老いを追う 13 〜年寄りの歴史〜

第五章 隠居はかなえられたか 1
 「隠居」とは文字どおり「隠れて居る」ことであり、煩雑な社会を逃れて山野に隠棲することを意味する。しかしいまでは仕事を辞め、子どもも自立し、悠々自適にすごす年寄りがイメージされる。でもいったい、そんな幸福な隠居生活は実際にかなえられてきたのだろうか。
 現在、だれにもとがめられず隠居を実行するには、「定年退職」という制度を利用する必要がある。この二、三年のあいだにベストセラーになった内館牧子の『終わった人』の主人公は六十三歳で定年を迎え、楠木新の『定年後』は六十歳を定年退職年齢として老後について論じている。
 実感が乏しいかもしれないが、一九八〇年代までは、日本のほとんどの企業における定年退職年齢は五十五歳だった。いっぽう平均寿命は、一九五〇年(昭和二十五年)で男性が五十八歳、女性が六十一歳だった。つまり男性の場合、定年後、三年ほどしか余生を楽しむことができなかったのである。
 しかし日本人の平均寿命は急速な経済成長のせいもあり、どんどんと伸びていった。一九六〇年では男が六十五歳で女が七十歳、七〇年では男が六十九歳で女が七十四歳、一九八〇年には男が七十三歳、女が七十八歳に達した。三十年のあいだに、日本人は男女とも、十五年も長生きになったのである。
 こうした高齢化にともない、法律上の定年年齢を延ばさざるを得なくなった。一九八六年(昭和六十一年)に六十歳定年が企業の努力義務になり、九四年には六十歳未満定年制が禁止される。これ以降、六十歳が日本の定年になった。近年では、希望者全員を六十五歳まで継続雇用することが企業に対して義務化されている。
 隠居という言葉が、家督を次代に譲って、退隠すること意味するようになったのは戦国時代からのことである。江戸時代の武家社会では、嫡子が成人し、妻をめとり、家長にふさわしい格式を備えると、相続と隠居があわせて行なわれた。
 幕臣の場合、役職を退き、隠居することは認められてはいたものの、病気隠居は四十歳以上にならないと願い出ることができず、老衰隠居は七十歳以上で初めて認められた。武士の隠居にこうした厳しい制限が加えられていたのは、主君に対して奉公の義務を持つ当主の地位を、自分の意思で辞退することはできなかったからである。
 肥前国平戸藩の第九代藩主、松浦静山(まつらせいざん)の随筆集『甲子夜話(かっしやわ)』には、一八三四年(天保五)に、古希をすぎて幕府に勤めていた五十人の一覧が掲載されている。
 このうちの最高齢者は、西丸槍奉行の堀直従(なおより)で、九十四歳だった。直従は翌年、九十五歳で辞職し、六十四年におよぶ奉公を終えることができた。この一覧の時点で七十六歳だった土屋廉直(ただなお)も、九十五歳まで勤めたのち、老衰を理由に職を辞している。二人とも自己都合による隠居を延ばされ、百歳まであと五年という歳まで奉公を続けたのである。
 古代の日本では、七十歳以上になった官人が職を辞し、隠居を申し出ることを「致仕(ちし)」といった。致仕もまたすべてのものに、ただちに認められたわけではない。
 奈良時代の学者で政治家の吉備真備(きびのまきび)は、老齢を理由に七十歳で致仕を願い出たものの、光仁天皇は二つの職務のうち、片方の辞任しか許さなかった。真備はその後、右大臣を経て、七十七歳になってやっと致仕を認められた。辞職後の真備の老後は、四年程にすぎなかった。
 この時代、辞職を願い出ることは「骸骨を乞う」といったそうである。その意味は、「君主に一身を捧げ、仕えた身ではあるけれど、老いさらばえた骨だけは返していただきたい」ということだという。なんとも切実で、残酷で、涙ぐましい言葉だろうか。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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