#02『HANA-BI』北野武 監督(前編)

【世界も自分も拒絶し悪を演じるオンナ・・・ショートケーキとシュークリームと銃声と(前編)】

暴力を描ききる北野映画では男だけが光る。北野映画で「悪」でない男を捜す方が困難だ。では女たちは? 彼女たちは悪だろうか?

『HANA-BI』の主人公、西の妻(岸本加世子)は子を失った母であり、不治の病を患う病人だ。

病にかかるとそれだけで人は、「役立たず」とみなされ、社会のシステムから「はみだした」存在へと追い込まれる。資本主義社会で権力が我々に求めてくるのは、「産む機械」か「労働する機械」になるか。地獄の2択だ。それが現代の残酷なリアルである。

西の妻は「悪」ではない。とはいえ「かわいそうなだけのオンナ」でも決してない。彼女の生きることを「拒絶」する態度こそが、破壊的物語『HANA-BI』の点火源であるからだ。彼女は「悪」であることを引き受ける。自己破壊という欲望をかなえるために。

システムエラーでしかないオンナを、求めている唯一のニンゲンがいる。それがビートたけし演じる「西」という名の刑事である。システムをまわす「労働する機械」であった西はその役割を降りる。『HANA-BI』はシステムエラーとなった西が妻と共に破滅する話だ。

北野武は男たちを加害者として描く。殺されるに値するニンゲンのクズとして描く。加害者は被害者にもなる。一方、オンナたちは男の暴力の被害者でしかないように見える。

輝けるクズである男たちに比べると、オンナたちは希薄な存在でしかない。なぜなのか。

わたしが幼い頃から見つめていたテレビの中の「ビートたけし」は、オンナを見つめられない人だった。オンナがそこにいるだけで、いつもとても恥ずかしそうにしていた。「見る」ことが暴力だと知っているのだ。それは彼が誰よりも「見られて」きたからだ。

カメラを回し始めてから止めるまでを「ショット(shot)」と言う。1ショットは映画の最小単位でもある。「ショット(shot)」には銃声という意味もある。カメラを向けることは相手を撃つのと同様に暴力である。それは他人の肉体を略奪することだ。

カメラの前で何度も何度も転んできた芸人ビ-トたけしは、その加害性を一番知っている人だ。カメラに向き合い自らの肉体を「撃たれ」る痛みを、知る人だ。

「見ることじたい」「カメラをむけることじたい」が暴力だとわかっている北野武に、オンナを撃てるだろうかと考える。撃てるかもしれない。それが単なるお人形であれば。しかし彼に、オンナの中身まで略奪できるだろうか? と考えると、それは一番やりたくないことだろうと思った。

北野映画におけるオンナが、クズに酷い目にあわされるかわいそうな記号か、男が躓くきっかけか、あるいは背景でしかないのは、「カメラを向ける」という行為ゆえではないか。オンナに個性がないのは、ナカミのない人形でないと撮ることもはばかられるからではないかと、大変失礼ながらわたしは考察していた。

北野映画に漂う詩的表現と男たちの魅力を常に絶賛しながら、「オンナが描けていない」ことを指摘する批評家がいた。淀川長治である。
淀川長治は北野武との対談でこう語る。

淀川:「男の映画ね、全部男、女はきらいなの?」
武 :「うーん、どうも女の人が映画で目立つの、好きじゃないんですよね、そのうちどうにかしようと思ってますけど」
淀川:「そうね、あんたは女を軽蔑してるね。」
(キネマ旬報増刊No.1247「フィルムメ-カ-ズ2 北野武」1998年2月3日発行)

淀川長治は、神戸・新開地の芸者置屋の跡取り息子としてうまれた。今は「神戸のB面」と地元民が自虐する新開地は、かつては神戸最大の繁華街で「東の浅草、西の新開地」と称されたほどだ。

色街としての歴史も日本屈指の由緒あるもので、始まりは明治元年だ。『まむしの兄弟』のゴロ政と勝がねり歩く街であり、彼らがお世話になるトルコ街・福原も隣接している。今もソープや風俗がやたら充実している地域だ。

かつてはわずか1キロ弱の商店街に、20軒もの映画館・演芸場が並んでいたという。千代之座、キネマ倶楽部、相生座、栄館、有楽館、菊水館、二葉館、朝日館、神戸劇場、松竹座…調べだすときりがない。

神戸大空襲で街は壊滅的な被害を受けたが、それでもわたしが産まれた70年代末期までは健在だった聚楽館(しゅうらっかん)は、実父の口からよく出ていたフレ-ズだ。跡地はパチンコ屋だ。

湊川周辺で育ち新開地の映画館へ通い続けた淀川長治は、その街を「神戸文化の噴水」と称した。淀川は身ひとつで労働し、肉体を略奪される女たちと、映画に囲まれて育った。

淀川長治はその出自も関係してか、映画での女性の描かれ方にかなり敏感な映画評論家だった。わたしは映画の中の女性に対して思いやりの目を向ける、同郷の「淀長さん」がすきだった。同時に男の色気を語らせたら止まらなくなるフリーダムなところも、人間らしくて好きだった。

その淀長さんの「女を軽蔑してるね」発言は、北野武監督作品の弱点を鋭く突くものだ。武の映画監督としての手腕を絶賛しながら「(ばかばかしいセリフを書くのがあんたにはツライんだろうってことはよくわかるが)女も人間だからね、ちょっとは考えてね」と付け加えている。

「男と女に会話させると全部、前戯にみえる、セックスの匂いをさせたくない、生理的にいやだ」と北野武は言っている。北野映画のオンナたちは、セックスの匂いを消すために幾度となく声を奪われてきた。

話さない、という特性は、オンナキャラに限らなかった。ビートたけし演じる男はいつ何時も寡黙だ。

北野映画の男と女は基本、会話できない生き物だ。その断絶の痛々しさは、北野映画の魅力のひとつでもある。セックスシーンには、あえぎ声すらほとんどなかった。獣性を示す記号でしかない。男がブザマに腰を振っているにすぎない行為は、物悲しくなるほど滑稽で、非常に即物的だ。

『HANA-BI』で描かれる夫婦にも会話はなかった。では『HANA-BI』の主人公の妻もまた、中身のないヒトガタなのだろうか? わたしはそうは思わない。そのことをテーマにすえて、語っていくことにする。

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