国境線上の蟹 29

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機能性の荒野で
 
 2018年8月のよく晴れた日に三陸地方の太平洋岸、宮城県気仙沼市から北上する海沿いの国道45号線を走って、岩手県陸前高田市へと向かった。
 陸前高田の街をちゃんと訪れるのは初めてだ。震災以降にできた縁によって気仙沼まで訪れたことはたびたびあれど、県境を越えることはなかった。
 唐桑半島を横目に一路北へと向かうと、「きらめくような」とはまさにこのことかと言わんばかりに陽光を跳ね返し、木々の向こうから時おり、真夏の海が顔を覗かせはじめる。合間に休憩がてら近場の漁港へと下れば、今でもひしゃげたままの鉄柵以外にはあの日の痕跡など何も残すことなく、静かに海は広がる。

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 2011年3月11日、陸前高田は沿岸部の諸都市と同じく、東日本大震災が引き起こした大津波に襲われた。高さ18メートルの津波によって数多くの人が犠牲となり、平野部に位置していた市街地は壊滅した。
 それ以上のことについて、自分が知った顔で語れることは何もない。データや分析を並べ立てて文字を連ねていくことはいくらでもできるだろうが、その行為に意味があるとも思えない。
 あの震災について何かを俯瞰的に語ろうとするとき、少しでも想像力を働かせることのできる人であれば、その途方もない無意味に気づくだろう。便宜上「2万人以上の死者」という言葉や、集計の形式によって10兆〜25兆円の間を行ったり来たりする被害総額といった表現をすることはあったとしても、本質的には、あのできごとはそんな数値に回収できようはずもない一つひとつの生、一人ひとりの思いとともにある。2万以上の、それぞれ一つの生が突然に/永遠に失われ、いっぽうでそれ以外の私たちは一人ひとりが何かに直面し、何らかの思いを抱き、そしてその後の時間を生きてきた。そうしたものの総体として、あの震災はある。今でも、ある。私たちが本当に語れることは、そんな個人的なことばかりなのだ。
 それゆえ、陸前高田という街に流れてきた時間や、そこに暮らす人々の思いについても、この街に深く関わってくることのなかった自分には何ら語る権利も、理由もない。それは例えば、この街を故郷とする写真家・畠山直哉が「その後の風景」を撮り続けた写真集『陸前高田 2011−2014』(2015 河出書房新社)やあの日に断ち切られてしまった時間の「前」と「後」について考え抜いた結果として形にした大作展示『まっぷたつの風景』(2016〜2017 せんだいメディアテーク)、または震災を機にこの街に移住し、流れゆく時間の中でこの街に暮らす人々の声を丹念に聞き取りながら言葉を紡いできた美術家・瀬尾夏美の『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(2019 晶文社)など、理由のある人々がきちんと形にしている。あるいは別に文章や写真、メディアの形になどならなくても、この街とともに生きてきたすべての人々が体現している。

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 自分がこの街を訪れたのは、ある演劇の仕事(結局その後流れてしまったので、ここに書いているのだが)の構想を練るため、この場所を訪れておきたかったからだ。震災後の世界——というより、あの日から地続きの現在を生きるものとして、12.5メートルの防潮堤を築くとともに、壊滅した市街地をさらに一度まっさらな平地にし、山を削って巨大なベルトコンベアで運んできた土砂を用いて市街地をもとの海抜から10〜12メートル嵩上げして新しい街を築くという「復興」のかたちを、この目で見ておかなければならないという思いがあった。
 急峻な山合いに入った国道45号線を走り、視界が開けると、眼下には陸前高田を流れる気仙川。そして、かつては市街地や広がっていたであろう、一面の茶色い平野があった。津波に耐えて立ち姿を保ったことで復興のシンボルとされた「奇跡の一本松」という大きなアイマツ——その後、震災の際のダメージと満潮時の浸水により枯死し、今ではコンクリートによる補強でその姿を保っているだけのモニュメントである——への観光拠点としてドライブ客で賑わう道の駅を横目に左にハンドルを切ると、そこには一面の、黄土色の大地が広がる。嵩上げのための土砂と土嚢と、動いていない工事車両の。
 バイパスを上り、津波の被害を免れた高台へと移転した陸前高田の市役所でいくつか話を伺って地域の情報を収集し、新たに作られた高台移住者用の公営住宅や、プレハブの復興酒場などを見てまわってから高台を下り、嵩上げ地へと向かった。先ほど上ってきたバイパスを逆方向に進み、市街地の入り口という表示が指すほうにハンドルを切ると、広大な平地のようになった嵩上げ地の中心部に唐突な島のように浮かぶ、スーパーやいくつかの飲食店が集積したエリアが見えてきた。かつてはここに——正確にはここから12メートル直下に、JR大船渡線の陸前高田駅と、陸前高田の市街地が存在した。駅舎は震災後、いったん高台の別の場所に置かれたが、もともと駅があった場所の付近でもある嵩上げ地の上に再建され、電車の復旧の見込みはいまだ立っていないながらもBRT(高速バス)が発着する場所として機能している。
 当初は2018年に終了するはずだった嵩上げ工事は、「復興五輪」を掲げた東京オリンピックの開催決定によって建築資材や人員などが不足・高騰したことによって工程の変更を余儀なくされ、2020年の終了予定となっている。だが、自分が訪れた8月時点においても、このショッピングセンターを除いては嵩上げ地の造成も、道の駅を含むその足元部分——かつては住宅地が広がっていたエリアに作られるはずの復興祈念公園などの工事も、何ひとつ終わる気配は見えない。普段は工事車両が動いているのだろうが、盆の期間ゆえに稼働している車両はなく、奇妙な静けさが街、というかまだ「区画」と呼んだほうが適切なこの場所を包んでいた。
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 嵩上げ地の突端に建てられた祠のような追悼施設の横手に立ち、祈念公園の予定地と、その先に見えるはずの海を見渡してみる。延々と続く平地と化した、かつて数千人が居住した住宅地——そこにあった営みの痕跡は何ひとつなく、ただ掘削や集積や積込といった土工の作業のみが見える場所を抜けて、海からの風が強く吹き上げる。
 被災地と呼ばれるいくつかの土地で、津波であらゆるものが破壊されたあとの広大な「無」の風景を見てきたが、現在ここで起こっていることは、それともまた違う種類のことである気がした。もともとこの土地にあった暮らしの痕跡や記憶をすべて埋め立てながら、この土地のことなど何ひとつ考慮しないものが空々しく叫ぶ「復興五輪」の余波に翻弄されながら進んでいく工事。完成の遅れとともに別の土地に居を構える決意をした住民も増え、嵩上げ地に造成予定の住宅予定地の分譲は当初予測を4割近く下回っているという。今年2月の市長選挙で3選を果たした戸羽太市長は遅れの目立つ嵩上げ工事の他に7階建ての新市庁舎の建設計画などもあることを問われ「国の定めた(21年3月までの)復興期間を過ぎてしまったら、国からの財政支援が出なくなる」という旨の説明を行った。他人の定めた「復興期間」に間に合うかどうかという外的基準に依拠して進行する、必ずしも市民の総意ではない工事。戸羽市長は「身の丈に合った復興」を唱える対立候補に勝利はしたが、両者の得票は6504票対6499票。差はわずか5票だった。
 繰り返すが、陸前高田という街に流れてきた時間や、そこに暮らす人々の思いについても、この街に深く関わってくることのなかった自分には何ら語る権利も、理由もない。この工事の実効性やいずれ出てくるであろう結果的な事象についての個人的な意見はあれど、その是非はこの街に関わり、この街を作っていく人々のみが判断することだ。
 ただ、自分はかつてない規模で破壊された街が、さらにかつてない規模で埋め立てられていく光景を見たというだけだ。そして、その結果として地上に突如現出した、新しい荒野を。
 それは極めて、私たちの近現代史に似ている。もともとそこにあった街——それは単なる「機能」のことを指すのではなく、そこにいた人々の声や交わされた言葉、集積された記憶のことでもある——を埋め立て、そこに極端に「機能」に偏ったものを新しく作り、人々を移植しようとする試み。もちろん、津波という不可抗力によって壊滅した以上、ある程度大規模な工事は仕方のないことではある。だが、むしろそうであればあるほど、津波の前にあった種々の文脈をまるで「なかったこと」であるかのようにして姿を現したその場所が、どうしても「機能性の荒野」に見えて仕方がない。過去に蓄積されてきた文脈や価値をすべて「古いから無意味である」と断じ、来し方も忘却したまま未来のほうへのみ世の中を動かそうとするものこそを、過去の哲学者は「ニヒリズム」と呼んだ。その帰結と繰り返しは、私たちがまさに歴史の中に——その過ちの中に見てきた通りだ。 

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 だが、同時に、私たちの歴史は荒野の上にも新たな文脈や価値を少しずつ植え付け、水の流れる道を掘り、耕してきた歴史でもある。どれほど失敗した都市計画であろうと、その場所を選び、種をまくように少しずつ人生を乗せてゆくそれぞれの固有の生に対して、自分やあなたのような他者はまた何ひとつ言う権利を持たない。それが「機能性の荒野」と化した街とかつてそこにあった故郷の姿をつなごうとする切実なる営為であるとするならば、余計に。
 この日はちょうど盆の初日だった。スーパーの広大な駐車場にはそう少なくない数の駐車があり、ちょうど昼時だったこともあってか隣接する飲食店群のうち夏休みを取らず営業している店舗には、どれも行列ができている。水でも買おうとスーパーに入ると、「おかえりなさい、故郷へ」という大きな垂れ幕が吊るされていた。店の入り口近くには、紅白に塗り分けられた木材のような見慣れないものがカートに入って山積みにされている。手に取ってみると驚くほど軽く、葦のようなイネ科の植物の茎を乾燥させたもののようだ。商品にはなんの説明もなく「らっちょく」と書いてあり、この地方ではほとんど自明の存在であることがわかる。調べてみると、この地域でお盆の迎え火や送り火として焚くものらしい。12メートルの土砂の上に虚空から突如現れたようなこの街も、やはり誰かの帰るべき故郷を規定する風景になってゆくことには間違いない。
 だが、一方でやはり、もう一つの側の人々——すなわちその復興像に乗れない人や「これは自分の知っている故郷ではない」と感じてしまう人々の魂のゆくえについて、私たちは考えざるを得ない時を迎えている。声高に繰り返される「復興」「発展」といったその言葉自体は決してネガティブなものではないはずのお題目に対して、しかし誰かが必ず抱く小さな違和をことごとく無視して進んできた私たちの社会の果てに、この景色はある。この街がその極端な例に見えるというだけで、実は私たちの住む社会はほとんど全体的にそうなっているし、そのことと近現代史におけるあらゆる悲劇の類との距離はそう遠くないように見える。
 誰かが大きな声で一つの方向に向かって世界を定義し、あるいは正しいものとそうでないものを切り分けた瞬間に「難民」は発生する。
 ヒトラーが「今こそアーリア人の国を築くときだ」という言葉を発したことによってユダヤ難民が発生したように、「テクノロジーの時代だ」とされれば最新のテクノロジーに適応できないものは難民化し、「多様性の時代だ」と言われてもなお自分の多様性の解釈を他者に押し付けるものが生まれ、それに居心地の悪くなったものはやはり難民化する。別に住む場所を追われることはなくとも、自分の居場所を失うような感覚というのは、大げさでなく難民化に近い。
 同様に、「この形の復興こそが唯一の選択肢である」というような顔で進んでいくものごとに、もしかしたら陸前高田に限らずあちこちの被災地で違和やストレス、あるいは憤りを覚えながら徐々にその流れに乗れなくなっていく、いわば「復興」からの難民とでもいうべき人々も、おそらく存在するはずだ。
 放っておけば捨象されてしまうそうした人々の寄る辺なさに対して、利便性や功利といった「機能性の荒野」の産物は、おそらく根本的に有効な解を持たない。そこに何らかの回路を見出しうるとしたら、それは社会的には法や制度といったシステムの設計思想の役割であり、そしてより本質的にはそのベースとなる情や知といった、一見すぐには役に立たないことを承知でこの社会が積み上げてきた物事の役割のはずだ。そのことを、私たちの近代はどれだけ自らに課してきたか。

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 8月の酷薄な太陽がじりじりと照りつける中、やや暑さで朦朧としつつ「機能性の荒野」が広がる嵩上げ地の周縁部や、過去の痕跡を残らず引き剥がされたそのふもとの平地を歩く。時折通る車以外には人気のまったくない黄土色の大地だが、実はあちこちに人型の影があることに気づいた。
 工事中であることを示す単管バリケード(仕切り)にあしらわれた、樹脂製の河童だ。
 この街はほぼ全域が工事中であり、いきおいおびただしい数のバリケードが存在するが、そのほとんど全てが、河童のキャラクターをあしらっている。見渡せど見渡せど、河童。このタイプのバリケードを見るようになったのはここ10年くらいのことだが、その可愛らしさが好評らしくバリエーションも増えているようで、サルやウサギなどといった定番の動物の他に、その土地土地に合わせたものを目にすることもある。自分は新潟ではトキのバージョンを見たし、沖縄ではシーサーを見た。この街のそれが河童だらけなのは、おそらく日本民俗学の草分けである柳田國男が1910年に発表した説話集『遠野物語』で河童の里としていくつかの伝承を紹介したことでも有名な遠野を擁する岩手県ならではなのだろう。見渡せど見渡せど、河童。整然と立ち並んだり、横倒しになって泥に埋もれたり、繁る夏草の陰に隠れたりする、河童。河童河童河童河童河童河童河童河童。
 日本全国に存在する河童伝承の成り立ちには不明点が多いが、その大雑把な捉えられかたとしては水辺に住んで悪さをしたり、ときには人間を助けたりする妖怪や精霊といったところだろう。柳田は『遠野物語』の序文において、当時急速に広まりつつあった近代風=西洋式の生活習慣や思考への批判も込め、このような一文を記している。
〈国内の山村にして遠野より更に物深きところには又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ〉
「平地人」というのは実際に平地=都市に住んでいる人という意味でもあり、同時に過去の全てを更地にして「なかったこと」にした上に生きる我々近代人への警句でもある。そこにあったのは自然への畏れ、私たちの理解の埒外にあるものごとへのまなざし。
「平地人」が推し進めていった時代、すなわち近代の感覚=機能的かつ直線的な進歩こそが唯一の善であるとして突き進む時代にいまいち乗ることのできない「難民たち」を見つめる視線の表象としても、柳田民俗学の中の妖怪たちはあった。
 その河童が、今おびただしい数をもって、この「機能性の荒野」に立ち並んでいる。彼らが生息した水辺ともども、過去に蓄積されたあらゆる情や知とともに生きてきたこの土地のすべてを更地にして埋め立てた上に現出しようとするこの街に、ペラペラの樹脂製の、何から何まで個体ごとに差異のない、実に機能的な姿をして。
 これは彼らの敗北なのか、それとも再臨なのか。
 当然ながらのっぺりとデフォルメされたその姿からは、何も読み取ることができない。ただ照りつける太陽と、人気のない大地と、人間の数をはるかに超えた河童河童河童。その光景を作り出した近代の前で「何ひとつ、裁くことなどできはしないのだ」という思いにとらわれながら、カラカラに乾きそうな頭からペットボトルの水をかぶった。





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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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