#02『HANA-BI』北野武 監督(中編)

【世界も自分も拒絶し悪を演じるオンナ・・・ショートケーキとシュークリームと銃声と(中編)】

映画の冒頭シーンを凝視することは、物語の目次を読むことに等しい。概ね流れが掴めるのが目次というものだ。

この映画は天使の絵ではじまる。花に埋もれた五線譜の絵の次は、花火をみる父・母・娘という家族構成の絵だ。この3人は共に天に召されるのだろうか。

絵のあとに、実写がはじまる。首をかしげただけで圧倒的な威圧感を伝えられるのが、ビートたけしという人だ。タイトルが出るまでの冒頭シーンで語られるのは、「ナメたガキはぶち殺すぞ」ってことだけだ。

ビートたけし演じる主人公は、この糞忌々しい世界をもっと汚すヤツらをブッ飛ばせる、スーツ姿の恐い男だ。自分の車の上で弁当を食い散らしたチンピラに、その薄汚い手で掃除させた上でケツを蹴りあげる。手はポケットにつっこんだままだ。ゴミクズ相手に自分の手を汚す価値すらないと言わんばかりだ。

車が去った駐車場には「死ね」という赤い文字が残される。主人公の車は、左は海、右は崖がせまる湾岸沿いを、手前から奥へ向かって走っていく。海の向こうは「あっち側」の永遠だ。ナメたガキも青ければ、海も空も青い。

『HANA-BI』の主人公は世界に背をむけ、観客であるわたしたちを見放し「去って行く」男だと、最初から示唆されている。

この映画は、バイク事故で死にかけたビートたけしが、「死ね」を越えていく物語なのだと思った。映画館の椅子に磔になり、暴力と死のにおいに痺れ倒していた1998年のわたしは、まだ21歳だった。

『HANA-BI』の主人公は「子どもは死んじゃうわ、女房は病気だわ、まして仕事が刑事」という男である。名前を西と言う。

西は「拒絶」を「選択」する人だ。

「拒絶」・・・それは唯一無二の「選択」である。どんな「持ってない」人間にもできるそれは、誰にでも開かれた選択肢である。カネも地位も権力も健康すらなくても、拒絶はできる。買わない、喰わない、恋愛しない、風呂に入らない、生きる希望すら持たない。わたしたちは誰もが、世界も他人も自分も「拒絶」できる。

西がNO!をつきつけるのは、糞忌々しい世界だけではない。殴りつけている自分自身が一番忌々しい。世界を汚すヤツらも許せないが、自分が一番許せない。自分が一番汚れている。世界をぶっ壊し、自分だってぶっツブしたい。

「賞を何回もとっている、ものすごいやり手」の刑事が、なぜこうも世界も自分も、拒絶する必要があるのか?

西(ビートたけし)は入院中の妻(岸本加世子)を見舞うため、凶悪犯の張り込みを同僚の堀部(大杉漣)に任せた。堀部は撃たれ、半身不随になる痛手を負った。親友である堀部は自分に当たるかもしれなかった銃弾で、仕事もイエも失った。

観客は過去をさかのぼって観る。それはもうすでに起きたこと。変えられないこと。過去はいつも、どうしようもないこととして、繰り返し脳内に再生されるだけのこと。因果。過去があるから現在の振る舞いが規定される。因果の間は編集ですっ飛ばされる。

悔やんでも悔やんでも過去は変えられない。しかし未来は変えられる。堀部が人生を失ったのなら、自分だって捨てねばならない。堀部や死んだ部下に当たった銃弾は、自分が受けるべきものだったから。西はそういう責任感で生きている男だ。

死に損なった西は、殉職した部下の妻には生活費をわたし、堀部には生きようと思える希望(画材)を与える。しかしそのために、西は仕事を失い、安全も失い、最終的にはイエだって壊す。そうしなければ、スジが通らんと思いこんでいるのだ。

西は、「システム側」の立場を降り、積極的に自分の人生を壊し始める。「持てる者」だった彼が「持たざる側」にわざわざ身をやつすのは、「拒絶」という名の唯一無二のカウンターに賭けるためだ。

ヤクザにも警察にも追われる孤独な一匹狼になりさがって打つワンパンチによって得られる「ささやかな勝利」が、たとえ自己破壊であったとしても、それを選ぶのは、「死」を乗り越えるためである。不治の病を患う妻が死んだら、西には生きている意味などない。彼がほんとうに生きられる時間はあとわずかしかない。

西と堀部は中高の同級生だという。西と堀部がおさまる最初の画面で、ふたりは後部座席に並んで座っている。西は黒いジャケット、堀部は白っぽいジャケットだ。同じ方向、同じ風景を見ていた黒白コンビは、堀部の被弾以降、非対称のカタチをとっていく。

西より背が高かった堀部は、被弾後は車椅子生活となり、西に見下ろされている。車椅子を手で漕ぐ孤独な堀部に対し、西は助手席に妻を乗せて自動車を運転する。屋根なしの車と、屋根付き車の残酷な対比だ。圧倒的に西のほうが「持っている」にもかかわらず、西は堀部以下になる努力をし続ける。

堀部は仕事とイエを失い、孤独に再生しようとする男である。
西は仕事もイエも破壊し、妻と共に破滅しようとする男だ。

死に損ないである堀部は、絵を描くことで、忌々しい世界に新たな秩序を見いだしながら、生き続けることで死に挑む。
死に損ないである西は、銃を撃つことで、忌々しい世界を一掃しながら、自死へ一直線に向かうことで死に挑む。

北野武は英国の映画評論家、トニー・レインズとの対談でこう語っている。

『ことさら二人を対比しようと思ったわけではなく、二人を使って日本の伝統的家族という概念に取り組んでみようと思ったんだ。夫、妻、そして子どもという関係は日本では盤石と考えられてきた・・・おめでたいことに。しかし現実はそんなもんじゃない。家族とは本質的に強い絆で結ばれ、感情的にも結束が堅いという、日本人の家族概念は幻想にすぎないし、そこを突き崩していこうと思ったんだ。』
(「サイト・アンド・サウンド」1997年12月号)

『HANA-BI』は西が何度も過去を思い返すという構造をとる。過去は現在と同等以上の生々しさで迫ってくるため、それが西の「思い返し」であることに最初は気づけずに戸惑う。

観ているうちに疑念がわいてくる。ちょっと待てよ、現在として描かれていることは実体か? これもまた幻なのでは? わたしが観ている「西の現在」は、死後の西の残像思念でしかないのでは?

夫婦が暮らすマンションのエントランスに堂々と放置されている三輪車、あるいは意味ありげな子供靴は・・・一体誰のものなのか。わたしたちが見せられているこの夫婦の肖像は、まさか死んだ子供の幽霊目線か?

わたしが永遠に誤読し続けられるのは、この映画がことばで説明することを「拒絶」し、ほとんどサイレント映画かパントマイムのように、絵で物語り続けているからだ。そしてそれこそが、わたしが思う映画の理想だ。限りなく誤読が許されるのは、限りない広がりが、自由が、あるからだ。

『HANA-BI』は後半「心中もの」になっていく。西にとって「この世界に二人きりだ」という純化された状態を邪魔するヤツを、皆殺しにしているにすぎない。

西の妻の望みは何だ? 病により肉体的に痛めつけられているオンナ、娘のいない世界にとどまり続けなければならない心の痛みを抱えたオンナにとっては、「死」そのものこそが慰めだ。「心中」を望んでいるわけではない。彼女は「自死」したいのだ。

夫への思いやりゆえにそれができず、ただ耐えている。沈黙は、自分自身も世界も拒絶しているという態度のあらわれである。

一度も言葉を発せずに夫のそばに居続けるオンナが、ラストシーンで吐露するあの二言は何なのか。次回(後編)で語ることにする。

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  • /////『彼岸花』2025.12.12 ONSALE/////

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