国境線上の蟹 4
安東嵩史
3
ユナイテッド・ステイツ・オブ・ピッツァ
テキサス州エル・パソの夜は早い。中心部にあるベースボールパークでこの街をホームに定めるエル・パソ・チワワズという、長い歴史を持つ強豪ながらあまり強そうな気がしない名前のチームの試合を見たあとに一杯行こうと思っても、特に平日だと街場の店は21〜22時くらいで閉まってしまう。クラブならまだ開いているが、野球帰りだとそんな気分にもならない。だいいち、アメリカの99%のクラブでは、流れている音楽に期待などできない。
そんな時に助かるのが、ダウンタウンの端にある「ピッツァ・ジョイント」というピザ屋だ。FBIから「パブリック・エネミー(公共の敵)No.1」と認定された——有名なヒップホップ・グループの名はここから来ている——伝説の国境強盗ジョン・デリンジャーも定宿にしていた1928年創業の老舗「ガードナー・ホテル」の建物の1Fに入居するこの店は、気分のいいスケーター風のスタッフが多く、店内もストリートアートで彩られていて、国境付近を除けば実に落ち着き払ったこの街に若々しい雰囲気をトッピングしている。営業も平日は23時まで、週末は日付が変わっても開いているのでありがたい。客層も幅広く、老若男女で賑わっているし、一人の夜のもの寂しさを和らげてくれるこのフレンドリーな店に、滞在中は足繁く通うことになる。
なにより、ピザがうまい。ペパローニとほうれん草、ベーコンにトマト、そしてハラペーニョを乗っけた「THE FAB 5」。もしくはペパローニにマッシュルーム、ブラックオリーブ、ピーマンとレッドオニオンの「THE JEFFEREY」。どちらかを1スライスと、グリーンサラダにIPAの缶ビール。日本ではほとんどピザを食べないせいもあって、いくら食べても飽きない。
ここに限らず、アメリカでちょっと夕飯に困ると、すぐピザ屋に入る。他に選択肢のない田舎町やカラ騒ぎの続く深夜のハリウッドで、安いものだと1スライス99セントからある街場のピザをコーヒーまたはビールで流し込む夜。どこか空虚でいて不思議な安心感を覚える、自分にとってのアメリカの風景だ。
それにしても、ピザを嫌いなアメリカ人というものを今のところ見たことがない。体感でいうと、みんなハンバーガーより圧倒的にピザを愛しているような気がする。『ホーム・アローン』のケビンも、『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』のミケランジェロも、みんなピザが大好きだ。
だが、ピザ専門誌「PMQ ピッツァ・マガジン」元編集長で現在はピザ・ジャーナリストのリズ・バレット——読み間違いではない、アメリカには「ピザ専門誌」や「ピザ・ジャーナリスト」が存在するのだ——は、この国のピザの歴史やバリエーションをガイダンスした著書『PIZZA A Slice of American History』(未邦訳 2014 Quatro Publishing Group USA Inc.)において「1950年代までは、ほとんどのアメリカ人は〝ピザ〟なんて見たことも聞いたこともなかった」と書いている。
実際、アメリカにピザが持ち込まれた19世紀末はもちろん、1905年にニューヨークの貧民街の片隅でジェンナロ・ロンバルディがアメリカ初のピザ店「ロンバルディ」をオープンした頃も、シカゴでアル・カポネ、ニューヨークでラッキー・ルチアーノが世間を騒がせた1920年代も、そのルチアーノをモデルにしたフランシス・フォード・コッポラ監督の映画『ゴッドファーザー』(1972)で主人公ドン・コルレオーネが麻薬密売人をピザ・レストランで射殺した第二次大戦直後に至っても、ピザはイタリア移民、もしくはその子孫であるイタリア系アメリカ人(もちろん、ここで挙げた人物は全員そうである)だけの食べ物だった。
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アメリカの歴史は、最初から無限のフロンティア、言い換えれば無限の人手不足の歴史でもあった。それを解消する安価な労働力として、最初に黒人奴隷が、そして次にゴールドラッシュに導かれて中国人が来た。勝手にアメリカに「併合」されたメキシコ人も加わった。そして1880年代以降、イタリア統一戦争で敗者側になったために社会的に冷遇され困窮したナポリやシチリアの人々が大勢、自由の女神像を見上げながら夢の新興国・アメリカに渡った。彼らは初期からこの国を構成するドイツ・フランス・そしてイギリス系の人々からは一段劣った存在とみなされ、農場や都会での肉体労働や建設業など低賃金労働に就くしかなく、また「女にだらしない」「英語もろくに喋れない」といった偏見による差別も受けた。プロテスタント国家・アメリカにおいて彼らがカトリックであったことも、それを助長した。
それゆえ、彼らはアメリカ社会に同化するよりファミリーやコミュニティで固まり、助け合って身を守るようになる(それがマフィアの〝鉄の結束〟の原点でもある)。子供にも公教育を受けさせるよりファミリーの価値観の中で早くから職業訓練を施すことを好んだため教育水準は低く、それが一層、格差と差別を生むことにもなった。
例えば、スコット・フィッツジェラルドによるアメリカ文学の金字塔『グレート・ギャツビー』には虚々実々が入り乱れる1920年代の新興富裕階級の暮らしが描かれているが、登場人物の中にイタリア系は一人もいない。彼らはこの頃、いまだ貧しい労働者か、床屋や靴屋などちょっとした商店を構えた2代目か、さもなくばギャングや犯罪者であった。第二次世界大戦が始まるとイタリアはドイツ・日本とともに敵国となったため、彼らも敵性外国人とみなされ、様々な苦難を負うことになる。白人社会の中の、見えない白人たち——彼らのソウルフードであるピザもまた、この頃は「貧民街で売られている、得体の知れない食べ物」にすぎなかった。
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ピザがイタリア系コミュニティの外にまで広まったのは、皮肉にも大戦後、イタリアに駐留していたアメリカ兵が本場の味に触れ、帰還してそれを伝えたり、商売にし始めたことがきっかけだと言われている。自動車を中心とする大規模流通網や冷蔵・冷凍技術の発達、ドライブインの登場などもあり、今や世界最強となった若者たちの国・アメリカの新たな食文化として、ピザは急速に浸透していった。フランク・シナトラやディーン・マーティンといったイタリア系のスターも生まれ、ピザの知名度アップに一役買った。
マーティンの代表曲「ザッツ・アモーレ」では〈君の大きなピザ・パイのような瞳に月が映る時、それはアモーレだよ〉と謎の愛の言葉が綴られているが、彼の歌った「ピザ・パイ」とは、おそらくシカゴ・スタイルの分厚いピザだろう。
アメリカのピザは現在、伝統的なナポリピザとは違って様々に独自の進化を遂げているが、二大勢力としては、やはりイタロ・アメリカンたちの2つの都、ニューヨークとシカゴがある。貧しいイタリア移民の労働者の食べ物だった頃からの伝統である、薄くて手軽に食べられるニューヨーク系と、時に「ディープ・ディッシュ(深皿)」とも呼ばれる、分厚い生地をナイフとフォークで悠然と食べるスタイルのシカゴ系。二者の間では「どちらが真のピザか」という論争が時折起こる。昨年11月にはシカゴのピザ店を訪れたニューヨーク市の報道官が店のピザの写真とともに「アメリカで一番。他の追随を許さない」などとツイートしたことにニューヨーカーが激怒し、炎上。『ニューヨーク・タイムズ』までわざわざ社説でそれを援護し、大人げなくも読者アンケートまで取って「シカゴのピザはキャセロール(鍋焼きのような料理)だ」「あんなの折り畳めないじゃないか」などと言わせている。
また、今年の2月には、「アメリカ軍がレーション(保存・輸送できる戦闘糧食)用のピザの開発についに成功した」というニュースが全米を賑わせた。開発は1980年代から継続され、保存に伴うトマトソースの変色や風味の劣化の問題が最後まで残ったものの、ローズマリーエキスを使用することでその問題を解決した——という『プロジェクトX』さながらの工程を経て、ついに実用化に至るのだという。「30年間、他にやることあっただろう」と思ってしまうが、今のところ国内ではそういうツッコミはない。
いずれも馬鹿馬鹿しいといえば馬鹿馬鹿しいし、なかなかシュールな話に見えなくもないが、ピザに対するアメリカ人の偏愛を十分に示すエピソードではある。人種差別や経済格差、さらには先祖代々の「出自」による分断が依然として残るこの国は、もしかしたら「(わが街の)ピザを愛している」という一点によってのみ一つになれるのかもしれない。
この国の最初期を支えたイタリア移民は1900年代初頭の移民制限政策によってその流入を大幅に減らし、現在、その子孫たちは人口のわずか数%にすぎない。エスニック・グループとしての存在感が極めて弱まった結果、現在ではほぼアメリカ社会への同化が進み、かつてのように差別的な言辞を聞くこともほとんどない。スパイク・リー監督『ジャングル・フィーバー』(1991)やロバート・デ・ニーロ監督『ブロンクス物語』(1993)など90年代の映画には、すでに「外の白人」にファミリーの絆で対抗するイタロ・アメリカンの姿はなく、その代わり、今度は彼らと黒人たちの間に存在する境界が痛烈に描かれている。〝越境〟を果たしたものが境界を設定する側に回るという、永遠のループをそこに見ることもできる。
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そして、そんな歴史を持つピザを西部の果てのエル・パソ、かつてメキシコであったこの地で食べているというのも、なかなかに趣深い話ではある。
キリスト教徒として初めてアメリカ航路を〝発見〟し、暴力と疫病によって100万人単位の先住民を殺しつつ世界の混交の扉を開いたクリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)はそもそもイタリア人だし、彼の功によってこの大陸に権益を得たスペインのエルナン・コルテスこそ、1519年に現在のメキシコを征服した際、トマトの種をヨーロッパに持ち帰った人物だ。そして、当初は観賞用だったトマトを18世紀後半にナポリの貧民たちがパンに乗せて食べ始めたのが、ピザの始まりだと言われている。それが貧しいイタリア移民たちとともに再びこの大陸に到来し、今度は戦争によってアメリカに〝発見〟され、やがて開拓者たちがこの大陸を切り拓いて作り上げた道路に乗って全米に広まった。何層にも絡み合うピザ・ソースとチーズのように、幾重にも張られては回収される伏線。
西へ、新天地へ。時代を超えてあらゆる立場・階層の人々が抱いた果てしないフロンティアへの渇望、寄せては返すその繰り返しの結果として、ピザはアメリカの国民食となった。その一切れの中に近現代のダイナミズムと、時代の流れに埋没していった無数の人生がある。
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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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