老いを追う 26 〜年寄りの歴史〜

第九章 「ポックリ往生」と「ボケ封じ」 2

 「ポックリ往生」のご利益をうたう寺院で最も有名なのは奈良県生駒郡斑鳩町の「吉田寺」だろう。
 創建は平安時代中期の九八七年(永延元年)、天台宗の高僧、恵心僧都源信が開いた。源信は『往生要集』という本に、地獄と極楽のようすを描いて、日本人の死生観に具体的なイメージを与えた僧侶である。
 源信は、奈良の葛城郡當麻村で生まれ、信仰心の厚い母親によって九歳のとき比叡山に入って、慈恵大師良源(元三大師)に師事する。それから五年後一四歳で得度し、一五歳のときには村上天皇から、「法華経」八巻を講義する法華八講の講師のひとりに選ばれるほどの秀才だった。
 源信は母の臨終の際、除魔の祈願をした浄衣を着せて、念仏を唱えたところ、苦しみもなくやすらかに往生したという。そこで、本尊の阿弥陀如来の前で祈祷を受けると、長く患うことなく、シモの世話にならずに、延年天寿を全うし、安楽往生できるのだという。

 そもそも吉田寺は檀家も持たず、お墓もない寺院で、戦後の一時期は、住職さえ不在だった。念仏講の寺で、「ポックリ往生」の言い伝えも、知る人はかぎられていた。いまから半世紀ぐらい前には、住職の母親が、お寺に集まってくる女性たちの相談相手を務めていた。
 「舅がぼけて、便を壁に塗った」「姑が寝たきりになって、長い」。家族が認知症であることや、寝たきりになったことを他人に言ったりしにくかった時代に、女性たちは親の安らかな最期のために祈ったという。ところが、『悦惚の人』がベストセラーになって以来、メディアでたびたび紹介されるようになり、「ポックリ寺」として全国に知れわたるようになったという。
 住職の母親によると、「本当のぽっくりは急死することじゃない。大和言葉で保久利(ほくり)往生といって、十分に寿命を生きて安らかに死ぬこと。長生きの願い」なのだそうである。

 こうした「ポックリ寺」は全国に何十ヶ所もある。
 東北では、福島県の「会津ころり三観音」が多くの参詣者を集めている。三観音とは大沼郡会津美里町の中田観音弘安寺、河沼郡会津坂下町の立木観音恵隆寺、耶麻郡西会津町の鳥追観音如法寺である。
 どの観音堂にも共通するのは堂内にある「抱きつき柱」にすがって祈れば、死の床に際しても苦しまずに成仏でき、家族に負担をかけずにすむといわれていることだ。また立木観音には、櫛を奉納する習俗もある。これは「苦」と「死」を納め、少しでも病気の苦しみや精神的な苦しみ、死への恐怖を和らげるためだといわれている。
 こうした語呂合わせやこじつけに近い信仰は、各地でみられるものだが、「ポックリ寺」のなかには次のようなところもある。それは、阿弥陀如来や観音菩薩、あるいは薬師や仏像といった仏教の尊格ではなく、ゆかりの人物にかこつけたものだ。

 『平家物語』や『源平盛衰記』で坂東武者の代表者として描かれる那須与一を、ポックリ往生祈願の対象としているところが全国に何か所かある。
 兵庫県篠山市の瑞祥寺の「那須与一大権現」、兵庫県神戸市須磨区の「那須与一の墓」、京都市東山区泉涌寺山内町の「即成院」の「那須与一の墓」、京都府亀岡市の「那須与一堂」、徳島県名西郡石井町高原の「与一神社」などだが、その信仰は与一の最期にかかわる伝承と結びついているらしい。
 たとえば京都の「即成院」では、与一が死んでゆくとき、スソ(シモ)の世話がかかり、「これは私の業だ。私はこの病気で苦しんだのだから、世人も困るだろう。だから私一代でこの病気を無くすように私は守護神となろう」といい残したと伝えている。
 那須与一といえば、屋島の合戦で、平家が立てた扇の的を射落としたという誉れの高い伝説で知られているが、末期の伝承はあまり格好のよいものではない。よもや「ポックリ往生」で信仰されるとは、与一は草葉の陰で苦笑しているのではないだろうか。

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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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