ひまの演出論 5
わたしを破壊してくれる作品制作
山本ジャスティン伊等
去年の秋に中国公演が終わって、今年の春までは舞台関係の仕事がないので、日銭を稼ぐためにバーでアルバイトをしている。私はこの仕事が結構気に入っていて、お客さんからおすすめの本を紹介してもらったり、仕事の話を聞いたり、下ネタを言い合ったりするのは結構たのしい。本当にごく稀に差別的なことをいう人もいるが、そういうときは適当に相槌うっていると、その後来なくなる。必要以上に「接客用の自分」を作らなくても生活のための仕事ができるということが、自分にとって救いになっている。
バーに来るお客さんは、演劇を日常的に見ることがないひとがほとんどだ。だから会話の流れで、普段は演劇の台本を書いたり演出をしたりしています、と言うと、「演出家ってどういう仕事なんですか」と返ってくることが結構ある。
「演出」という言葉に対してごく素朴に答えるなら、舞台上にある物や肉体の見せ方を作る人、とまず言うことができると思う。しかし「どういう仕事ですか」という質問に対して定義で返しても答えになっていないように感じて、いつもあいまいに笑うことしかできないでいる。
演出が、というよりも演劇という芸術の底には、複数の人間が集まったり、動いたり、声に出したり、それを見たり聞いたり、実際に手を動かすことが最低条件としてあって、そこで得られる質感がそのまま「演劇を作っている」感触につながるから、言葉で説明しても伝えられていないという気持ちが強いのだと思う。
たとえば、自分の好きな小説、漫画、アニメ、音楽…を友人知人から「どういう感じの作品なの?」と聞かれて、うまく伝えられずに困ったことはあるのではないか。ひとは説明を求めるし、Twitterやネットの記事には作品のいいところを短い文字数でまとめたものはたくさんあるが、それでは自分の好きな作品が人生にとって必要不可欠だと思えてしまう理由も、その質感も説明できたことにはならない。
作品は「一冊」とか「二時間」とかそういう単位でくくれるものではなく、経験そのものなのだから、五分間の音楽を百回聞いたらその百回という経験がその人にとっての作品の単位をかたちづくる。それはその人固有のものだから、どういう作品か聞かれても説明できないのは当たり前だし、「うまく言えないけどマジですごいんだ」と気迫を前面に出して本を渡したり、ライブに引きづり込むしかない。強引かもしれないが、自分が信じているものに他人を巻きこむことにはある種の強引さをともなう。
話が逸れた。ここまでの話と矛盾するかもしれないが、自分が演出をするときにむずかしいのは、どのようにしたら「自分の作品を作っている」という感覚を作れるのか、ということかもしれず、そしてそれが、演出家が「どういう仕事なのか」という質問の答えになる気がしている。
実際に舞台に立つ俳優や、図面を書いて機材を吊ったりセットを製作する美術の人たちと違って、演出家は物理的に手を動かすことはあまりない。演出家はコンセプトを示し、コミュニケーションをとることが制作の大半を占めるが、その結果を実現するのは俳優やスタッフなのだ。だからわたしが引っかかっているのは、実際の舞台には自分のからだはもちろん、自分が作った物も光も音もないのに、どのようにして「自分の作品がそこにある」と実感しているのか?ということだ。
ひとつには、稽古場や制作全体において、演出家が権力を持っていることが挙げられると思う。演出家は制作現場で比較的強い発言権をもつ傾向にあって、制作の中心であり、作家として上演全体に対して責任があるという感触。ハラスメントをはじめ、これに付いてまわる問題もたくさんあるが、現状、その感触を担保に演出家という職業が支えられている部分があるのは間違いない。
もうひとつは、自分が事前に考えている理想的な演出プランや演技の質感が、他者とのコミュニケーションによって完全に実現することはないという限界を知ることだ。
演出家としてのキャリアが浅いわたしには、この限界ははじめ歯痒いものとしてあった。しかし少しずつ作品を作り続けていくにつれて、それが必ずしもネガティブなものではないのではないかと感じるようになってきた。むしろうまく伝わらない言葉から俳優の考えた身振りやセリフの言い方を、自分にとってあたらしい条件や環境、制作の基盤として受け入れ、事前のプランとは別のものへと変更に変更を重ねること。「受け入れる」と書くとメンタリティの話だと思われるかもしれないが、各々の体を使いながらコミュニケーションをとって制作していく演劇において、これはひとつの具体的な方法なのだ。
わたしとは別のイメージやコンテクストを持って、わたしとおなじように人生を送る人間=俳優、音楽家、照明家……それらを、わたし(=演出家)を更新する手立てとして、事前に考えたイメージの破壊を受け入れていく。そのとき、俳優やスタッフによって実現された身振りや光や音、つまり作品は、演出家と俳優やスタッフの結び目になる。
だから逆説的かもしれないが、他人が、わたしと同じように、わたしとは別のイメージ、思考、感情を持ったものとしてどこまでも受け入れることこそが、演出家にとって「自分が作品を作っている」という感触を得るための一番の近道なのだと思う。
作品発表の場では、演出や演技の質がどれだけ高いかとか、今の社会や政治状況においてどれほど必然性があるかとか、そういうことが問題になりやすい。しかしまず大切なのは、制作する人間にとって、作品が自分を更新するものであるかどうかだ。
評価されて幸せになって死ぬような人生はむなしい。
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◾️プロフィール
山本ジャスティン伊等
カリフォルニア州サンタモニカ生まれ。
Dr. Holiday Laboratory主宰。演劇/テキスト制作。
主な作品に『うららかとルポルタージュ』、『脱獄計画(仮)』など。
web https://drholidaylab.com
制作日記 https://justin-holiday.fanbox.cc/
X https://twitter.com/ira_they