行けたら行きます 20

 パリからニューヨークに向かう飛行機でこの原稿を書いている。2週間の撮影の出張に来ていて、これまでにヨーロッパを数日かけてまわった。この出張も中盤を過ぎ、少しほっとしている。
 ここまで長い撮影の出張はもちろん来たことがない。毎日知らない場所へ移動するのは楽しくもあるがとても疲れる。とはいえ一緒に来ている仕事先の人たちは気心が知れていて、毎日一度はおなかがよじれるくらい笑えることがあり、恵まれているなと思う。
 旅行や海外というものにあまり興味がなく、数年に一度思い立って台湾あたりに行くことがあるくらいの人間で、仕事がなければ一生ヨーロッパの土地を踏むこともなかったかもしれない。パリとロンドンが同じ国だと思っていたくらいだし、英語も一切しゃべれない。非日常に対してストレスを強く感じる質で、案外勇気がない。そんな私でも、実はアメリカに一度だけ行ったことがある。
 19歳の頃、写真の専門学校に通っていた時に、ゼミの先生の撮影に生徒数人でついて行く旅行に参加した。あの頃はまだ未知のものに対して、恐怖より興味の方が強く、何より若かった。先生を含めた数人のメンバーで、ロサンゼルスを起点にアメリカの国立記念公園をレンタカーで写真を撮ってめぐる、3週間もの長旅だった。もう十年以上前のことになる。一緒に行ったゼミ生は同年代の女子が5人と男子が2人、それに白髪交じりの男の先生の8人だったと思う。毎日モーテルに泊まり、バンに乗って全員で撮影地を移動する。最初に大きなクーラーボックスを購入し、食事の材料をスーパーで毎日買い込み、モーテルで輪になって食べた。朝はだいたいパン、ハム、チーズ、野菜でサンドイッチを作った気がする。昼はだいたい道すがらのチェーンのファストフードでテイクアウトし、移動しながらのハンバーガー。時々チャイニーズレストランやメキシコ料理の外食もした。毎日いろんな場所に行ったはずなのに、思い出せるのはグランドキャニオン、ホワイトサンズ、サンタフェという名前のみで、その土地の光景や印象はおぼろげにしか記憶がない。こう書くと毎日楽しそうなのだが、慣れない場所にいることの緊張と、常に人といるストレスで、旅半ばで私一人限界がきてしまい、ある日爆発してしまった。何がきっかけだったのか思い出せないが、夕方モーテルに着いてから大泣きしたのだ。その時、どうやったら一人でアメリカから帰れるのか方法を必死で考え、号泣しながら帰りたいと先生に訴えた。思えば、自分の機嫌もコントロールできないくらいに幼かった。
 その時どうしたのか思い出すと、一緒に行ったメンバーで一番仲の良かった男の子が、ひとしきり泣く私のそばについていてくれた。先生と他のメンバーは夕飯に出かけ、おまえは残れ、と指示されたのだ。慰めるわけもなく、少し困った顔をして、黙ってそばについていてくれた。どれくらいそうしていたのか思い出せないが、あの時間があったからこそ、私は自分を立て直すことができ、旅を最後まで続けることができた。彼がいなかったら私はどうなっていたのだろうと思う。
 彼とは仲が良く、しばらくの間、同じマンションの隣の部屋に住んでいたこともあった。その時期が、アメリカに行ってからか、行く前からなのか、一緒に住んでいた時期さえ思い出せないが、私たちは姉弟のようだった。男女関係は一切なく、かわいい弟のように思っていた。どこか頼りない、アンニュイなところがある子だった。
 彼が死んだのはアメリカの旅行から2年後くらいのことだと思う。だから今でも思い出すのは、まだ二十歳そこらの若い姿形をしている彼だ。私は十歳以上も年を取ってしまったが、こうして出張で海外に来ても楽しく過ごせるようになった。あの頃に比べれば随分成長したなと思う。
 ふとした瞬間に彼のことを思い出すのだが、今回アメリカに行くことが決まるまで、モーテルで大泣きしたことなんて忘れてしまっていた。彼がずっとそばについていてくれたことも。彼はあの時、何を思っていたのだろう。これまでずっと、彼のことを頼りない弟分だと思っていたが、あの瞬間はそんなことなかった。自分の方がどれだけ弱かったか、彼を頼りにしていたか。彼との思い出はこれからも増えることはないと思っていたのだが、図らずも更新されてしまい、嬉しくもあり、やっぱり寂しい。
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《著者プロフィール》
植本一子(うえもといちこ)
1984年広島県生まれ。
2003年にキヤノン写真新世紀で荒木経惟氏より優秀賞を受賞、写真家としてのキャリアをスタートさせる。広告、雑誌、CDジャケット、PV等幅広く活躍中。
著書に『働けECD―わたしの育児混沌記』(ミュージック・マガジン)、『かなわない』(タバブックス)、『家族最後の日』(太田出版)、『降伏の記録』(河出書房新社)がある。
『文藝』(河出書房新社)にて「24時間365日」を連載中。
http://ichikouemoto.com/