老いを追う 45 〜年寄りの歴史〜

第十五章 臨終の風景 3
 現代の日本では、ともかくも老いを予防するため、人びとが望む臨終を迎えることが難しくなっている。本人や親族は目前に迫る死期を認めようとせず、医者はいたずらに延命をはかる。自宅での死をよしとせず、多くの年寄りたちが望まぬ最期を迎えることになる。
 1906年(明治39年)に出版された塚本はま子『実践家政学講義』の冒頭には次のように書かれていた。
「最早死に帰すると定まりたる病者には快復を望まず安く安眠せしむることを望むべし」。
 この本が書かれた当時、平均寿命は男女とも43から44歳、現在の半分ほどである。結核による死者も9万人以上におよび、感染症による乳児の死亡率は現在の200から250倍に達していた。ほんの110年ほど前でも、死は身近だったのだ。
 訪問診療医の小堀鷗一郎は、多くの人びとが死を忘れてしまったことが、現代の死をめぐる問題の根底にあるという。そして、死は「普遍的」という言葉が介入する余地のない世界であり、「人の死」をマニュアル化しなければ数がこなせない時代がやってくる、と警告を発する。
 小堀は、多くの患者の看取りにかかわってきた経験をもとに、『死を生きた人びと――訪問診療医と355人の患者』(みすず書房刊)という本を書いた。国立の医療機関で院長まで勤め上げた小堀は、その後、民間病院に赴任し、在宅診療に携わってきた。80歳になるいまでも、週3日、車を運転して往診に回る。なお、小堀の母は作家の小堀杏奴で、祖父はやはり医師でもあった森鷗外である。
 小堀はこれまで355人の看取りにかかわった。8割が病院で死亡する日本で、小堀が診たうち271人が在宅看取りで、自宅での死を選んだことになる。
『死を生きた人びと』に登場する患者たちは、個別の事情を抱える。さまざまな事例を紹介していくなかで、在宅死と病院死が相対化されていく。
 ICU病棟で孤独な10か月を過ごした101歳の女性がいた。
 女性は長男夫婦とふつうの生活を送っていたが、ある夜、突然ベッドに上がることができなくなり訪問診療を始めた。数日後に寝たきりとなり、半月後には急速に食事量が低下、ある日寝入ったあと2日間目を覚まさなかった。いったんは在宅看取りの方針だった3日目に長男が、「母が可哀想そうで耐えられない」と入院を要請し、緊急搬送された。
長男と長女、次女は最初の1か月は頻繁に病床を訪れていたが、次第に足が遠のきはじめ、その後患者は暗い集中治療室で10か月あまり生き続けた。患者の死亡時刻は、夜勤看護士がナースステーションで平坦になっているモニターに気づいたときだった。
 調査によると日本は、「生かす医療」が世界第2位、「死なせる医療」が20位以下だという。小堀は、101歳の女性の臨終を、「物質的には豊かであるにもかかわらず、死を忌むべき敗北とみなすことから起きる悲惨」のひとつだと述べる。
「畳の上で死にたい」という望みをかなえる在宅死を、小堀は絶対視しているわけではない。
 81歳の胆管末期がん男性がいた。彼は老々世帯で、妻は入院中だった。長女は夫と二人の幼い子供と4人暮らしで、仕事を持っていた。父親を頻繁に見舞うため欠勤が多くなり、上司にきがねをしていた。
 父親が自宅に帰り、何日、何週間かの最期のときをすごすには、長女が夫と子供を置いて実家に泊まり込む必要がある。それだけの犠牲を払うほど、父親は自宅へ帰ることを望んでいるのか……。こうした話し合いの末、在宅看取りはおこなわず、そのまま入院生活を継続することとなった。翌日、小堀が患者の枕辺に見たのは、長女手製の大きな額縁に入った家族の集合写真だった。
 小堀は、こうした例は在宅神話を打ち破り、家族の事情に即した「人間らしい死」の迎え方だったと実感したという。
 臨終が突然やってくることももちろんある。しかし、老いや病に追われて死に臨むとき、私たちは少しでもその準備をしておくことができるだろうか。臨終の風景は、いま目の前にある風景の延長にあるのではないだろうか。
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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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