老いを追う 12 〜年寄りの歴史〜

第四章 『養生訓』を読む 3
 「年とってから後は、一日をもって十日として日々楽しみがよい。つねに日を惜しんで一日もむだに暮らしてはいけない」と『養生訓』は記す。そして、ほかの人間の過失や悪い行ないが気にいらなくても、「凡人だから無理もない」と思って、寛大にすべきだという。
 決してとがめたり、怒ったり、うらんだりしてはいけない。つまらないと思って年月を過ごすのは惜しいから、いつも楽しんで日々を送るのがよい。家が貧しく、幸いがなく、飢えて死んでも、死ぬときまでは楽しんで過ごすのがよい。貝原益軒による養生の訓えは、ポジティブで、とても前向きなものだといえるだろう。
 老後の暮らしについては、静かで、落ち着いた過ごしかたをすすめている。
 「朝は静かな室に、楽に坐って香をたき。聖人の教えを声をあげて読み、心をきよめ俗念を去るがよい。道がかわいて風がない日は、庭に出てゆっくり歩き、草木を愛玩し、季節の風景を観賞するがよい」。
 こういった具体的な指示は、八十四歳まで生きた益軒自身の実体験にもとづくものだろう。精力的な著作活動を支えた知力はもちろん、益軒は八十歳のときでも目はよく見え、一本の歯も抜けていなかったといわれている。
 益軒が結婚したのは遅く、三十八歳のときに十六歳の初(はつ)、のちの東軒をめとった。東軒は病弱で二人のあいだに子どもはなかった。二十歳以上も年が離れていた二人だけれど、たいへん仲がよかったそうである。
 東軒は益軒の草稿や日記を代筆し、仕事のうえでも「内助の功」を発揮した。
 「才も徳も両方とも申し分なく、経書や史書に通じ、教養があり、隷書が上手である。また和歌を詠み、いつも益軒にしたがって、景勝地をめぐり、益軒が多くの旅行記を書いたのを、内から助けた」
 と伝記作者も特筆している。
 二人は音楽の趣味も共通し、日頃から益軒が琵琶、東軒が筝(そう)の演奏を楽しみ、益軒の六十歳の賀の祝いでは合奏を披露したという。
 『女大学』といって、女子教育の理念や結婚後の生活の心得を説いた、江戸時代のベストセラーがある。この本は益軒が書いた『和俗童子訓』の一部、「女子ニ教ユル法」を当時の本屋が通俗化して出版したとみられている。元の本を三分の一まで減らして、「一度嫁しては二夫にまみえぬこと」、「夫を天として服従すること」などといった封建的な夫婦関係、妻は夫に従うべきだといった道徳観が前面に出ている。しかし、『和俗童子訓』はそんなことを主張した本ではなかったし、益軒自身も当時では珍しいくらいの男女平等主義者だった。
 旅をよくした益軒は、京都旅行に二度、東軒を同伴した。益軒の仕事中には、東軒はひとりで奈良を行楽し、二度目の旅では一年半もかけて、温泉に立ち寄ったりしながら物見遊山を楽しんでいる。しかも、体の弱い妻をいたわりながら旅したようである。
 しかし東軒は六十一歳で、益軒を残して先立ってしまう。
 年譜によると、妻を失ってからの益軒は孤独でさびしく、気力も体力も失ったという。来客を断るようになり、一度は回復の兆しがみえたものの、ついには起たなくなってしまった。益軒がこの世を去ったのは、東軒を失ってわずか八ヶ月後のことである。
 『養生訓』は親孝行をしつこく説くけど、夫や妻を大切にするのが長寿の秘訣だといった記述はない。しかし、益軒の健康と長命は、東軒をいたわり、支えることで保たれていたのかもしれない。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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