推薦文 市原真

『宙に参る』がおもしろい。小細工なしで述べるが私はこのマンガがとにかく好きだ。トーンと白のバランスが大好物である。センス抜群のセリフ回しが素晴らしい。ときどき無重力環境で暮らす人びとの、ヘアスタイル・衣服・アクセサリーの中立進化が見事である。ストーリーの都合で動くキャラが一人もいないことにぐっと来る。規格外のいぶし銀、突き抜けた小癪、蠱惑的な人、人、リンジン。
 私は鵯(ひよどり)ソラの環世界に没入する。シャバいカレーが100点なところ、スペースコロニー内のエレベーターのアナウンスでコリオリ力の注意喚起をするところ、ジヒ港でアディさんのジャケ写について長広舌を奮うシヤが背負ったリュックがC44柄なところを偏愛する。ソラの足趾に性癖を抉られる。

 読んでこれほどよく唸るマンガも珍しい。揺さぶられる。テクい。ひひっと笑顔にさせられる。ときどき猛烈に切なくもなる。リンジンたちのアテンショナルなニューラルネットワークから漏れ出る、高分化な心性のミミッカーに、手が届きそうだと感じた次の瞬間、優しい斥力でそっとはね返されるような読書体験なのだ。物語の重心に漸近できても接着することまでは許されない、薄皮一枚分の距離はすなわち、すぐそこにある未来と今すでにある現在とを隔てるエアシャワーである。押し戻されて、ちょっと抵抗して、一流の物語にだけ許される宙ぶらりんさを存分に味わう時間がとても贅沢である。流行りの最大公約数的類型コンテンツほど安易に「自分ごと」にさせてくれない、近いんだけどはっきり隔絶されているとなりの別世界を、高解像度でのぞき見している背徳感、役得感、普段あまりディテクトしないシグナルに自律神経がひやっとする感。
 規定航路をダミーに任せ、目的のために規律と全体を利用しながら微速前進する旅路が愉快でしょうがない。

 『宙に参る』はハードSFの決定版である。仮に作者に「この作品はどうやって創作したのですか?」と訊ねたとして、「これは私の創作ではなく、じつは見てきたものを見てきた通りに書いただけ、つまりは観察記録です」とうそぶかれたとして、「もしかしたら本当にそうなのかも……」と納得してしまうのが真のハードSFであろう。読者はおろか作者さえも目が届かないはずの物語の畝の向こう、カーテンの裏、洞窟の奥、ドーナッツの穴にテクスチャが貼られている。
 たとえば棋星のコンビが互いにまるで関係のなさそうな名前を付けられている点が、「ぽい」。「G-Commander」の由来は銀将のGであるが、その相方兼好敵手である人工知能のネーミングがK-Commanderではなく「板東62」なのがいい。AIの開発チームが別なのだろう。わかる。
 あるいはソラが面倒な署名を乗り切ろうとして「静」を名乗るシーン。初読ではまず気づけないが、じつはソラの義母の名前が「静」である。こういう未必の故意による犯行がいかにもソラである。「あいつならやりかねん」を公式が供給している。はやりの「世界観」みたいな言葉を使いたがる創作者に限って、大味な設定の意匠に気を取られて登場人物たちの小さな行動に矛盾を生じさせてしまいがちだけれど、『宙に参る』は極めてロバストだ。捗る。
 
 『宙に参る』は会話劇の最高峰である。マダンの「え何 誘ってんの?」に対してソラが「なんですか やめますか」と返す一連のくだりは何度読んでも惚れ惚れする。ヘレン・ケラーが「これが……萌え……?」とプルプル震えるレベルである。ちなみに『宙に参る』は個人的に絶対に実写化してほしくないマンガランキングNo.1で、万が一にも実写化されたら解釈違いのストレスで寿命短縮不可避であるが、ぶっちゃけ舞台でならワンチャン見てみたい。それほどまでに、長くてファジぃ関係性から出力された太く短いコミュニケーションが秀逸なのである。1巻におけるレストランでの食事のシーン、「この店のデータベースは人間の味覚を理解してるわけじゃないし/人間だって他人と脳味噌が繋がってるワケじゃないから大差ないですけど」の次に接続される一言が「あの子と居ますしね」なのが、もう、抜群だ。リダンダントな後光にひれ伏すばかりである。

 『宙に参る』は幾度もの再読に耐える。二度目、三度目の読書が毎回新たな出会いとして成立するほどに緻密で豊潤だ。さっきも数十回目の再読ではじめて西向きノコギリのTシャツを見つけた。「ITSU NOKA WAKARANAI OKASHI」の湿気ってる手触り。逆噴射なうだそうです。えっ、あっ、配付アバターってそういう意味だったのか。何度読み返しても初読の未曾有。再読可能な本とはすなわち、完全合法の依存性薬物だ。報酬系がいっせいに騒ぎ出す。
 そして白眉は「C44」だ。SF愛好家垂涎のエピソードであり、誰もがまず初読で圧倒される(発表直後のツイート数も多かった)。ただし初読のインパクトだけに留まらず、何度読み直しても新たな発見がある。「動くベースのけいふ」なんてもう……ほんと……(軽く痙攣)。「そうともとれるメッセージ」が幾重にも畳み込まれた四次元の折り紙を、執念の手作業で解体して読み解く無粋な悼み。それに「先回りして応答する」生前葬の喪主が小粋にほくそ笑む構図が……尊くて……無理。C44の話? いや、『宙に参る』全般に言える話。

 ところで私は多少生命科学を嗜んでいるのだけれど、『宙に参る』は定義上、生命でよいのではなかろうか。自己の範囲を有限に規定し、自律的に代謝し、自己複製をも行い、メモリーに個を秘匿しているから条件を満たしているだろう。そこで本作のセントラルドグマにあたるものは何か考えてみる。それは「判断摩擦限界」という概念ではないかと思う。これはもう、実際に読んで感じて欲しいのだけれど、判断摩擦限界こそは本作の要だとわりと本気で考えている。次に来るマンガ大賞もヒューゴー賞も結構なことだが、本作の射程はノーベル医学生理学賞だろう。生命を創っている以上、資格は十分だ。

 振り向かずに後ろをこっそり見るときの宙二郎がかわいいので探してみて欲しい。そも創作物の中で新規のゲームを作ってそこに再現性のあるバグ(ズルじゃない)を仕込む作者の脳ってどうなってるんだ? カト カト ゴュ ゴュ。「無重力下で子を1人にするべからず(無限に回り出すので)」。ネタバレを避けて書こうとするあまり、細部の神ばかり拾い集める八百万GOになってしまったことをお詫びしたいが、あえて書かなかった本筋、すなわち「鵯ソラの49日間と同じ輪の中で擬似的に過ごすこと」について、未読の方はぜひ各自の感覚質での知覚をお勧めする。早く読みなよ。私たち既読勢は、一足お先に、宙二郎のいる未来に参じる。

お知らせ

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    ソラと宙二郎は次の寄港地「シアッカ」へ。特装版は大充実の48P冊子付き。(冊子表紙イラスト描き下ろし。仏語版第1話&翻訳者コラム・世界観資料集・豪華ゲストによる寄稿イラスト、漫画、推薦文を収録)

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