国境線上の蟹 30

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奪う言葉、奪われる言葉
 
 最近、雑司が谷の街を歩くことが多い。
 日本の文化庁主催で日本・中国・韓国の3か国が例年各国のそれぞれ一都市を舞台として行う「東アジア文化都市」というプロジェクトがあるが、2019年は東京の豊島区を舞台としたプログラムが企画されており、自分には雑司が谷を舞台とした企画のドラマトゥルクとして依頼がきたことがきっかけである。江戸時代から伝わる雑司が谷の伝統行事「御会式」をベースにおき、日本人はもとより豊島区に多く在住する中華系移民を中心とした在留外国人をその歴史へと接続していくためのリサーチとパフォーマンスの企画だ。
 池袋を中心とする豊島区周辺は、古くから中華圏からの移民が数多く暮らすエリアだ。2017年1月の統計によると、中国人(日本においては台湾出身者もここに含む)の在留者は13152人。ベスト5を挙げると以下にベトナムの3237人、ネパールの2832人、韓国・朝鮮の2539人、ミャンマーの1783人と続く。これは国籍をベースにしたデータなので、日本に帰化した人などを含めるとこの限りではないが、これらの国の人たちだけで豊島区の総人口の約8%を占める。池袋のような繁華街から雑司が谷のような古くからの住宅街に至るまで、様々なエスニシティの混交によってこのエリアは成立している。
 本企画ではその中でも最大勢力である中華圏出身者への聞き取りを重点的に行い、それぞれの個人史の中にある「中国(あるいは台湾)」と「日本(〜豊島)」の姿を考えながらプログラムを構成していくことを試みている。本プロジェクトには上海からシャオ・クゥ&ツゥ・ハンというパフォーマンスアーティストのユニットも参加しており、4月の間は彼らを中心として中国語による聞き取りを行っていた。
 そんなある日、聞き取りの結果について話しながら企画のフレームを考えていると、シャオ・クゥがこんなことを話しはじめた。
 豊島区にはいくつかの小学校があるが、このエリアの人口比を反映して、多くの学校では児童の構成もかなり多国籍である。そんな背景を知ってある小学校を訪れたシャオ・クゥは、数人の友人(おそらく日本人の子弟だろう)といる中国人の児童を見つけ、中国語で声をかけたという。すると、児童は明らかに一瞬それを聞き分けた様子だったが、すぐに「わからない」という顔をした。それでも話しかける彼女に対し、児童は「この人、何言ってんの? わかんない!」と大声で友人たちに話しかけると、そのまま顔を背けて「あっち行こう」と友人の輪の中に入っていった。
 シャオ・クゥはその話をしながら、終始「合点がいかない」という顔をしていた。「私の言っていることはわかったはずなのに」と。
 自分自身にも覚えがあるが、小学校2〜3年生くらいの児童というものは、まだまだ社会性の育っていない生き物だ。もちろん見知らぬ他人から話しかけられて即座に快活に話せるものもいるが、そういうときに当惑や気恥ずかしさを覚え、沈黙したり、適当な冗談を言ってはぐらかしたりということはあるだろう。先日、知人が6歳の子供づれで歩くところに遭遇した際、その子に「こんにちは」と言っても返事はなく、その代わりに「シャッ! タァ!」と、今習っているという空手のポーズを決められたりもした。
 
 だが、児童の言動がそういう理由からとられたものでないとしたら、ましてや自分に投げかけられた母語をあえて無視して「わかんない!」とわざわざ日本語で言ったのだとしたら、その背景を察することは多少の気の重さを伴う。本人はそこまで明確に意図していないとしても、そのふるまいからは周囲の日本人児童に対するパフォーマンスのようなニュアンスを嗅ぎとらざるを得ないからだ。すなわち、その奥にある、「自分は日本語話者であり、日本語の世界に順応している」と表明することで自分の身を守らねばならないという意思を。

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 日本生まれ日本育ちの在日中国人二世の知人が、幼いころ公立の幼稚園に入った当初、級友たちから「アイウエオ!」「カキクケコ!」と連呼され続けていたことを今でも忘れないと語ってくれたことがある。「ちょっと自分たちと名前やアクセントが違うだけで『ガイジン』扱いやったもんな。ひどいのが、先生まで『Kくんにはゆっくりしゃべってあげなさい!』とか言うてたわ。まあ、俺はこんなんやから、すぐにいじめっ子になってもうたけどな。ハハ」
 別の知人の友人(在日コリアン、女性)は、幼児期に最初に他者が自分を呼ぶ言葉として認識した日本語が「バカ」だったという。自分と同じように言葉を喋れないからバカだ、というわけだ。学生時代に知り合った在日コリアンの友人の家で飲んでいると、その兄が酔っ払って絡んできたことがある。三十近くなってもフリーターで酒癖も悪く、家族の中でもやや持て余されている風だった。もう三世であり、韓国語は一言も喋れない彼が「日本人なんて大嫌いや」というので、その執拗な絡みにややうんざりしていた自分は「そうはいっても、日本語喋ってるやないですか」と、いまにして思えば突っかかった。彼の答えは、こうだ。「お前らがこうしたんやないか!」
 こうした話は、おそらくこの国には無数に転がっている。
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 テキサス州の南のはずれに、マーファという街がある。
 メキシコから広がるチワワ砂漠の只中にポツンと浮かぶ、エル・パソやヒューストン、あるいはサン・アントニオといった近隣のあらゆる大都市から最低でも3時間半は不毛の荒野を疾走しなければたどり着けないこの街は、1880年代に蒸気機関車のための水の補給地として築かれた。その後も近隣の牧場主やカウボーイの拠点として少しずつ発展を続けたが、第一次世界大戦後の1919年にアメリカ軍の軍用空港(当時はまだUS Air Force=空軍ではなくUS Army Air Service=陸軍航空部だった)が築かれ、パイロットの訓練施設などができたことでダンスホールや教会、ホテルなどが立地。その最盛期を迎えた。
 そんな1919年当時、ここから目と鼻の先にあるメキシコは騒乱の只中にあった。1877年以降この国の独裁者であったポルフィリオ・ディアスを退陣させた1911年の革命は成功したものの、新政府は土地と食べ物を求めて革命に参加した農民たちを満足させることができず、内部の権力闘争も相まって革命軍は分裂。それ以降、革命軍のいくつかの派閥と保守派の大地主なども巻き込んだ血みどろの内戦が、まだ続いていた。
 余談だが、その中には一攫千金の夢に敗れてメキシコ国内を放浪した挙句、この戦争に参加した日本人移民たちの姿も、ちらほら見かけられた。沖縄から海外に移住していったある一族の足跡を膨大な資料をもとに年代記としてまとめた上野英信による移民記録書のマスターピース『眉屋私記』(1984 潮出版社)のなかでは、この戦争に傭兵として参加した山入端萬栄という一人の男の足跡を通じて、メキシコ革命の顛末がまるまる一章を割いて書かれている。
 相次いで誕生しては倒れていく革命派政権の中にはアメリカ政府の援助や承認を受けたものもあり、そのうちそれに反発する別の革命派がしばしば国境を越え、アメリカ側の街に攻め込むという事態も起こる。アメリカ側からは「Border War(国境戦争)」と表現されるその騒乱は約9年続き、両国の軍人だけでなく市民などにも犠牲者の出る事態となっていた。この対策として偵察飛行の基地が必要だったために、マーファの空港は建設されたのだった。
 メキシコ革命や国境戦争が沈静化した1920年代になるとその役目はパイロットの訓練拠点に変わったが、1945年には閉鎖され、マーファは忘れられた街になっていく。次にこの街の名前が人々の口に上るようになるのは1971年、ミニマルアーティストのドナルド・ジャッドがこの地にアトリエを構えて以降。その後少しずつギャラリーやアート・コンプレックス、常設の作品なども増え、現在はアート愛好者たちの巡礼地となっている。有名なのは街から30〜40分ほど走ったところにある「Prada Marfa」だろう。2005年にドイツ人アーティストによって建てられたこのインスタレーションは、プラダの店舗をほぼ完全に商品までコピーして砂漠の真ん中に建てることで、物質的消費に奔走する現代社会を批判するというものだ。ところで、街の主要産業はアートや観光を除けば建設業・農業や狩猟などで、貧困率は2019年5月現在、20%少々である。

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 自分は街外れの、小ぎれいにオーガナイズされたキャンプ施設に宿を取り、割り当てられたテントで何日かを過ごしていた。砂漠の夜は冷え込むが、朝日が出て程なく、テントの中は一気に蒸し風呂のように暑くなる。慌てて換気用の窓を開け、風を通しておいて顔を洗いに出かけ、その後は朝のコーヒーを飲んだり、小腹が空いたら少し歩いたところにあるブリトーの店、その名も「マーファ・ブリトー」へと、車道の向こうに広がる景色を眺めながら向かう。景色といってもそこにあるのは一面の荒野なのだから、何も見ていないのと同じとも言える。どこまでも何もやることのない、完璧な朝だ——無慈悲に追いかけてくる日本からの仕事の連絡を無視しさえすれば。
「マーファ・ブリトー」はそこそこの人気店で、薄暗い店内には朝から何組かの客がいる。首にバンダナを巻き、チェックシャツにデニムベストを羽織った正統派カウボーイ風のブロンド白人青年、ジャッド・ファウンデーションやその他のギャラリーへのアートトリップを目当てにやってきたであろうこぎれいな観光客、そして間抜けなメキシカン柄のナイトガウンを着たまま間抜けなサンダルで歩いてきた間抜けな東洋人である自分だ。店は3〜4人のメキシコ系の女性が忙しく切り盛りしている。毎朝決まってマッシュポテトとビーンズ、ピクルスなどが巻かれた「プリモ」を頼み、庭のテラスに座る。やがて、500ミリリットルのペットボトルほどもあるブリトーが出来上がると、それを頬張りながら、引き続き完璧な朝を謳歌する。そろそろ道向こうのガススタンドが営業を開始するのか、やはりメキシコ系のスタッフが掃除を始める。そうこうするうちに日が昇り、砂漠の向こうから風と光と、カウボーイのバンダナは単なるファッションアイテムではないことを思い知らせるかのような砂埃がやってくる。
 国境付近の他の街の例に漏れず、この街にも多数のヒスパニックやラティーノの居住者がいる。というよりは、この街の最大勢力である。2017年の調査によれば、全人口のうち彼らが70%あまりを占め、白人は30%弱しかいない。19世紀半ばにこの荒野を置き去りにして砂漠の向こうまで後退していったメキシコや、その向こうの中米諸国からやってきた移民たちも多く住んでいる。メキシコ人の子孫であるチカーノや、その他のラティーノたちの比率が高くなるのは当然だろう。この街の人口は1885人と大枠では減少を続けているが、おそらく減っているのは白人だ。アメリカの国勢調査によると、この街の退役軍人の半数以上は第二次世界大戦の従軍者であり、朝鮮やベトナム戦争の従軍者もいるものの、湾岸戦争以降はゼロ。つまり、完全な高齢化自治体である。平日の午後などはあまりに暑いため人通りもほとんどなく、長々と差しては翳りゆく西日と乾いた風だけが、調子はずれのワルツのように踊っている。
 いっぽう、アートギャラリーやデザインホテル、アート書店、ブティックなどで働いているのも、だいたいが白人である。自分のような旅人はスーパーのレジやガススタンド、工事現場や飲食店などでしかチカーノの姿を見ることはなく、一見すると、そこまで多いとは感じにくい。アーティストやアート愛好家が集まる街として話題にはなっているものの、彼らが地元のチカーノと交わる機会はあまりないままに、アートの街としてのイメージだけがヒップスターのブログやInstagramによって世に流布していく。この街において起こりつつあるのは、再開発の激しい都市空間とはまた違ったイメージのジェントリフィケーションであるような気もする。

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 この街にブラックウェル・スクールという、現在は地域の資料館のようになっている煉瓦造りの建物がある。
 この建物はその名の通り、かつて学校だった。マーファの街ができて数年後に白人の子弟のための初等教育を施す学校が設立されたものの、チカーノの子供たちに教育の機会は与えられず、教育委員会が資金集めに奔走した結果、1909年に設立されたのがこの学校だ。そんなことをせずとも最初から同じ学校に入れておけばいいと思いそうなものだが、そんな発想は白人にはなかった。時代は黒人公民権運動よりはるかに前の話、ヒスパニックもまた差別の対象だった。
 ブラックウェル・スクールでは、すべての子どもたちは英語を使うことを強制された。家庭ではスペイン語しか用いていない子どもたちは「学校と校庭ではスペイン語をしゃべりません」という覚書を書かされたり、「ミスター・スパニッシュの葬式」をやらされたりした。自分のもっとも好きな言葉をスペイン語で紙に書き、それを校庭の星条旗の下に埋め、粗末な木製の十字架を立てられた。十字架には「スペイン語」と書いてあった。ブラックウェル・スクールが閉校する1965年まで、こうしたことが続けられた。あからさまな差別意識にのみよったものではなく、時には英語を至上とするパラダイムの中で教育への熱意に燃える教師の、献身的な努力によって。
 とはいえ、ブラックウェル・スクールはこうした教育によって地域の生徒たちのハイスクール進学率を上げはした。チカーノの元生徒たちの中には、学校の取り組みや教師たちの熱心さに感謝の念を抱くものも少なくはない。だが、一方でブラックウェルがチカーノの子供たちにもたらしたのは、自己肯定感の喪失、世代間の分断、そして文化の忘却であった。それは彼らがここを卒業し、ハイスクールに入っても変わらなかった。
 ブラックウェルの元生徒であるヘスシータ・ウィリアムズ・シルヴァは『テキサス・マンスリー』誌2019年1月号で、当時の記憶をこう語っている。
〈マーファは私がレイシズムを学んだ場所だ。母が「ヒスパニックだから」店から押し出されるのを見て、父が「ヒスパニックだから」働いたぶんの給料がもらえないのを見て、人々が子供の前で私の両親を辱しめるのを見て。全てが私を傷つける。今でも〉(対訳:筆者)
 この街だけではない。あらゆる土地で、親世代の受けたこのような扱いを見ながら自分のものではない「標準語」を学ばされて育った世代の心理には、さまざまな意識のねじれが生じる。自分たちに対する差別に憤る心、それを隠して社会でなんとかやっていこうとする心、そして人によっては、なるべく親世代のエスニック集団や、彼らを(そして自身を)規定する母語から距離を置きたいと思う心。自らをこの場所にあらしめることとなった母なる言葉やその文化と切り離されたまま、つまり「ここにいる自分」を肯定する材料を失ったまま、彼らは時間を重ねてきた。そうした心理が時おり彼らの中で複層的に声を発し始め、知らぬ間に己の心に引いた境界が振動し、アイデンティティは混濁する。もともとメキシコで、いつのまにやらアメリカになった土地で、アメリカ人の言葉を覚えさせられながら、それでもメキシコ人として生きさせられてきた、「アメリカのメキシコ人」というアメリカ人たち。

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 母語喪失(Language Attrition)という言葉がある。
 この問題は、人が異なる言語圏の間を移動するということを考える際に必ずついて回るものだ。様々な理由によって人は移動し、新たな場所で新たな言語を習得しながら生活していく。そういう人が、もともと何も気にせず十全に操れていたはずの母語を、気づけば語彙レベルで、ときには文法レベルで忘却するということは、よくある。単なる「ド忘れ」のこともあれば本格的に失うこともあるようだが、自らの意思で選択的に移動を選んだものの場合は、すべてにおいて悲観すべきこととは限らない。むしろ、人間の順応性や柔軟性を示す文脈で使われることもある。
 だが、それはあくまでも、「自らの意思で選択的に移動を選んだものの場合」に限る。自分の知人・友人にも、両親が外国からやってきて日本に居ついてから生まれた、という人たちが何人かいる。日本生まれの子供が日本での暮らしに困らないよう「家ではできるだけ日本語で話す」という選択肢をとった親もいるし、母語やその文化を喪失しないようどちらかの親は日本語でもう片方は母語、または離婚して母親だけで育てることになり、日常生活の中で意識的に言語をスイッチするなどして育てた親もいる。一方で、親自身の日本語が達者でなかったり、同じ国からの移民社会の中でだけ生活しているため、日本語をほとんど操れない状態で育つ子供たちもいる。
 いずれにせよ、子供たちは様々なルーツや文化的背景をもって社会に存在している。自らと自らの歴史をつなぐそうした背景の重要さがまだ理解できない幼児期に、自分の生まれた国で「お前は違う」と言い募り、周囲から差別や同化圧力を受け続けることへの恐怖によって母語やその文化の記憶を捨てさせる、あるいは自ら背を向けさせ、自らその根を断ち切らせてしまうというのは、まぎれもない集団の暴力である。
「子は親の鏡」とは特に思わないが、人はある程度、身近な大人や自分が生まれた社会集団の振る舞いをトレースして育つものだ。自分たちの規範と「違う」とみなしたものを「ガイジン」や「バカ」扱いする子供が育ってしまう社会に、そして、そうしなければ何かのきっかけで自分がそちら側に立たされるのではないか、自分が境界の外へと追いやられるのではないかという恐怖が蔓延する社会に、私たちはいる。この国で育った人々に「わかんない!」「お前らがこうした」という言葉を発させるのも、私たちが作り上げている社会の空気なのだ。「自分はそうではない」と思う人もいるかもしれないが、その社会の成員であるという点において、少なくともそのことについて考えるべき責任からは逃れ得ない。
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 ブラックウェル・スクールは現在、マーファの街が経てきた歴史を振り返るための施設となっている。チカーノの卒業生による「ブラックウェル・スクール・アライアンス」という組織が結成され、地域のチカーノたちの歴史をめぐるヒストリック・ツアーを企画したり、年に一度、スクールの敷地を使って4月の終わりに一日がかりのブロックパーティを開催している。パーティではアサードやタマーレス、そしてブリトーといったメキシカンフードが振る舞われ、地域の歴史や文化に関するプレゼンテーションがあったり、DJが音楽を流したりする。
 自分がマーファを訪れたときはちょうどこのパーティの翌日で残念ながらその現場に行くことができなかったのだが、付近ではアライアンスとマーファのアートギャラリー「Ballroom Marfa」の共同企画によって、マーファの街の歴史や文化を書物で学ぶことの重要性、そしてチカーノたちから聞き取りをしたいくつかの個人史を5メートル近い壁に描いた巨大な壁画が完成していた(落成を記念してマリアッチの演奏も行われたらしく、見ることができなかったのは残念だ)。
 ちなみに、この壁画が描かれているのは、何の変哲もないスーパーマーケットの駐車場の壁。向かいの店舗ではチカーノたちがレジや、清掃のスタッフとして働いている。

 壁画を描いたのはエル・パソを拠点とし、自身もチカーノであるアーティスト、ヘスス・〝シミ〟・アルバラード。ちょうどギャラリーに滞在していた彼の話を、少し聞くことができた。
「ブラックウェル・スクールで起こったことや、チカーノたちがどういう経験をしてきたかということは、アメリカの混乱した文化をよく表している。そして、それはアメリカの教育のシステムの中では語られない。だから、たくさんの人に語ってもらった内容から壁画を描いたんだ。誰かの人生や、誰かが祖父から語られた人生について」
 普段はエル・パソにいるというシミは、第2章で見たような国境地帯、セグンド・バリオと呼ばれるエリアを中心に壁画を描いている。自分が知らずに見ていたものも、いくつかは彼の作品だということがわかった。
「チカーノたちの意識も、昔とはずいぶん変わったと思う。エル・パソでは自分たちに何が起こってきたのか、いま自分たちが何に向かっているのか、ようやく多くの人が語り始めている。僕はこの状況を続けていきたいんだ。マーファはチカーノとミニマルアーティストばかりの街だけど、彼らの間には特に交流があるように思えない。この壁画を通じてみんなに望むことは、会話することなんだ。歴史について、それぞれの物語について」
 この街で起こってきたことを再度見つめ直し、その上で新しく歴史をつなぎ直そうとする試み。それはまだまだ課題も多く、その力は限定的なのかもしれないが、重要なのは「気づいたときに種を蒔いておく」ということなのかもしれない。よくて失われてきたものと同じくらい、おそらくはその数倍はするであろう時間をかけても、それが育っていくはずだという信頼なしには、種を蒔くことすらできはしないのだ。
 アメリカでは現在、アングロ・サクソンによって長らく言葉を奪われ、文化を抑圧されてきたものたちがその言葉を取り戻す試みが多く見受けられる。チカーノたちが、ネイティブ・アメリカンたちが、その固有の声を思い出そうと、このアメリカという国が成立してからの200年あまり、私たちの世界の風景を大きく変えてしまった200年という時の層の奥へと遡行を始めている。
 翻って、その200年が海を越えて作用した歴史の果てに存在する私たちが自分たちの国で考えていかなければならないこと、発していかなければならない言葉は何なのだろうか。埃っぽい街に延々と満ちてゆく西日を思い出しながら、そんなことを考えている。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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