醸成されていく。
8月19日にサン・パウロ近郊の日本移民に取材をした「ディアリオ・デ・サンパウロ」紙の記事によると、日本降服についてはブラジル人から聞かれても「知りません」と言葉を濁すものが大多数であったという。
〈やっと捕えた一人の発言は、「日本が降服したなどと絶対にありません」ということであった。そこで記者はたずねた。「だって東京ラジオがちゃんといっているじゃないか」「いまごろ、アメリカから日本語の巧妙な放送があるから、そんなものはあてになりません」「そんなら君らは陛下のメッセージにも信をおかないのか?」
「陛下のメッセージなんてあるはずがありません。みなデマですよ。日本の天皇陛下のおはじめになったことに誤りはありません」
という答え。はてさて、これは重大問題であると記者は書いていた〉
(『移民の生活の歴史』第3巻 半田知雄1970サンパウロ人文科学研究所)
断片的に入ってくる情報の行間をそれぞれが、それぞれの精神にとって都合のいいように埋め、敗戦はアメリカと、それに与するブラジルの報道機関が流したデマであり、実際には日本は「一億一心」の精神で敵を打ち破っていたのだという幾通りものストーリーが編まれた。
〈「もう各所で祝杯をあげている。われわれも今シャンパンを抜いてきたところだがね。アメリカの艦隊が六百隻とかほとんど全滅し、ハルゼイ長官が日本へ和を請うてきた……原子爆弾のことも、勅語(筆者注:終戦の玉音放送)のことも、みんなうそだった。だれもそんなことラジオで聞かなかったといっている」〉
〈「わしのうけとった日本語のニュースは、やっつけた船は四百隻、むろんウラジオは占領した。和を請うたのはトルーマンだった」〉
〈「日本からの勝報は、たしかにこの耳で聞いたというものがあるし、サン・ベルナルド方面にはよくはいる(筆者注:ラジオの電波が入る)のがある。ききに行ったものはみな確認して帰った。その一人から聞いたのだからまちがいない。日本からはいるのは七時三十五分ではなくて三十分のやつだ。……やっぱり連合国の陰謀だ、それにちがいない……」〉
(前出『移民の生活の歴史』より)
じきにサントスやリオ・デ・ジャネイロの港に、日本海軍の大艦隊が現れる。自分たちに手ひどい抑圧を加えたブラジル人を懲らしめ、我等を日本へと乗せて帰還するのだ——という、まことしやかな情報も流れた。ブラジルとの国交断絶と同時に自分たちを捨ててさっさと日本に引き上げた大使や外交官といった政府代表たちの背中を呆然と見送り、いわば「日本」そのものに棄てられたという感覚を深く覚えながらも、いつか故国に帰る日に一縷の望みを繋ごうとした人々。彼らはいつしか「勝ち組」や「信念派」と呼ばれることとなった。
一方、日本敗戦という現実を受け入れたものは「負け組」とか「認識派」と呼ばれた。彼らはどちらかといえば学のある部類の人々であり、すでにある程度商売で成功した人や移民社会におけるリーダー層が多かったためブラジル社会との関わりも比較的深く、冷静な状況判断が可能であった。戦争の帰結を知っている我々の感覚からすればこちらの方が大多数だと思ってしまいがちだが、実際にはまったく逆で、圧倒的少数だった。彼らももちろん「勝ち組」の人々と同じく「自分たちは棄てられた」という感覚を覚えてはいたが、日本の敗戦によりもはや帰国が叶わぬ夢となった以上、自分たちはブラジルに根をおろすしかないと考えた。
多くが「勝利」の現実離れした熱に浮かされていく中、そのことによって戦勝国であるブラジルで日本移民たちが生きにくくなってしまうことを懸念した「負け組」の人々は、懸命に「勝ち組」を説得しようとした。だが、このことは「勝ち組」にとっては「敵方のデマに踊らされ、祖国を辱める非国民の行い」と映り、様々な反発や混乱を招くことになる。
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日本勝利論が突如出現した背景としては先ほど述べたような移民たちの心理がだいぶ大きいが、中には「意図的に流された」と思しきデマもある。
〈八月二十日のリオのグローボ紙の記事が、そのまま(?)タイプで小さなカード形の紙に複製されて、チラシのように各所に配られてきたことであった。筆者がわざわざその新聞を買い求めて、原文と一字一句を照らし合わせてみると、おどろいたことには、コンマの位置をかえ、「a」という前置詞を一つとり去ることによって、いかにも連合国側「に」日本が降服勧告状を渡した、と読めるものであった。まったく知能犯的行為であった。〉
(前出『移民の生活の歴史』第3巻より)
なぜ、そのようなことが起こったのか。一つには、それによって得をするものがいたからだ。
日本の勝利を信じて疑わない移民たちは、「必ず日本円の相場が上がる」という考えから、または来るべき帰国に備えて、戦時中から日本紙幣を買い貯めていた。1円が4〜5ミルレース(ブラジルの通貨。現在はレアル)程度だった為替は2倍、3倍と上がり、最終的には7倍近くになっていく。そこにつけ込み、同じ日本人であるにもかかわらず円を同胞に高く売りつける「円売り」が登場した。戦後にはアルゼンチン経由で日本軍の軍票(軍発行の紙幣)も大量に持ち込まれ、いよいよ紙くず同様になったそれを地方の移民たちに法外な価格で売りつけるという事案も発生している。同じ日本人の手によるこうした詐欺事件で、何千万円という金額が騙し取られたのだ。
詐欺師たちは自らの説を補強するため、様々な偽造写真やフィルムも制作した。9月2日、東京湾に停泊したアメリカの戦艦ミズーリ号上で日本の降伏文書への調印が行われたが、そこに立ち会った外務大臣・重光葵以下日本の軍人は全員武装などしていなかったにもかかわらず、ブラジルでは彼らがサーベルを帯刀しているように合成し、当然礼儀としてこちらも非武装である米軍人たちが「負けたが故に武装解除されているのだ」としたり、たまたまアメリカの事務官が下を向いてお辞儀をしているような格好になっているところを「戦争に負けたアメリカの要人が謝罪しているのだ」とするような強引なキャプションで、詐欺師たちは「日本勝利」を捏造していった。
さらに「軍艦が迎えにくる」というので、地方の土地や家財一切をたたき売りのように言い値で処分してサン・パウロやサントスに集った人々もいた。これはなかば自発的行為でもあるので詐欺と同列には扱えないものの、ともかく、戦勝デマに踊らされた多くの人々が、それまでの人生のほとんどすべてともいえる財産を失ったことになる。
日本円の相場はやがて落ち着き、帰国の軍艦も迎えには来なかった。そして、惨劇の幕が開いた。
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〈船団入港の実証に失敗した勝ち組は、別に珍奇な趣向を用意して、世間の耳をそばだてさせた。T市の中心の公園で、樹の幹から幹に張った綱に、郡内の負け組と言われる二十数人の名を書いた位牌がつり下げられた〉
(「金瓶」 収『遠い声 ブラジル日本人作家 松井太郎小節選・続』松井太郎著、西成彦/細川周平編 2012 松籟社)
前章でも触れたが、戦時中から、その気配はあった。「敵国の工業に資する適正産業である」として、一部の日本人が同胞の運営するハッカ栽培や養蚕業の拠点を次々に襲撃するということが起こっていたのだが、その理論武装や指揮にあたったのが「興道社」という愛国運動団体だった。ブラジルに住む元軍人の中では最上級位に当たる脇山甚作元大佐、吉川順治元中佐、山内清雄元大尉といった人々が中心となって結成されたものだが、それが1945年の5月、日本の大政翼賛会との思想的つながりをもとに「臣道連盟」と改称、9月に正式発足する。「天皇の臣下たる道を守り抜く」という意味をもつのであろうこの団体の会員は終戦を機に怒涛の勢いで「勝ち組」が参加したことで膨れ上がり、7万とも10万とも言われた。
一方、敗戦認識派の人々は、日々強大化する「勝ち組」による揶揄や脅迫の中で何とか現実を周知しようとしてはいたが、それを裏付ける日本政府ないしは天皇の名による「敗戦」の公報のようなものは全く届かなかった。多くの人々はそれでも冷静に時局についての認識を広めようとし、サン・パウロから全国への遊説を行うなど積極的に働きかけたものの、状況が進展しない焦りゆえにやや過激さを帯びてしまうものもいたようで、ある移民一世の回想によると「皇居や二重橋はもう跡形もなくカボチャ畑になっている」「皇后陛下はマッカーサーの妾になっている」という極端な物言いもあったという。勢い、そうした言に限って多数派の「勝ち組」の中ですぐに広まり、対立はより先鋭化する。
1908年の笠戸丸移民から約40年、たゆまぬ労働や時代の趨勢の中で艱難辛苦をともにしてきたはずの日本移民社会は、完全に「故国の敗戦を言い募る国賊」「いつまでも夢想の中に逃げ込む愚者」とお互いを分断してしまった。
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臣道連盟はその名を冠した『臣道』という雑誌を刊行していたが、1946年の『臣道』新年号にはこんな論説が載っている。
〈在伯同胞の指導的重要地位にある名士にして、日本民族の今や将に成就せんとしつつある新秩序世界建設への反動的潮流の走狗となり奇怪極る言動を弄するもの〔あり〕と聞き伝えます。(中略)連盟同志諸氏よ、希(こいねがわ)くは、吉川理事長をたすけて、在伯同胞よりかかる不純物を一掃し徹底的浄化工作をなし、もって祖国一億一心の実に参与し、昿古の大業翼賛に奉公の誠を致すべく…〉
1946年3月7日、敗戦認識派の中心的人物であり、多方面で日本移民たちに現実を知らせようと努めていたバストス産業組合の溝部茂太専務が、自宅で射殺された。数日後、その容疑者として29歳の青年が検挙される。彼は臣道連盟に連なる人物で自らを「特攻隊」であると称しており、その名は瞬く間にブラジル各地に広がった。
これを皮切りに、認識派の中心人物たちへのテロ活動が活発化する。4月1日、元『ブラジル朝日』編集責任者であり、同じく認識派の中心にいながらその分け隔てない人格で「勝ち組」にも人気のあった野村忠三郎がサン・パウロ市内の自宅で5人の特攻隊員に襲われ、家族の目前で射殺された。同時刻に元アルゼンチン大使の古谷重綱も自宅で屋外から狙撃され、こちらは無事であった。この際に30代前半の特攻隊員2名が逮捕され、初めてブラジルの警察は臣道連盟という存在と、危うさを認識した。「ゲスタポ・ジャポネッサ(日本人のゲシュタポ)」と報道する新聞もあった。
この日は、襲撃自体が未遂に終わったものの、日本大使がブラジルを退去した後に実質的に在留邦人の世話役を務め、サン・パウロ司教の力を借りて不当逮捕による釈放後の住居や職業の斡旋、生活費の補助など政府が放棄した様々な法人救済活動を行なっていた元外交官で「海外興業」のブラジル支店長である宮腰千葉太の自宅も10名程度の特攻隊員に狙われていたということが、のちに明らかになっている。
4月17日、マリリア市で渋谷兼三、林久光、三浦勇の3名が銃撃される。4月30日、バストスの認識派の中心人物7名宅に爆弾入りの小箱が送られる。
5月には一連の事件を重く見たブラジルの官憲が臣道連盟の本部に一斉検挙に入り、指導層を軒並み逮捕。本部は壊滅状態となったが、特攻隊員たちのテロはもはや歯止めが効くものではなかった。
6月2日、臣道連盟の前身・興道社の結成にも関わった脇山甚作元大佐がサン・パウロの自宅で射殺される。在留する元軍人の中で最上級位にありながら敗戦後は冷静に時局を認め、現状認識を周知させようとしていた脇山の行動は「勝ち組」にとっては許しがたい転向であったかもしれない。20歳、22歳、26歳、30歳の4人の若者の訪問を受けた72歳の脇山は、彼らに「軍人として日本敗戦の宣伝は不忠ではないでしょうか」と短刀を差し出され、自決を求められたという。脇山がそれを拒否すると、若者たちは起立して発泡。最敬礼をしたのち、その足で自首した。
7月10日、ビラツキで2人射殺。11日、ビリグイで一人射殺、ミルアケースで一人射殺。16日、カラエランジャとボルボレーマで一人ずつ殺害。18日、ゼツリーナの植民地で一人射殺。23日、30日、31日、8月10日、16日……
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晴れて帰国するその日まで日本人としての誇りを持ち続けなければならないという心理の中、「勝ち組」の中に終戦後から流布された「勅語」がある。
〈在外同胞 互ニ相倚リ相扶ケ 私利ニハシラズ克ク困難辛苦ニ耐ヘ 以ッテ日本精神ノ美ヲ保有セヨ〉
「昭和二十年 八月三日」と日付されたもののおそらく終戦後に偽造されたものと思われ、どう見ても眉唾な「勅語」ではある。が、ここに示された「日本精神ノ美」がこのようなテロリズムへと収斂されていくという悲劇を、まさか作ったものも想像はしなかっただろう。
〈まもなく終戦一周年の八月十五日がくる。この日、ツパンから約二〇キロメートルの地点で集会をひらいた当地臣連の面々は、ラジオを囲んで日本からの戦勝一周年の記念放送を待ったのであるが、ついに期待にそう報道はなに一つ得られなかった。いよいよ不安にかられた彼らは、翌八月十六日、五人組の特攻隊をしてツパンの「敗戦ども」を襲撃させることにした。このとき殺害したもの二名、重傷者一名をだし、隊員のほうでは四名が逮捕され、残る一名だけ逃走することができた。
すでに特攻隊員も、かなり内心動揺していたので、もし敗戦が事実であって、自分たちの立場がなくなるなら、「敗戦ども」を死の道づれにしようというやけくそな気持ちもあったのである〉
(前出『移民の生活の歴史』第3巻より)
臣道連盟の「暗殺リスト」には23名の名前が記載されていたというが、そのリストになかった偶然の被害者も含め、死者・重軽傷者を合わせると相当に多くの人命が失われ、脅かされたことになる。その実行犯となった特攻隊、または挺身隊と呼ばれた暗殺者たちは、貧しく情報や教育の行き届かない地方の入植地から来た若者がほとんどであった。そして、殺されたり襲われたのは、ほとんどが戦前から日系社会においてそれなりの地位を獲得していた指導層の成功者たちであった。「日本勝利」の名のもとこの1年間に吹き荒れたテロリズムは、明らかに若年層による既得権益層への反発心を利用した、戦後の日系社会におけるクーデターの側面があったことを見逃すわけにはいかないのではないか。恵まれないもののフラストレーションを起爆剤として憎悪を焚きつけ、社会を制圧する。近代において、いや、この21世紀に入ってもよく見られる構図である。
臣道連盟の幹部連は逮捕・投獄ののち、46年8月に大西洋上の孤島に幽閉された。170名以上が国外追放(ただし日本への帰還は認められない)処分も受けたが、すでに彼らによって組織的にばらまかれてしまった疑念と憎悪と暴力の火種はそれぞれの場所で育ち、日系社会にさらなる分断を生んでいくことになる。
(次回に続きます)
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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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