老いを追う 31 〜年寄りの歴史〜

第十一章 父を看取る。幸田露伴とその娘 1
 幸田露伴といえば、いまでは小説『五重塔』の作者として知られていることだろう。
 江戸の下町、下谷(したや)に生まれた露伴は、明治二十年代から三十年代には、『金色夜叉』の尾崎紅葉と並ぶ人気作家だった。露伴は小説だけではなく、東洋的博学をもとにした随筆・史伝・考証にも独自の境地を示した。
 露伴は最初の妻、幾美(きみ)とのあいだに、長女の歌、次女の文(あや)、長男の成豊(しげとよ)を儲けた。しかし歌は数え年の十二で亡くなり、成豊も肺結核で若くして世を去った。三人きょうだいでひとり残ったのは、もともと露伴に疎んじられがちだった文だけだった。露伴は文に暮らしにまつわる技術を厳しく教育していった。
 文は二十四歳のとき、清酒問屋三橋家の三男幾之助と結婚した。娘の玉も生まれたが、結婚から八年後には問屋が傾き、幾之助は肺結核を患ったために離婚する。文は小学生だった玉を連れて露伴のもとに戻り、戦時中は家族の生活物資の確保のために働いた。
 昭和二十年三月に長野の坂城に疎開した一家は、終戦後は伊豆で過ごし、その後は千葉県市川市菅野の狭い家に移った。
 もともと神経の細かい露伴を、七十八歳になろうとする衰えと、持病の糖尿病や動脈硬化などがむしばみ、いっそう気難しくしていった。文や玉に癇積を起こして、罵声を浴びせることもあった露伴に対して、ふたりの女性は身辺の世話を焼き、介護にあたったのである。
 「ながい昔から父には生活の習慣があった。朝、眼覚めていつまで床にぐずついていたためしがない。……起きるとすぐ手水(ちょうず)、座に著いて一服、目の前で煎れさせた焙じ茶一杯、新聞・書信に目を通して朝食、ときまっている」。
 そんな露伴が、いつの間にか朝の手水に起きてこなくなり、歯ブラシを使うのが危ないと思うのか、うがいですますだけになった。さらに口の中が気持ち悪いのか、「ぶっかき氷」を欲しがりはじめた。こんなことはいままでになかったことで、氷をそのまま齧るなんて、露伴の軽蔑するところだった。
 「それほど冷たいものがたべたいのなら、氷の如く冷やしたものをたべるがいい。じかに氷を使ってする方がよりよい風味になるものは特殊な少数しかない」。
 「氷を使うんなら切っ立ったような意気を見せてやってくれ。極上の味が出せる自信がないのなら、氷なんか寧ろない方がましだ」。
 こんなふうに息巻いていた露伴がいま、「ぶっかき氷が食べたい」、「氷枕がしたい」と言うのである。
 露伴の容態が思わしくなくなった日には、病人用だと言えば氷屋は氷を売ってくれた。しかしお盆が来ると、氷は水晶より貴重なものになっていた。氷を手に入れるためには、朝の六時には、遠い道を駈けつけて行列に並び、九時に着くトラックを待たなければいけなかった。それでもその日の入荷量が少ないと、重病人だと言っても、氷屋の診断が通ったものの手にしか渡らなかった。食欲のない病人の、唯一残った食欲を満たしたいがため、文と玉、露伴の幸田家では氷に奔走した。
 露伴付きの編集者が、「氷を必要としている病人は、文化勲章という立派な賞を最初にもらった人だ」などと氷屋に講釈をし、なんとか氷を約束してもらった。しかし、とかく約束ははずされがちで、保証のかぎりではなかった。
 「それに天が味方しなかった、人が味方しなかった。なまじい降ろうとして降れないで晴れる空だけに、燃えあがるような暑さ、ぎらぎらする旱(ひで)りつづきだった。誰も彼も喘いだ。犬ももの憂く、烏も産まず、井も涸れた。氷の闇値は奔騰していた」。
 家に不安を残して、文は炎天下に氷を求めて出て行った。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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