老いを追う 29 〜年寄りの歴史〜

第十章 「養老」と「敬老」という言葉 2

 評判があまりよくない「養老」という言葉に対して、「敬老」という言葉は国民の休日に名づけられるぐらい広く認められた言葉である。
 「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ため制定された「敬老の日」は、ある村の敬老行事をもとにしているという。
 兵庫県の山間部、多可郡野間谷村(現在の多可町八千代区)の村長だった門脇政夫という人が、「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、一九四七年(昭和二二年)九月十五日に村主催の「敬老会」を開催した。
 九月十五日という日取りは、気候的に過ごしやすく、農閑期で時間に余裕があることなどの理由で決められた。また「養老の滝」の伝説で、元正天皇が滝に出向いたのが九月十五日だったという説があり、それも参考にしたようである。
 一九四八年七月に制定された「国民の祝日に関する法律」で、「こどもの日」と「成人の日」ができたが、老人のための祝日は設けられなかった。そこで門脇村長は、この年九月十五日に開催した第二回「敬老会」で、九月十五日を「としよりの日」として村の祝日にすることを提唱した。村長が、県内のほかの市町村にも祝日の制定を働きかけたところ、賛同が広がり、五〇年には兵庫県が「としよりの日」を制定するに至った。
 一九五一年には中央社会福祉協議会(現・全国社会福祉協議会)が九月十五日を「としよりの日」と定め、六三年に制定された老人福祉法によって九月十五日が老人の日とされ、翌年から実施された。さらに六六年には国民の祝日に関する法律が改正されて、「建国記念の日」、「体育の日」とともに国民の祝日「敬老の日」が制定された(同時に老人福祉法でも「老人の日」が「敬老の日」に改められた)。
 六六年の制定以来、敬老の日はずっと九月十五日だったが、二〇〇二年(平成十四年)から九月の第三月曜日に変更された。

 ところで年寄りをめぐって、最近こんな出来事があった。
 宮城県内のJR東北本線で、電車の座席の上に老人クラブのグループ名で「席をお譲り下さい」との置き紙があったことから、ツイッターで批判が相次ぎ、炎上状態になったのである。
 これは、お花見に行く年寄りのたちの席を確保することが狙いだったのだが、置き紙にはA4判ぐらいの白い紙に大きな字で、「次の駅から、敬老者が十六名乗車します」と書かれていたという。六十代のメンバーが、十六席に置き紙をして「場所取り」をしたようで、置き紙の最後には、当該県の老人クラブ連合会の別称とその中のグループ名が書いてあった。ちなみに老人クラブというのは、地域を基盤とする高齢者の自主的な組織で、老人ならではの「知識や経験を生かして、……地域を豊かにする社会活動に取り組み、……明るい長寿社会づくり、保健福祉の向上に努めることを目的」とする親睦団体である。
 老人クラブの一行は、置き紙をされた次の駅で電車に乗り込み、目的の駅で降りた。置き紙をしたメンバーは、ほかのメンバーに八十代ぐらいの高齢な人が多いため、気を使って席を確保したらしい。またほかの参加者は置き紙について関知していなかったようである。

 この出来事が炎上したのは、首謀者が六十代だったにせよ、老人たちによる横暴な振る舞いとみられたせいである。お年寄りに席を譲るという善意やマナーに対して予断を持ち、「優先席」を独自に作り出した行為が非難の的になったのだ。
 しかし私はこの報道を少々読み違えていた。置き紙に「敬老者が乗車します」と記されていたことを見逃していたのである。この文面を書いた人物は、お花見に出かけようとする八十代の老人たちのことを、「敬老者」と記してしまっていたのだった。
 おそらくは「敬老の日」が頭にあったためだと思われるが、「敬老者」は席を譲る側にいる人たちのはずである。
 「敬老の日」がかつて、「としよりの日」と呼ばれていた時期があったように、「としより」の方が、当事者にも周囲の人々にも、おだやかな響きを感じさせていたように思う。「としより」が花見にいくのであれば、置き紙がなくても、だれもが席を譲ったのではなかったろうか。

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《著者プロフィール》
畑中章宏(はたなかあきひろ)
1962年大阪府生まれ。
作家・民俗学者・編集者。著書に『災害と妖怪』(亜紀書房)、『蚕』(晶文社)、『『日本残酷物語』を読む』(平凡社)、『天災と日本人』(筑摩書房)、『21世紀の民俗学』(KADOKAWA)ほか多数。
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