老いを追う 15 〜年寄りの歴史〜

第五章 隠居はかなえられたか 3
 近世になると、家業を跡取りに譲ったのちは、自身のために悠々自適の生活を送りたいという「楽隠居」の夢が、農民にも広まっていった。そしてなかには、家長や主婦としての役割から解き放たれ、学問や趣味、物見遊山を楽しんだりした年寄りもいた。しかしそれは、資産のある家だけでかなえられることで、ほとんどの農民は年老いても、働けるかぎりは働いた。
 十八世紀前後の加賀藩領における農事暦を描いた『農業図絵』には、女性や子どもたちとともに働く老人たちの姿がいたるところに見つけられる。
 四月には畑の大豆・小豆・稗・粟などの追肥と除草、五月には刈り取った大麦の運搬、小麦の刈り取り、畑の稗縄の植場づくり、六月には刈り取った藍の運搬、八月には収穫した稲の運搬、九月には落穂拾いと米の精選、刈り取った藁麦の運搬、十二月は石臼による粉挽きといったぐあいである。このうち箕(み)を使った米の選り分けや粉挽きには年老いた女性が参加している。年齢は明らかではないけれど、姥となっても捨てることをせず、労働力としてみなされていたのである。
 
 もし隠居をかなえられたとしても、気が気ではなかった。隠居のための生活費をめぐって、親子のあいだのもめごとが少なからず起こったからである。
 もめごとを避けるため、跡取りとのあいだで隠居料を決めた証文を取り交わすこともあった。証拠を残しておかなければ安心して隠居できなかったのだ。
 江戸時代の後期、下野国河内郡下蒲生村(現在の栃木県河内郡上三川町)に生まれ、荒廃した村の復興に尽力した田村仁左衛門吉茂は、遺訓において隠居後の心得を説いている。
 「隠居するときは隠居料などとらず、後見人となって、必要に応じて食物や小遣いさえもらえばよい。欲深く多く隠居料をとろうとするから、親子の関係も難しくなるのだ。私欲を離れて暮らせば、その徳によって家族・親類・友人とも仲むつまじく暮らせる。私はそれこそを極楽隠居と考えている」。
 労働の対価を得られない老人は、周りの人間とのいざこざを避けて、おとなしくしているべきだということか。
 柳田国男の『遠野物語』に登場するある老人は、小遣い程度の労働によって、理想的な隠居をかなえたようにみえる。
 村人たちが乙爺(おとじい)と呼ぶその老人は、数十年間山の中に、ひとりで住んでいる。裕福だった乙爺だが、若いころに財産を失い、家を傾けてしまった。そして世の中への思いを絶ち切り、峠の上に小屋掛けして、往来の人に甘酒を売って駄賃を稼いでいる。
 収入が少しでもあまれば、乙爺は町に下りてきて酒を飲む。そのいでたちは赤ゲット(毛布)でつくった半纏に赤い頭巾で、酒に酔うと町なかを踊りながら帰る。それを見ても巡査がとがめたりしない。
 乙爺は口癖のように、「遠野の昔話を、だれかに話して聞かせおきたい」という。
 館(たて)の主の伝記、家々の盛衰、遠野に伝わる歌の数々、深山の伝説、山奥に住む人々の物語はこの老人が最もよく知っている。けれどもからだが臭いため、立ち寄って聞こうとするものはいない。でも甘酒を買いにくる子どもたちは、この年寄りのことを父のように慕っているという。
 乙爺が身につける赤い半纏と赤頭巾は、じぶんの子どもかだれかから、還暦の祝いに贈られたものかもしれない。ただしこの時代の赤ゲットは、政府が軍隊用に輸入したブランケット(毛布)が日清戦争後に払い下げられて、庶民に防寒着として広がったものだそうである。
 こうした人の目に立つ恰好で酒を飲み、街を闊歩するようすには、孤独な老人のダンディズムが感じられる。乙爺の子どもはみな北海道に渡ったというが、身寄りのない老人がお洒落して自適する姿は、とても素敵ではないだろうか。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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