老いを追う 32 〜年寄りの歴史〜

第十一章 父を看取る。幸田露伴とその娘 2
 夏の盛り、それまで口にしなかった氷を欲しがるようになった幸田露伴のため、娘の文(あや)は、炎天下の町に駆け出していった。
 しかし、氷はどこにもなかった。そもそも店が閉まっていたのだ。交番の若い巡査はこう言った。
「そうなんですよ。氷がなくってね、きのうはおばあさんが来たし、けさは女の子がそう云って来たんで、かわいそうだと思ってもどうしようもなく返しました。この奥に幸田さんて文化功労勲章を持ってる年よりがやっぱり重態で、氷々って云ってさがしてる話聞くんでね、ぼくらもなんとかならないかと心配して、魚屋のおっちゃんちの冷蔵庫を明けて見たけど、魚も氷もなんにもなかった。」
「きのうのおばあさん」は雇ったばかりの女中のようで、「けさの女の子」はおそらく娘の玉子のことだった。文が行きかけると、巡査は、
「それでもひょっとすると魚屋にあるかもしれないから、行って見るなら」
 と言い、親切に見送ってくれた。魚屋に行ってみたところ、まな板も三和土(たたき)も乾ききって、休業していた。
 露伴の古参編集者の土淵さんが、ほうぼうを歩きまわり手に入れた二貫目(約七・五キロ)の氷が、ぽたぽたと溶け始めていた。
 線路に沿った道を歩いていくと、電車が文のすぐそばを走りすぎていった。真夏の太陽に反射したレールと枕木に、文は露伴の肋骨を思い浮かべるのだった。土橋さんに追いつこうと駈け出しながら、文は、「こんな労働は人にさせるべきでない」と強く思った。二週間ほど前に雇い入れた女中は、近所中に愚痴をこぼしているみたいだ。自分が困るとわかっていながら、女中にはその日のうちに暇を出した。
 露伴には、果汁、葡萄糖、牛乳を氷で冷やして飲ませた。間に合わないときは、「吸い飲み」の中に、ぶっかき氷を入れて飲ませた。氷は薄いガラスの容器に当って、からからと音を立てた。
「ああ涼しい音だ。」
 そう言う露伴の顔は、「ちいさい時はきっとこんな顔していたんだ」とわかるような表情をしていた。
 人は老いるとともに、子どもに戻っていくと俗に言われる。娘を厳格にしつけた明治の文豪が、老いと病いで、娘に見せたことのないあどけない表情を見せたのだ。娘の当惑と怯えは想像以上のものだったろう。
「風鈴みたよね、おとうさん。」
「うん、そうかと思った。」
 なぜとも知らず娘は、「もういけない!」と思った。父の目の前で吸い飲みを振りながら、うわごとのように娘はしゃべり続けた。
「風鈴は、だけど外へ外へと一しょう懸命に早く拡がって散っちまおうとする音じゃないかしら。これは林檎のジュイスがはいっているから、あんなには響かない音だわね、やわらかいいい音ね。」
 父を見ると、早く飲みたいのか子供のような顔をして、ぼかんと口を開けていた。
「ああもうだめだ、どうしてもだめだ! からだ中ががたがた顫(ふる)えて来、手首がおかしいほどぶるぶるしている。」
 吸い口を含んだ唇に娘の手の震えが伝わり、ガラス管の先を父はぎゅっと噛んだ。
 吸い飲みを左手に持ち代えると、そのほうが静かで、「ああよかった」と思うまもなく、右手よりもっとひどく震え出した。しかし、果汁は残っていない。吸い飲みを振り回したためにできた細かい泡が、飲み口の細い管をふさいでしまう。
 ただ果汁を飲ませるだけなのに、子どもに戻ったような父親の表情を見て、手を震わせる娘。しかし娘はまた、凄絶な観察眼で事態を見ている。そして鮮明に記憶している。「おまえたいそう手が顫えるじゃないか。」
 父に悟られてしまったことに、娘は、「斬るとも見せず真向につけられた白刃」が来たと感じる。娘は白刃におびえて、逃げ出してしまう。このときの出来事を娘はその後、「残念だ、腑甲斐ない」となんども思い出すのだった。
「いま重いもの持ったから。」
「そんなに重いものを、何を持ったんだね。」
「こ、お、り。」
 父に向って娘はうそをついた。冷蔵庫から出して少し欠いただけなのだ。
「ま、おまえももうこれからはからだを大事にすることを考えるんだな。」
 樽の底が抜けたように何かが流れ出し、空になって行くような気持ちに娘は陥る。
「これが私が父にしゃべくった千万のうその最後のものになった。」
 幸田文が父露伴に果たした以上の、大変な「介護」は少なくないだろう。しかし文ほど、近親者の老いと病いとその手助けを、同情を拒んで冷徹に綴った人はいただろうか。こうして娘は父を看取ることで、作家になっていったのである。
◇◇◇◇◇
《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
・twitter