#02『HANA-BI』北野武 監督(後編)
(1998年公開)
【世界も自分も拒絶し悪を演じるオンナ・・・ショートケーキとシュークリームと銃声と(後編)】
『HANA-BI』の主人公:西(ビートたけし)の妻(岸本加世子)は失語状態にある。子を失い、不治の病を患う西の妻は、口をきかないことで世界も自分自身も拒絶している。痛い苦しいすら言わない。
この夫婦のことばの希薄さは、関係が断絶しているからではない。むしろお互いを思いやるあまり、無駄口をたたかず、泣き言ももらせないからこそ、会話がない。
そのことがよくわかるのが、西がケーキを買って帰ってきたシーンだ。西は黙って、妻の皿にショートケーキ、自分の皿にシュークリームを置く。高価なハレの日のお菓子を妻に、より庶民的で日常的な方を自分に。
妻は黙ったまま、夫の前に置かれたシュークリームを奪って自分の皿にのせ、ショートケーキのイチゴだけを、西の空の皿に置く。西は首をかしげちょっと笑う。妻は黙って茶を入れ、たばこに火をつける。そのたばこを西は奪う。
会話できない男女の間にはアクションしかない。
朝。昨晩のアクションの果てに残されるのは、永遠に沈黙するモノだけだ。机の上に放置されたままの妻の皿には、イチゴとシュークリーム半分が残されている。西の皿は空っぽだ。
西の妻はかわいそうなオンナだろうか。主張できないビョーキのオンナだろうか? イチゴとシュークリーム半分が、なぜ妻の皿に残っているのか。
わたしはあなたの何もかも独占できるし奪える、厭なら奪い返せばいいだろ? そう男にハッパをかけられるような、オンナなのかもしれない。西はイチゴに目を落とし、黙って苦笑した。何もかもわかっているのだ。暴力的な夫の妻は、自分に劣らず暴力的で支配的にもなれるってことを。自分と相似形だってことを。
西の妻は夫の前で、ワルぶっているだけだろう。西が責任感ゆえに、病の自分を捨てられず、なおかつ自死せねばスジが通らんと言うのなら、愛する男のために一肌ぬいでやろう、それが西の妻のとるアクションの意味だとわたしは読み解く。
煙草を吸うフリやケーキを奪いとる行為にわたしは、このオンナの心意気を見る。男が罪悪感なく道連れにできる悪女を演じてみせるのは、彼女の思いやりだ。娘のいない世界で生きていたって意味がない、わたしは今すぐにだって破滅できる、あんたがそれを選ぶなら。イチゴはそういうサインだ。終わらせることこそが、彼女の欲望だ。
「拒絶」は西だけではなく、妻の選択でもあるのだ。
イチゴはハレの日のお菓子、ショートケーキの主人公だ。西の人生の主人公は西ではなく妻だ。自分はワキだと自覚している西はイチゴを食えない。
主人公は連れ合いの方だという認識は、妻の方も持っている。だからイチゴを西に託した。甘いケーキは愚鈍な生活以上の何かだ。イチゴは銃弾のメタファーかもしれない。ヤるかどうかは、あんたが決めろ、わたしの心は決まっているとでも言いたげだ。
ふたりは似たもの同士になれるほど、愛し合うカップルである。暴力的なほど、お互いに譲歩している。
西は妻に全部捧げた。シュークリームもショートケーキも。食いきれなければ残せばいいと、一言も発せず言ったのだ。そして二人はイエを出る。新婚旅行をもう一度やるのだ。
ショートケーキとシュークリームとイチゴ。たったそれだけで、なぜこうも雄弁に語れるのだろう。言葉をそぎ落とすことによって、絵で語る魔法、映画的技術を、北野武は熟知している。
北野作品においては決して会話できない男女関係を逆手にとり、ことばを超えて魂のレベルで、会話させている。そういうシーンが『HANA-BI』には数々ある。
西の妻は、男の暴力を表現するためだけに存在する、空っぽな人形ではない。ナカミのあるオンナである。その証拠に西は妻の写真を撮れない。ふたりでフレームに収まろうとしても、時間差と車の往来に阻まれる。一方で、旅館の女将は西の妻の写真が撮れる。ナカミあるオンナにカメラを向けられるのは、その肉体を略奪しないオンナだけ。北野武の美意識は、徹底している。
北野武はオンナをクズの位置まで落とせないと前述したが、『HANA-BI』にはこの原則に違うオンナもでてくる。廃車場で働く(というよりはそこにいるだけの)ブリーチした髪の毛がプリンになっている若いオンナだ。
スクラップ業を営むオヤジの娘なのか、それとも従業員なのかも判然としない。彼女もまた失語状態だ。シンナーを吸ってトリップ中だからだ。廃車場に積まれる部品と同様、ブっ壊れているクズである。
このクズ女がすこぶるよい。地面1点のみ見つめ、動くことすらしない姿はヒトガタというよりはゾンビである。このゾンビはたまに言葉を発し、また1点をみつめて不動となり、オヤジに殴られたりもするのだが、彼女は男の暴力の被害者ではない。オヤジが自分の席に座り、仕事をさぼるや否や「寝てんじゃねーよ」とシンナー缶で殴って反撃する。
シンナー中毒のオンナは、男と同様に加害するクズである。彼女もまた、世界も自分も拒絶している。
『HANA-BI』にでてくるオンナは誰一人、男から奪われていないし、略奪もされていない。失語状態にありながらヒトガタではなく、男に決して支配されない。なんなら男を支配している。描かれていない堀部(大杉漣)の妻だって、被弾し弱り果てた夫を捨て「イエを壊した」オンナだ。
『HANA-BI』はオンナたちがイエを解体する話である。
西は男たちの前では決して痛みを表現しない。しかし妻に手を車で轢かれた時だけは「痛いよ」とこぼしている。一方、西の妻は一度だって泣き言をもらさない。寝ている時に涙をこぼす以外は。この物語中、誰よりもやせ我慢しているのは彼女だ。誰よりも強がって生きているニンゲンだ。弱音を吐ける西は彼女の配下だ。
誰よりもやせ我慢する男である西は、妻の「男らしさ」を誰よりもわかっている。だから彼女と「ともに」イエを壊す。破壊的オンナに連帯し、共にシステムを壊す「悪」になる。
「俺は ああいう風には生きられないんだろうなぁ」
西を観察し続ける部下、中村(寺島進)は西への憧れをそう吐露する。中村も犯人逮捕の際に死に損なった男だが、彼こそ「男社会」に適応した男であり、主流だ。
北野武は、オンナには「イエ」を拒絶する姿勢をとらせ、システム側のニンゲンであった西に自己破壊させることで、「イエの解体」を描いた。西のようにリスクを取れる男がどれだけいるか? 地位を降り、自己破壊してまでこの忌々しい糞世界を変えてやると心に決められる男がこの世にいるのか?
だから西は圧倒的にアウトローであり「憧れ」であり「悪」でもあり「負け組」だ。北野武のニヒリズム、リアリズムは残酷すぎるほど徹底している。
ラストシーン。妻は西に「ありがとう」「ゴメンね」と言う。
映画中、彼女のセリフはこのたった二言だけだ。妻の肩を西は抱く。二人は同じ幻影を観ている。カメラはぐっとひいていく。小さくたよりなくなった彼らは、カメラのフレームから外れていく。この世界から永遠に二人は消える。乾いた銃声が二発鳴る。
「ありがとう」「ゴメンね」
新婚旅行をもう一度、下手に繰り返した男へのねぎらいも、共に破滅してくれる男への積年の想いも、すべてが含まれる短い二言と波の音を残して、物語は閉じる。画面は海と空の青だけだ。
西と妻は鏡面の関係だ。痛みと暴力を同量に抱え込み、世界も自分も拒絶していた死に損ないの二人は、同じ魂を共有する同志として破滅し、あらゆるシステムからはみ出した。それは二人が選択した、糞忌々しい世界への一撃である。
ラストシーンはバッド・エンディングではない。初手から「拒絶」という唯一無二の選択をしていた二人が、その思いを遂げたのだから心願成就、ハッピー・エンドだろう。二人の気持ちは同じ。病で死ぬではなく、誰かに殺されるのでもなく、二人で積極的に娘のいる「あっち側」に行く。痛みに耐えるだけの人生で即死を願うのは罪か?
2発の銃声。男はイチゴを託してくれたオンナに、ショートケーキもシュークリームも銃声も与えた。
『HANA-BI』は死しか望みをもたない「役立たず」オンナに、男が命まで捧げた話だ。それは世界も自分自身すらも拒絶した、自分そっくりのオンナに書いたラブレターでしかない。
「男らしい」オンナはいくらだっている。女性を「依存的」で「受動的」で「弱い」枠にはめこむのは、システムをまわすための詭弁でしかない。
北野武は、西の妻を沈黙させ、観客に「依存的で受動的で弱い」オンナというステレオタイプを信じ込ませたあと、一粒のイチゴと「ごめんね」「ありがとう」でもって「主体的で能動的で強い」オンナだと反転させる。わかりやすいフリと、圧倒的に飛躍したオチ。それこそが、常識を非常識に反転させることで笑いをとってきた「ビートたけし」の豪腕だ。
強い男:西は、ラストシーンで妻がいないと生きていられないほど弱い男だとわかる。暴力は弱いニンゲンが振るうものだ。この物語の支配者は西の妻である。
北野映画は『キタノブルー』と評される青い美だ。北野武はナカミのあるオンナにキタノブルーを着せた上で、破滅させた。
「役立たず」を愛する北野武の大いなる「照れ」。
「西の浅草」育ちの淀川長治は、浅草芸人、ビートたけしの本名仕事に、熱っぽく語りかけた。
「もっと愛したい、もっと見つめたい」
ショートケーキもシュークリームも銃声も、わたしは欲し続けている。
打ち寄せる波の音だけが、永遠にリピートし続ける。
/////『彼岸花』2025.12.12 ONSALE/////
「人生で選べたことなんてあったか?」
緊急事態宣言下、追いつめられたオンナの運命は…。
90年代に青春を送り、コロナ禍の〈今〉を生きる氷河期パンクスの「痛み」と「反抗」の物語。オルタナMANGA、ついに単行本化!
◾️『彼岸花』の単行本に帯がない理由→編集部ブログ