ひまの演出論 6

書くこととしての読むこと

山本ジャスティン伊等

自分がいま書いた文章を、他人が書いたものと同じように読む。ただそれだけのことがむずかしい。

前回、わたしは「他人が、わたしと同じように、わたしとは別のイメージ、思考、感情を持ったものとしてどこまでも受け入れることこそが、演出家にとって「自分が作品を作っている」という感触を得るための一番の近道なのだと思う。」と書いた。わたしはたぶん長いあいだ、文章を書くということにおいてこそ、そういう方法を取りたいと思っていた。『小説の自由』をはじめとした保坂和志の小説論三部作で展開されている「作品を事前に考えたプランに従わせるよりも、これまで書いた部分を読み、その積み重ねが起こす運動によって次の一文を書く」という書き方に強い影響を受けて創作をはじめたわたしにとって、それは自然のことだった。しかし実際にわたしがそのように書くためには、前回書いたように、他人のからだや舞台空間といった物質的なものを通す必要があったのだと、今になって思う。

稽古場では、自分と他人という関係の中で、他人のイメージや思考の受け入れが起こるが、文章を書いている時には、それが昨日書いた文章と今日の自分の対話になる。
2023年に上演した『脱獄計画(仮)』を書いていた時、私はほとんど働かず、毎日喫茶店に行って大体3〜4時間、書きつづけた。
といっても実際に書いているのはそのうち1時間くらいだ。ほかの時間は昨日まで書いたものを読みつづけ、別の紙にシーンごとの出来事を書いて整理したり、作品の原案小説(アドルフォ・ビオイ=カサレス『脱獄計画』)を読み直したりしていた。
だから実際の感触は、戯曲を「書く」というより「読む」に近いものがある。昨日までの文を「読むこと」が、今日の自分の文章となって現れている。あるいは、文章を読むとその文章が増える、という感じ。
こうして書いてみると不思議な方法だ。しかも読むときにはわたしなりのルールがあった。なるべく文章を直さないというものだ。もちろん誤字を修正したり、レイアウトを少し整えて読みやすくするくらいのことはするのだけど、「ここはもっと違う表現の方がいいな」と思っても、直さない。直すと、その言葉(演劇の場合はト書きとセリフ)が「いいか悪いか」で考えはじめてしまうからだ。それは昨日の自分を、今日の自分のスケールに閉じ込めることになるんじゃないかと思っている。
「今日の自分が客観的に読んで直した方がいいと思ったんだから、だめなところは直した方がいいに決まってるでしょ」と考える人がいるかもしれない。しかしそれは進歩史観かなにかに侵されている。過去に対して今の自分が客観的だったり、進んでいたり、考えが上だったりするわけでは必ずしもない。逆もまたしかり、過去に書いた文章に、もう二度と敵わないということもない。
そもそも「修正しない」というルールは、「この文章はすごい」とか「これはだめだ」とかいう判断それ自体を保留にし、あるいはどこかに置き去りにするためにこそあると思っている。つまりそれは、他人が真面目に考えたことに対してこちらも耳を貸すように、昨日の自分が書いた文章を今日の自分が受け止めるということだ。そのためには最大限の力で読まないといけない(書かないと、ではなく!)。

《[ドストエフスキーの]作品のなかでくりひろげられているのは、ただひとつの作者の意識に照らされたただひとつの客体的世界における複数の運命ではない。(…)主人公の言葉は、作品構造のなかで並外れた自立性をもっており、あたかも作者の言葉と隣り合っているかのように響き、作者の言葉や他の主人公たちのやはり十全な価値をもった声と、独特なかたちで組み合わさっている。》

これは次の作品のために読んでいた、桑野隆『二〇世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』という思想史の入門書のなかで引用されている、文芸評論家ミハイル・バフチンが提唱した「ポリフォニー」「対話原理」という概念を説明する一節だ。物語のなかの登場人物が自立しているだけでなく、作者と登場人物が同等の立ち位置で対話する。それは、俗に小説をはじめ物語形式の作品を書く人が持つと言われる「登場人物が勝手に動く」感触とはまた別のものだと思う。なにしろ対話しているのだから、「勝手に動く」ものよりも作者の参加の度合いが強い。これは言い方の問題じゃなく、作者と書かれたものの姿勢の問題で、そうである限り、実際的なものだとわたしは思う。バフチンのいうポリフォニー的方法は、「読む」=過去の自分が書いたものを他人のもののように受けとめて次の一文を書く、という保坂(とそれを演劇経由であらためて書くことに落とし込もうとするわたし)の議論とむしろ親しいのではないだろうか。
しかしなんといっても、ドストエフスキーの小説は、こちらが持っている方法についての話などぶっ飛んでしまうくらいおもしろい。どの長編も長いが、「長い本があっという間に感じる」というハリウッド式の面白さではなく、その長さゆえに迫り上がってくる力に飲み込まれる。