行けたら行きます 19
植本一子
4年生と2年生になる娘たちが、やっと自転車に乗れるようになった。小学校に上がる前から乗れる子もいるので、遅い方かもしれない。3輪車、補助輪付き自転車、そして自転車と買い与えていたが、私が真面目に練習に付き合わなかったために、これまで乗れなかっただけなのだ。石田さんが病気になり、家と子ども達のことを全て私が請け負わなければいけなくなって、日々の生活の中で自転車の練習など二の次三の次になってしまった。思えば、毎日をこなすことで精一杯だった。
それでも時々「自転車の練習をしなければ」と強迫観念のように思い出しては、今里さんに連絡していた。娘たちは今里さんのことを「こどもみたいなおじちゃん」と呼び、とても懐いている。忙しい中、石田さんとうちの様子を気にして、しょっちゅう連絡をくれていた。子ども達に対してもレディー扱いを忘れず、会うときには必ず女の子向けのプレゼントを持ってきてくれる。それは、黒人のバービー人形だったり、プリンセスのキャラクターのおもちゃのメイクセットだったり、アメリカ製のシールセットやヘアゴムだったり、いつも可愛くラッピングされた、センスのいいものだった。私も何でもない日に、ガーベラの花を一輪くれたことがある。驚いて思わず「なんで?」と聞くと、来る途中に花屋があったので、と照れ臭そうに笑っていた。
石田さんの最期の日、私と娘たちはインフルエンザにかかって家で寝ていたのだが、病院で石田さんに付き添ってくれていた今里さんが容態の変化に気づいて「来た方がいいかもしれない」と連絡をくれたのだった。大急ぎで病院に駆けつけたその時にも、おもむろに紙袋からプレゼントを取り出し驚いた。おそろいのウサギのぬいぐるみだった。張り詰めていた空気が緩み、その場にいた友人が「お前、どんな顔してそれ買ってんの」とつっこみ、皆で笑ったのを覚えている。石田さんもきっと笑っていただろう。
そんな今里さんが忙しい合間を縫って、娘達の自転車の練習を見てくれていた。自転車は今里さんの担当、と決めてしまい、私はノータッチだったのだ。私は運動全般が苦手で、自転車を教えるのも諦めていた。自分自身は小学校3年生で乗れるようになった覚えがあるのだが、今里さんは「俺6年生」と言うので驚いた。聞けば自転車より先にスケボーに夢中になったのだと言う。今里さんは、石田さんが入院している時から、タイミングを見ては何度か教えに来てくれていた。私は、頼りにしていたのと同時に、自転車を教えるのは父親の仕事、と考えていた節がある。それは、男女の役割の規範が自分の中にあるわけではなく、私が苦手なことを石田さんに担当してもらう、ただそれだけのことだった。娘達が小さい頃の育児は、私にとっては本当に大変で、なかなか気持ちに折り合いのつかないものだった。その理由が今ではわかっているが、石田さんがいたからこそ、なんとか今に繋がっている。そうやって我々夫婦は補い合ってやってきた。
とはいえ、今里さんが度々教えに来れるわけもなく、この頻度ではもちろん乗れるようにはならない。どうしようかと思っていたのだが、前回 近所の野間さんの家にしょっちゅう遊びに行っていると書いたが、最近では学校帰りにほぼ毎日通うようになってしまった。ご迷惑をおかけして、と恐縮しながらも、これはチャンスと野間さん夫婦に自転車の練習をお願いしたところ、ほんの2、3日で完全に乗れるようになった。その適応能力を目の当たりにし、子どもはすごいですねえ、とみんなで喜び合った。
石田さんが亡くなり、これまで以上に頑張らなくてはいけない場面が増えたが、私は一人で抱えようとするのをやめた。抱えきれずに取りこぼしてしまう前に、最初から誰かに預けてみる。今里さんや、野間さん夫婦を始め、周りにいる人たちみんなで娘たちを育てたいと思っている。それはこれまで以上に心強く、視界が開けるような気さえするのだ。
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《著者プロフィール》
植本一子(うえもといちこ)
1984年広島県生まれ。
2003年にキヤノン写真新世紀で荒木経惟氏より優秀賞を受賞、写真家としてのキャリアをスタートさせる。広告、雑誌、CDジャケット、PV等幅広く活躍中。
著書に『働けECD―わたしの育児混沌記』(ミュージック・マガジン)、『かなわない』(タバブックス)、『家族最後の日』(太田出版)、『降伏の記録』(河出書房新社)がある。
『文藝』(河出書房新社)にて「24時間365日」を連載中。
http://ichikouemoto.com/