国境線上の蟹 28

インタールード
神戸のこと(3)
〜「その後の世界」を生きる
 
 
 2014年の2月21日、突然飛び込んできたBさんの訃報を前に、自分は「何がなんだかわからない」という気分でいた。前日に道路を横断中に信号を無視して突っ込んできた車にはねられたのだという話は理解できたが、それが前日にも会っていた人の身に起こることだなどとは考えもしなかった。
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 自分が神戸に住んでいる頃から世話になっていたある店の名物スタッフであったBさんは、2004年に会社が東京に進出し、数々のメディアに登場するようになってもバリバリの神戸弁を操り続ける生粋の神戸人だった。
 首都圏で「関西弁」として認識されている言葉は概ね「大阪弁」と呼ばれる摂津方言の一種から地域ごとの細かな差異を漂白したようなもので、それを起点とすると、大阪〜兵庫〜岡山へと至るグラデーションの中で言葉は少しずつ山陽地方の響きを増してゆく。「神戸弁」は広い兵庫県の中でもほぼ神戸市のみに存在する言語圏で、それより西になると「播州弁」と言われ始める。Bさんの生まれも、確か長田のあたりだったと記憶している。会うたびに「最近、何がおもろい?」と訊ねてきては、何を話しても「めっちゃおもろいやん!」と楽しそうに笑う人だった。神戸の下町出身の男性はだいたい神戸を拠点とする山口組の動向に興味があるもので——というともちろん語弊があるのだが、体感上はかなりの確率でそうである——「最近、あいつらどうなっとん?」という話を特に好んだ。
 奇しくも同じ04年に頼る相手もなく神戸から東京へと居を移した自分にとって神戸の言葉を話せる空間が東京に出現したことはこの上ない救いであったし、彼が働いていた店は現在もそのまま、自分にとってそういう空間として存在している。

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 彼とは2011年3月11日、のちに東日本大震災と呼ばれることになる地震に一緒に遭遇した。
 その日、14時46分、我々はBさんと、やはり神戸出身の他のスタッフも交え、店舗の2階でいつものように世間話をしていた。と、突然、足元の地面がスッと質量をなくしたように思え、その後、少しの小さな揺れを挟んで、建物自体がグラグラと揺れ始めた。
 神戸出身のスタッフ2人の反応は尋常でなく速かった。「揺れが大きいぞ」となるや大声で「ご避難ください!」と店内の客を屋外に誘導し、避難させていく。彼らは、阪神・淡路大震災をその身で経験しているのだ。
 建物の外に出てみても、まだ揺れは収まらなかった。アスファルトの地面はまるでその内側で激しく波がぶつかり合うように揺さぶられ、木々はざわざわと、不穏に枝葉を擦り合わせている。少し先の角にあるカーブミラーは地上1メートルあたりを支点に、今にもそこからポキリと折れそうな勢いで大きく左右に、壊れた振り子のように揺れていた。世界が平衡を失っていた。
 その時、Bさんは突然、これまで聞いたことのないような声で「うおおお!止まれえええええええええ!」と叫びながら、両手を広げてガニ股で地面に踏ん張り始めた。それはまさに「裂帛」という言葉がふさわしい咆哮であった。姿形はひところ流行したインターネットミーム「マカンコウサッポウ」の中心にいる人物に近いやや残念なポーズだったが、その顔は真剣そのものであった。
 
 自分としては揺れそのものよりも、いつも調子いい兄ちゃん風に振る舞う彼が見せた抜き身のシリアスさのほうに「これはえらいことなのかもしれない」と思ったような気がする。が、おそらく彼の頭の中では、1995年1月17日の、あの朝の薄闇が揺れていたのだろうと思う。
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 震災後、自分は友人のプログラマーと一緒に緊急的な支援物資のマッチングプログラムのようなものを立ち上げ、現地のニーズを収集しながら物流を確保してほうぼうから物資を集め届ける、ということを始めた。震災から中1日で構築したwebサイトを追っかけでアップデートしていく仕様の打ち合わせや物資確保の交渉などを日常業務の合間に行いつつ、その間は電車がほぼ通常通りに動かない状態だったので、当時持っていたバイクで都内を駆けずり回った。営業しているところは数少ない、あったとしても運が悪ければ長蛇の列ができているガソリンスタンドをほとんど命綱のように渡り歩きながら、防寒用にはインナーダウンの上にウインドストッパーのベストを着て、ゴアテックスのアウターシェルを羽織っていた。それらは全てアウトドアにも造詣の深いBさんの勧めで買ったものだった。
「津波からは辛くも助かったものの波に靴をさらわれ、瓦礫や破片だらけの街を歩けないという人も多い」と聞いてBさんに相談すると、いつもの調子で「めっちゃええやん!」と言いながら、即、自社で取り扱っているブーツを大量に提供してくれた。「頑張ってな」と言われ、自分は「神戸のときは何もでけへんかったんで」という返事をしたと思う。実際、神戸の震災に対する「何もできなかった」という感情は大いに抱いたまま生きていたし、東北の震災に際しても、当初はその気持ちによって行動していたように思う。
 だが、その矛盾と自問は、すぐに自らのうちで形を取り始めた。
「神戸のときに何もできなかったその代償行為として、自分は東北に関わり始めているのではないか」
 
 とはいえ、もう走り始めた話だ。そんな思いを抱きながらも、とりあえず特定の物資の欠乏が直接的に人の生存に関わらなくなる段階まではやろう——ということだけは決め、何も考えずにその期間を乗り切った。
 その関係でそれまで縁もゆかりもなかった東北を実際に訪れる機会ができ、その場所に起こった出来事やそこにあった暮らし、そして多くを失いながらもなおそこで輝く一つひとつの生を目の当たりにして、自分の中で「東北」あるいは「被災地」という漠然としたイメージはようやく仙台や石巻、相馬といった個々の場所、そこで出会った一人ひとりの顔となり声となり、固有の明確な形をとっていった。
 もはや、それを「何もできなかった」という無力感や取り返しのつかなさの代償になどすることはできない。いや、達成されなかった何かに対する思いを他の何かに託すことなど、そもそもしてはならないのだ。時間は遡行しないし、同じ時の流れの中で我にも彼にも等しく降り積もった物事を無であるかのように扱って手前勝手な思いを重ねることなど、許されはしない。そう思いながらも「自分は本当にそうでないと言えるのか」という問いに対する答えは、いつまでも出なかった。
 ようやく少し日々が落ち着き始めた頃、Bさんの店を訪ねてその節の礼を述べるとともに、そんな自らの気づきと後ろめたさもやや冗談めかして語ったことがある。「『これ違うな、あかんな』と思いつつ、やっぱ神戸のこと考えてしまったんですよね」という程度に、あくまで軽い話としてだが。Bさんは少しの間考えると、こう言った。「でもまあ、それで助かった人がおるんやから、結果ええんちゃうかな。神戸もいろんな人に助けてもらったしな」簡単な言葉ではあったが、その言葉で自分が「何もできなかった」と思い続けてきた時間をも「等しく降り積もった物事」として相対化できた気がした。
 たった今隣にいる人間にも、一度も出会うことなく一生を終えるこの世界のほとんどの人間にも等しく時間は流れ、物事の「理由」がそれぞれに降り積もっている。他者に流れたその時間を尊重するべきなのは大前提として、いっぽうで自分に流れた時間とその結果としての今をもきちんと認めるという地平に立って初めて、本当の意味で我々は共にあることができるのかもしれない。

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 その後、事あるごとに「震災の日の、あのポーズなんやったんすか」と訊いてみようと思いつつ、なんとなく訊く機会のないまま普通に付き合いを続けていた。あまりに唐突にやってくる別れのことなど、考えもしなかった。
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 毎年、3月11日には余程のことがない限り仙台や塩竃に顔を出す。震災以降にできた繋がりによって、そもそも縁もゆかりもなかったはずの東北は今では国内でいえば最も頻繁に訪れる地域となっており、結局毎年、この日に合わせて誰かが何かを催す際に呼んでもらったり、導かれるように何かしらの用事ができたりする。
 震災などというものは、基本的にはどう考えても「起こらないほうがよかった出来事」だ。その場所に流れた時間と、その後も続くはずだった多くの人生がそれこそあまりに唐突に、一瞬にして暴力的に途絶させられたのだから。
 だが、あれから8年という年月が過ぎようとしている今、私たちはどうしても、同時に「その後に流れた時間」のことを考えざるを得ない。微々たるものである自分のことだけでも数え切れないほどの物事について考えが変わり、多くの人と出会って多くのことを知り、少しのものを手放しもし、そして現在このようなことを考えて書く自分に至っている。決して少なくない数の定量的・定性的な変化が、あの震災によって方向づけられたという自覚がある。社会全体でいえば、あのことによって方向づけられた善きものは数え切れないだろう。それもまた、その年月にそれだけの「理由」が降り積もったことの証左だ。
 一方で、だからと言って私たちはすべてをそれで解決することなどできはしない。震災に限らず「何かが起こってしまった」その日から現在へと至る道の途中で分岐し、可能性の地平の向こうへと去っていったそれぞれの大切な人々、いわば失われたほうの「理由」のことをどこかで考えたり、ふと思い出したり、人によっては「あの時ああしていれば」という悔恨も抱えながら生きている。「あのポーズのこと、聞いとけばよかったな」みたいなことも含めて。
 それぞれが過ごした「その後の時間」が形作った世界のどこか、空中や物陰や、あるいは人の心の中といった目には見えにくく言葉にもしにくい場所に、そうした固有の割り切れなさが寄り集まって、本当の意味で「その後の世界」を作っている。例えば毎年1月17日の早朝に神戸市の東遊園地に集まる人々が持ち寄る蝋燭の灯火に、例えば毎年3月11日に三陸地方の沿岸に集まっては目の前で踊る春の海の彼方を見やる人々の背中に、私たちはそれを見る。

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 旧ユーゴスラヴィアを代表する作家ダニロ・キシュは生涯、アウシュヴィッツに送られて二度と帰ってこなかった父親のことを踏まえて作品を書き続けた人だ。彼の代表作のひとつ「死者の百科事典」(山崎佳代子訳、1999 東京創元社)は、この世に生まれて死んでいったあらゆる無名の人々の人生をまとめた百科事典の中から自分の父親のものに出会った主人公がその思いを友人への手紙にしたためるというスタイルをとっているが、その中でキシュはこのようなことを述べている。
〈人は誰もが自分自身の星で、すべてはいつでも起きることで二度と起きないことなのです。
(すべては繰り返される、限りなく、類いなく、だからこの壮大な相違の記念碑、『死者の百科事典』の編者たちは個なるものにこだわるのです)〉
 事故に病気、震災、戦争、ホロコーストとどれほどに悲劇の単位が大きくなろうと、そこで失われてゆくのはすべて固有の生命や記憶、時間といったものたちである。それらを一色で塗りつぶすことなく〈個なるものにこだわる〉こと、その割り切れなさについて当惑しながらも考え続けることが「その後の世界」を作ってゆく。
 そういう意味では、私たちは常に、いなくなった人々とともに「その後の世界」を作っている。誰かの不在に当惑しつつ、その誰かの残した固有の記憶を呼び起こしたり、その考え方を参照したりもしながら言動を決定し、相も変わらず共にある。だからこそ、〈個なるもの〉を大きな時代の言葉に売り渡すわけにはいかないのだ。いなくなった人を、本当の意味で失わないために。小さな固有の言葉を重ねて、それを守らなければならないのだ。
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 あの日、燃えてゆく神戸の街を見ながら自分の中で始まった考えは、世界のいくつかの場所を見て、東北との出会いを経て、いくらかの人や物事との別れを経験しながら、今そんな地点にいる。5回目の命日に、そんなことを考えながら書いている。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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