国境線上の蟹 5


名前を呼び、名前を記す
 那覇空港のターミナルを出ると、いつもムッと熱気のこもった空気と、遠くで果実を煮詰めているような芳香が出迎えてくれる。
 沖縄は自分にとって、人の移動やそれによって生まれる文化状況のことを学ぶ発端になった特別な場所だ。八重山や宮古、与那国なども含めて何度となく通っている。学生の頃は神戸からバイクを船に乗せ、長い間ブラブラと島から島へ渡ったものだが、大人になってからはどうしても滞在日数が限られ、もっぱら車移動だ。レンタカーを借りて、なんとなく最初に流す曲はいつも決まっている。
 2011年に亡くなった柳ジョージの「FENCEの向こうのアメリカ」だ。横浜生まれ横浜育ちの柳が少年時代への追想をかつて「エリア1」と呼ばれた本牧〜根岸あたりの米軍接収地の風景に託したこの歌は、もちろん沖縄とは関係ない。だが、金網の向こうに横たわる滑走路とその先に広がるぼんやりとした光、そして国道を吹き渡る風に乗ってパラパラと散っていくブルーズとペナペナしたギターが気持ちよくて、つい選んでしまう。
「FENCEの向こう」の風景なら、この島にも限りなくある。そもそも那覇空港からして航空自衛隊の基地が併設された軍民共用の空港であり、そこから南部へ向かう国道331号線を走っていると時折、F15戦闘機が飛び立つ光景を目にもする。それは、この島の中部から北部にかけての土地に楔のように打ち込まれた米軍基地と繋がる光景である。

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 日本の捨て石とされ「この世の地獄を集めた」地上戦を経験し、それ以降長く米軍に支配されてきた沖縄では、戦後早くから人々が米軍基地で働いたりアメリカ兵と触れ合ったことで、現在のようにミックスされた文化状況が生まれた。
 戦後の沖縄民謡を代表する歌手・登川誠仁が盟友の照屋林助とともに語り半分・音楽半分のラジオ形式で録音したアルバム『ハウリング・ウルフ』に、「ペストパーキンママ」という風変わりな歌が収められている。
〈四十八年(昭和二三年)にハウスボーイになって〉米兵の家で働いていた登川が〈全く口移しみたいにね、言葉は意味はわからないけれども、外人の歌う歌はあれや、これやと覚えている〉ということで、完全なるブロークン英語、いや、英語風の何らかの言葉で歌ったものだ。ブックレットには〈(歌詞対訳不能)〉とだけ書いてある。
〈引用部=登川誠仁『ハウリング・ウルフ』(1988 オーマガトキ)ブックレットより〉
 原曲は、1943年にビング・クロスビーとアンドリュー・シスターズの歌で大ヒットとなった「ピストル・パッキング・ママ」だ。最近だとゲームの「Fallout」で聴いた人もいるかもしれない。
〈ピストルを下ろしてくれ、下ろすんだ
ピストルを隠し持ったおネエちゃん
ピストルを下ろすんだ
キャバレーでビールを飲むのは楽しかった、
あの女に見つかっちまうまではね
で、今逃げてんだ
「パパはコーンでたんまり作った
でもある日密造酒の取締官が来たの
干ばつも続く
でも、奴らだって知ってる
メイム(※人名)に手は出せないってね」〉
(対訳=筆者)
 作詞のアル・デクスターがドライブインのウエイトレスに聞いた、浮気男をピストルを持って追いかけた女の話が元になっているこの歌は、誕生したばかりの全米ポップチャートで1位となり、ミリオンセラーを達成した。
 最後のカギカッコ内はやや難解だが、明らかに禁酒法時代をモチーフにしている。
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 現在でも皮肉を込めて「高貴な実験」と呼ばれる禁酒法は、アメリカで1920〜33年まで施行された、一切の酒類の製造・販売・輸送を禁ずる法律だ。
 酒は諸悪の根源なので禁止すべきと考える急進的なキリスト教徒を中心にした「ドライ」派と、善悪を政府に決められてたまるかという古き良き自決精神に富んだ「ウェット」派が、1910年代には拮抗していた。だが、第一次世界大戦中の1917年、それまで中立を保っていたアメリカがドイツに宣戦布告すると、状況は一変する。
「ウェット」の主力はドイツ系アメリカ人だった。彼らはアメリカで最も成功した移民グループだが、戦争で突然「敵性外国人」に転落してしまう。ドイツ系の姓の人間への就職差別やリンチ、不当逮捕などが横行したため、苗字を英語風に改めるものも多く出た。例えば「アルブレヒト」「シュミット」は発音の近い「オルブライト」「スミス」に、〝切る人〟を意味する「シュナイダー」は〝仕立屋〟「テイラー」になり、ドイツのルーツを捨ててアメリカに同化した。
 ドイツ系の失墜に加え、「ビール=ドイツ=敵」という雑な決めつけによって起きたビールバッシングに慌てたビール業界が「ウイスキーこそ諸悪の根源」と謎のいいかがりをつけるなど酒造業界の足並みが乱れたこともあって「ドライ」が優勢となり、禁酒法は成立した。戦争が生んだそんな時代を背景に作られた歌が、次の戦争を経て登川少年の耳に届いたわけだ。

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 ところで、「ピストル・パッキング・ママ」という言葉は、アメリカではしばしば政治的立場を問わず「強い女」のイメージとして引用される。
 1910〜20年代に炭鉱労働者たちとともに労働争議に加わり、少数の優れたプロテストソングを残したアント・モリー・ジャクソンは、雇用主の差し向けたガンマンの脅しに屈せずその銃を奪って逆に突きつけたという伝説(彼女の弟は、のちにそれを彼女の創作だと言っている)により、50年代以降、女性の社会運動の高まりの中で「ピストル・パッキング・ママ」と呼ばれた。
 オバマ政権時代、その方針に反してイスラム教徒の入国者の排除を主張し、連邦政府を何度も告訴したことで有名なテキサス州の司法長官ケン・パクストンの妻・アンジェラは2015年、共和党婦人部のパーティで〈私はピストル・パッキング・ママ、夫はオバマを訴える〉〈私は5年で4人の子供を産んだ、タッカー、アビー、マッティ、ケイティ——ダディはオバマを訴える〉と、ウィットの効いた自作曲を披露している。政治的意図をあえて無視すると、西部の保守的な母親としての実感を歌った、素人の作としてはよくできた歌だ。
 パクストンの支持母体は、NRA(全米ライフル協会)である。彼は今年5月、州内の高校で起こった学生による銃乱射事件に際して「イスラエル方式」——より巨大な武力で敵を排除する——で〝テロとの戦い〟に臨むと表明した。テロ?
 アメリカの女性や性的少数者の闘争の歴史を描いたデボラ・グレイ・ホワイトの『Lost in the USA: American Identity from the Promise Keepers to the Million Mom March』(未邦訳、2017 University of Illinois Press)の中では、NRAの役員であるマリア・ヘイルの「女性が子供たちを守るためには銃が必要」という発言に「ピストル・パッキング・ママ」という言葉が当てられている。そのすぐ後には、別の銃規制反対論者の「銃規制は、武器を持たない女性に〝私をレイプして〟という印をつけるようなものだ」という暴言も紹介されていた。
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 沖縄では終戦直後から現在に至るまで、米兵による強姦・殺人を含む性犯罪が数え切れないほど発生している。ピストルをパックしていない沖縄女性——報告件数の半数以上が未成年である——の中には泣き寝入りする人も多く、把握されているよりはるかに多くの事件が実際に起こっていると目される。事件化しても、犯人が「FENCEの向こう」に逃げ込んでしまえば、日米地位協定によって日本側はほとんど主体的な捜査や処罰ができない。
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「ピストルでも忍ばせて強くいなければ、組み敷かれ奪われて当然だ」という言説や、それが生み出されるような世界の構造を是認することは、絶対にできない。だが、我々は一体何をすればいいのだろう。
 おそらく、「出会う」ということについて真剣に考えることに、そのヒントがある。
 沖縄において、我々は必ずしも「出会って」はいない。同じ空間に存在しながら我々は米兵を恐れ、異物として扱い、そして彼らの多くもまた、我々とどう接していいのかわかりかね、恐れている。両者の視線はすれ違う。
 本島中部のコザ(沖縄市)は、嘉手納基地のいわば門前町だ。アメリカが沖縄の湿気で朽ち果てたような光景が数多く見られるこの街には基地の正門へ続く「ゲート通り」という大通りがあり、衣料品店や飲食店が立ち並んでいる。
 10年ほど前、コザでおでんをつまんだ後にアメリカ人ばかりのクラブでダサいDJを聴きつつ酒を飲んでいたら、黒人のマリーン(海兵隊員)が「ラティーノか?」と話しかけてきた。「いや、日本人だよ。東京から」と言うと彼は相好を崩し、「東京か!ママがキンカクのポストカードを持ってたよ」と笑った。それは京都だ。
 話をするうち、ジェフと名乗った彼はぽつりと「沖縄の人は俺たちのことを嫌ってるのかな」と呟いた。
「まあ、いろんな事件もあるしね」
「でもさ、俺はそれをやった奴じゃないんだよ。もちろん人によるけど、歩いてると米兵ってだけでモンスターみたいに見られることもある。彼らは俺をそいつと同じだと思ってる。でも、俺はそいつじゃない」
「米兵の人間性」は、しばしばこのニュースのように政治的主張を補強し、異なる意見を攻撃するための道具として語られるが、その語り口こそ「その米兵の人間性」を否定し、記号として消費する行為に他ならない。だが、その可能性を注意深く排除しながら、それでも彼らについて語ることも、我々には必要だ。
 
 あの戦争や現代の犯罪も、基地の成り立ちや存在も、一切是認するつもりはない。しかし、それでも今この瞬間に基地はあり、そこには記号ではなく「人間」がいる。非常に難しいが、政治性とは別にあえてマテリアルにそう考えることでしか、本当の意味でお互いに「出会う」ことは始まらないような気がする。

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 ゲート通りにある「プリンス」はかつてAサインバーと呼ばれた米軍専用の飲食店で、コザでは最も老舗の部類に入るバーだ。現在は日本人客もいるが、2年前の冬に訪れた時は日曜の夜で、若いマリーンとガールフレンドたちと思しき男女の一組だけがカラオケでマルーン5やリアーナを歌って盛り上がっていた。
 
 この店の壁には、1ドル札がびっしりとピンで貼られている(なぜか『夏子の酒』のサインもあった)。ボロボロのものから新札まで、全てに「Anthony」「Chaz, 17.02.2003」など名前が書かれている。この店に集った数々の米兵が出撃や転属の前、不帰の旅立ちを控えた最後の晩に書いたものだ。これらの名前がいつどんな会話とともに書かれ、うち何人がその後ベトナムの土に、アフガンやイラクの砂粒になったのか。この店で、この島で時を過ごしたものや、その後世界のどこかで殺し殺されていったものたちのことを、我々もまた知らない。
 彼らは確かに「FENCEの向こう」にいて、こちらのことも「FENCEの向こう」だと思っている。そして、我々ナイチャー(内地の人間)は、そんな沖縄の複雑さと「出会う」ことを拒否し、それを押しつけているのは他ならぬ自分たちであるということを「FENCEの向こう」に押しやって、青い海と空のイメージを消費している。
 沖縄を歩き、考え、書き/語ることは、こうした複層的な断絶につまずき、戸惑いながら分け入っていくことでもある。名前を知り、表情を知るほど、その戸惑いは大きくなる。
 だが、それでもそこにいる人々の名前と顔を覚えていたいと思う。我々はともすれば他者を「記号」にしてしまいたがる。米兵は、ドイツ人は、沖縄は。そうではなく、それらを固有のジェフの、シュミットの、ダンやジェニファーやワタルの名前と顔に置き換えていくこと以外に、他者と「出会う」すべはないのだと思う。

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「プリンス」に年配の夫婦が入ってきた。服装こそラフだが、恰幅のいい夫のほうは明らかに将校クラスだろう。はっちゃけていた若いマリーンたちが、急に苦笑いを浮かべて大人しくなる。僕は勝手に彼を「コロネル(大佐)」と名付け、観察することにした。コロネルは若者たちと互いに見て見ぬ振りをしながら悠然と奥のボックス席に座り、カラオケを入れた。
 流れ始めたのはシナトラの「マイ・ウェイ」。日本でもアメリカでも、やはりこの歌は酸いも甘いも噛み分けた中間管理職の歌なのか。
〈ここらで終わりだな、幕が近い
友よ、はっきり言おう
確信を持って俺のことを伝えよう〉
(対訳=筆者)
 情感を込めて歌い上げるコロネルはこの島でどれだけの時間を過ごし、何を見て、何を思ってきたのだろうか。あの日、僕に「俺のこと」を伝えようとしたジェフも、ドル札に名前を書いただろうか。
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 6月23日、慰霊の日にこの原稿を書いている。沖縄戦の戦没者慰霊塔「平和の礎(いしじ)」には今年も58名の名が新たに刻まれ、総勢24万1525人の、確かに存在した人たちの名が記録されている。

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〈著者プロフィール〉
安東嵩史(あんどうたかふみ)
1981年大分県生まれ。
編集者。移民・移動と表現や表象、メディアの関係を研究することを中心領域とする。
2005年以降、書籍や雑誌からVRまでの発行・執筆・展示・企画などを多数手がける。
2017年にTISSUE Inc. / 出版レーベルTISSUE PAPERSを設立。
ウェブサイトはそろそろ。
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