老いを追う 22 〜年寄りの歴史〜
畑中章宏
第八章 恍惚の人々はどこにいたのか 1
「恍惚の人」の存在は、有吉佐和子の小説によって初めて明らかになったわけではない。日本のそれまでの文学作品のそこかしこにも、恍惚とした人々は描かれてきていた。
古く奈良時代末期に編まれた『万葉集』では、年老いた鷹番が自慢の鷹を逃がしてしまったことに対し、「狂(たぶ)れたる醜(しこ)つ翁」と呼び、なじっている。呆けた行動は「狂」であり、「醜」だというのだからひどい言い方だ。しかも口汚く罵ったのは『万葉集』の編者とされる大伴家持その人だった。
平安時代初期に編纂された『続日本記』には、地方官(郡司)は次のような状態になったら、自ら退職するように述べられている。「神職(じんしき)迷乱」し、「重病に沈」み、「狂言を発」するようになったときだそうで、「神職」は心の働きを意味するらしい。
紫式部の『源氏物語』(平安時代中期)にも、年寄りの恍惚が描かれていた。
この長編物語には「老いゆがむ」、「老いひがむ」、「みにくく老いなる」というふうに老いを否定的にみた言葉がいくども出てくる。さらに老耄は、「今はこよなきほけ人」、「ほけほけしき人」、「年の数つもりほけりける人」と表現されている。また菅原孝標女の作だといわれる王朝物語『夜半の寝覚』(平安時代後期)にも、「老いの積りのほけほけしさ、かくこそは口惜しく」と老いの無念が綴られている。つまり平安時代の半ば過ぎから、老耄を「ほけ」というようになり、それが現在の「ぼけ」の語源となったとみられている。
鎌倉時代の軍記物語『源平盛衰記』では、源頼朝に刃向った伊東入道祐親法師をその子の祐清が「父入道老狂の余り便(びん)なき事をのみ振舞い候」と弁明している。「便なき」は「けしからぬ」という意味で、「老狂」のふるまいだから、ご容赦願いたいということだろう。また『吾妻鏡』でも、頼朝の賜物を酒宴の席で争っていたものが、「老狂の致す所か」とたしなめられている。合戦の最中でも「老狂」がしでかすことに周りは迷惑していたのだ。
江戸時代の奇人・変人の伝記集『近世畸人伝』(伴蒿蹊著)では、養生することで老耄を遅らせることができ、「食を喫(くらう)も些(すこ)し」、「心志(意志)を労することなし」、「淫事を断」つのがよいといっている。しかし、養生したところで不老長寿を得られるわけでもなく、衰えに応じて、年寄りは人前から遠ざかるのがよいともいう。また老耄の治療にかんしては、「神医(かむい)といえども術無(すべなし)」というから、恍惚の人々は見放されていたといってもよい。
尾張藩の重臣で俳人でもあった横井也有(やゆう)の老いをうたった狂歌がある。
その前半は体の老化を表現したもので、「しわがよる ほくろが出来る 背がかがむ/頭はは(禿)げる 毛はしろ(白)くなる/手はふるふ 足はひよろつく 歯はぬける/耳は聞えず 目はうとくなる/身にあうは 頭巾えりまき杖めがね たんぽ温石しびん(尿瓶)まご(孫)の手」と、なかなかにリアルである。
一方、後半は「くどくなる 気みじかになる ぐちになる/思い付く事 みなふるくなる/聞きたがる 死ともながる 淋しがる/出しゃばりたがる 世話やきたがる/又しても同じ話に孫ほめる/達者じまんに人をあなどる」というふうに、老耄者特有のくどくどしさがよく捉えられている。
身近にもこういう人がいたのでよくわかるのだけれど、認知症の症状を記したものとして、現代にも通じる生々しい狂歌といえるだろう。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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