Vol.7「ベスパを金に変えた日」

「なんで手放そうと思ったの?」

三軒目に訪れた専門店で、バイク屋の親父がいきなりそう聞いてきたので俺は驚いた。

他の店では、最初に理由なんて聞かれなかったからだ。

俺はまだ売れてない漫画家である事、このベスパをどれだけ大切にしてきたかを、そして本当は手放したく無い事を話した。

親父はふーんと言った後、俺のベスパをぐるりと見回し、二、三質問をした。今の時代には珍しい、ぶっきらぼうで画一的な接客はしない、昔ながらのバイク屋の親父といった雰囲気だ。

それから親父はパソコンの前に座り、電卓を叩いて少し考え込んだ。髭面で坊主頭の親父の顔には、深い皺が刻まれている。

「お待たせ。」

親父が提示した金額は、他店で聞いた相場よりずっと高い額だった。

親父は、ウチの店頭で売るならこの価格で売りたい。だから掛かる費用とリスクを考えてこの金額になると正直に話してくれた。

だから俺も正直に、思ったより良い値段で驚きましたと言った。

「あんたの話聞いちまったからさ。」

親父はそう言って笑った。

隣の作業場では、年季の入った職人が、油まみれの作業着で黙々と作業をしていた。

前日の夜、いつもの公園でバイクを綺麗にした。

スチールモノコック構造のボディは水で洗車をすれば錆がつく。だからスプレー式のワックスでこまめに磨き上げる。

この公園のライトの下で、今まで何度も繰り返してきた。

闇の中、コウモリが何処かで飛んでいる。

「俺の漫画が売れへんからなあ、すまんなあ」と言いながらベスパを磨いていたら、昔の事を思い出した。

生活が苦しくて晩飯が味噌汁と漬物やった時、お母さんは「こんなんしか出せんでごめんなあ」と泣いていた。

俺はそんなの全然平気やったのに。

ベンチに腰掛けてコーヒーを飲みながら、最後に磨きあげたバイクを眺める。

売れたい。心の底からそう思った。

当日の手続きは呆気ないほどあっさり終わった。

シートに手を当てる俺に、親父は「良い人に渡るようにするから」と言ってくれた。

よろしくお願いしますと、俺は頭を下げた。

気軽に誘える友達もいなくなったのはいつからだろう。

最寄駅の中目黒の改札口は、多くの人であふれている。

俺はその前を通り過ぎて、家まで歩いて帰る事にした。孤独な自分にとって、バイクはただの移動手段では無かったんだ。

山手通りを車の流れに逆らって歩く。歩きながら考えを巡らせる事はもう無かった。とっくに迷いなんてないから、家へと続く最後の坂を下った。

近くのコンビニでパックの牛乳を買い、いつもの公園に腰掛ける。

この場所から新宿の高層ビルが見える。

その向こう側、煌びやかなネオンの明かりが、青白く夜空を照らしていた。

闇の中、コウモリは何処かにぶら下っている。

月も出て無いのに、

いくら目を凝らしても星ひとつ見えへんから、

俺は5畳の部屋に戻り、

ライトボックスの明かりを灯した。

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