老いを追う 30 〜年寄りの歴史〜

第十章 「養老」と「敬老」という言葉 3
 平成時代の東北では、花見に繰り出す老人たちのことを、本来は年寄りを敬う側にいるはずの「敬老者」と書き誤った。そして、年寄りのための座席の確保は、多くの人から非難を浴びることになった。でもじつは、日本では昔から、老人が人出の多いところに出向くことに、気を配っていたようである。
 平安時代にまとめられた『令義解(りゅぎのげ)』という法令解説書をひもとくと、祭に人が集い、酒を飲むときの礼儀が説かれている。それによると、六十歳以上のものは坐るように、五十歳代のものは立って飲むようにとされているのだ。
 また平安時代末期の『今昔物語集』には、現代の電車の置き紙と、どこか通じる話が収められている。巻三十一の六話、「賀茂祭の日、大路に札をたてて見物した翁の話し」で、賀茂祭とはいまに伝わる「葵祭」のことである。毎年五月十五日(陰暦四月の中の酉の日)に、下鴨神社と上賀茂神社でおこなわれるこの祭は、雅な行列がいちばんの見ものである。
 今は昔、賀茂の祭の日に、一条大路と東の洞院の通りの交差点のあたりに、明け方から札が立てられていた。そこにはこんなふうに書いてあった。
 「ここは翁が見物する場所である。ここに立つべからず」。
 人々は、「これはきっと陽成院さまが、祭を見物する場所に違いない」と思い、そこに近寄らず、牛車を止めることもなかった。陽成院はときの上皇である。
 祭の行列が通りかかったころ、浅黄色の粗末な着物を着たおじいさんが、どこからともなく現れた。おじいさんは扇をあおいで、立て札の下で行列を見物し、行列が通り過ぎると帰っていった。
 そのようすを見た人々は、上皇が祭を見るために札を立てたのに、なぜいらっしゃらないのだろうといぶかしがった。あるものは、「あの老人があやしい。陽成院さまが立てたように思わせて、自分が見物する場所を確保したに違いない」と言った。
 この出来事は陽成院の知るところとなり、「その老人を召し取ってきて、問い尋ねよ」と言うので、老人を探し出してきた。
 「おまえはなぜ『院が立てられた札』と書いて大路に札を立て、得意顔で祭を見物していたのだ」と役人は問いただした。するとおじいさんは、
 「たしかに札は私が立てました。けれども院が立てた札だとは、どこにも書いていません。私は祭を見物したかったというより、孫が今年、行列に参加するので、その姿を見たかっただけなのです。しかし八十歳のこの年齢では、群集に踏み倒され、死んでしまっては甲斐もないので、無事に見るため札を立てたのです」と言うのだった。
 これを聞いた陽成院は、「よく思いついて札を立てたものだ。孫の晴れ姿を見ようとしたのなら理にかなっている。この年寄りはとても賢い」と感心し、老人の身を自由にした。
 おじいさんはしたり顔で家に帰ると、おばあさんに「自分のたくらみが悪いわけがない。上皇も感心されたのだから」と言い、悦に入っていた。
 しかし、世間の人々は陽成院が感心されたことを、よく思わなかった。それでも、「おじいさんが、孫の晴れ姿を見たいと思うのは道理である」と言い合ったという。
 だが実際に、おじいさんが孫を見たかったのか、孫が賀茂祭の行列に参加したのか、そもそも孫がいるのかも定かでない。おじいさんはおそらく、行列を人混みにまぎれず見物するため、世間の「敬老」を演出したのである。
 おじいさんのたくらみは、なかなかに手が込んでいる。賀茂の祭、葵祭の季節が近づいてきたが、「浅黄色の粗末な着物を着たおじいさん」には注意をしたほうがいいだろう。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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