#03『WANDA』バーバラ・ローデン 監督(前編)
(米公開1970年/日本公開2022年)
【酒と煙草とセックスだけの無力な童女(前編)】
監督自身が主人公を演じるフィクション映画・・・例えば北野武監督ビートたけし主演の映画を眺める観客の戸惑いは、キャラクターの人生に芸人・ビートたけしの人生が重なってしまうことだ。フィクションだとわかっていても、演じ手のリアルがどうしても紐付いてしまい、切っても切り離せない。観客の脳内で『オーバーラップ』がおきてしまう。この映画のこのシーンは、あの人のあの経験ではないか。そういう想像が雑音にもなるし、深みにもなる。
『WANDA』もそういう映画だ。バーバラ・ローデン監督が、主人公ワンダを演じる。フィクションだが「半自伝的」だと評される。『WANDA』を公開した1970年のバーバラ・ローデンは38歳だ。
フィラデルフィアの炭鉱の街にある一軒のイエ。ギャアギャア泣くハイハイの赤ん坊を、気にもかけない主婦がワンダ(バーバラ・ローデン)である。幼い子がふたりいる。
夫曰く最低の妻である。家事もせず飲み歩き、子供は放置。母親失格。
夫には愛想をつかされている。とにかくすべてにおいて無気力なオンナだ。
鉛色の殺伐とした景色の中をふらふら動く小さな白い点がワンダだ。超ロングショットの画面は、風景だけが圧倒的で、ワンダの姿はあまりにもはかなげで頼りない。
彼女はこの暗い街で浮いている。石炭拾いの老人にカネを無心するワンダは、髪にカーラーを巻いたままだ。中年なのにまるでギャルみたいな風貌の彼女には、ギャルほどの生命力はない。イエとソトの意識すらない白い浮遊霊だ。小花模様の変にかわいいブラウスを着て、鞄を手にチャラチャラひっかけている彼女に、家庭人としての自覚はまるでない
借りた金でバスに乗ったワンダはどこへ行く? 裁判所だ。夫に離婚調停されている。夫には子供をみてくれる新しいオンナがいる。彼女が後妻におさまって、ワンダは押し出されてしまうのだろう。ワンダを擁護する人はいない。裁判所にカーラーを巻いたまま来るような非常識きわまりないオンナは腕を組んだまま、「離婚に異論はない」と返す。彼女はイエも子供も失う。
ワンダは労働現場においても「役立たず」だ。縫製工場の仕事を増やしたいが、仕事が遅いから雇われない。カネがないからビール代すら払えない。おごってくれた客と寝る。ワンナイトで捨てられたワンダの背景にあるのは、瓦礫の山だ。
ワンダに行く場所などない。孤独に街をふらつく姿は、生きる屍でしかない。目に映るマネキンは自分より豊かに着飾っている。ワンダだって大きなお人形でしかないが、マネキンの価値にも届かない。
ワンダは何も手に入れられない。彼女を気にかける人はいない。映画館で寝ている間にワンダは全財産失う。スリにあったのだ。あたりはもう夜である。
どれだけ無視されようともワンダは浮遊霊ではなく、排泄するニンゲンだ。トイレを借りに勝手に入った閉店後のBARで店主と思い込んだその人は、強盗だった。名前はデニス(マイケル・ヒギンズ)という。ワンダとデニスの奇妙な逃避行がはじまる。
小さな強盗を繰り返しながら車を進めるふたりには、ドラマチックな要素がまるでない。デニスは「印象に残らない客」のような男でしかないし、ワンダは受け身で流されるままのほぼ幽霊だ。かっこいいアウトロー・カップルではない。「俺たちに明日はない」ことに変わりはないが、ふたりは主役どころか脇役ですらない、無名のエキストラの人生である。
ワンダの食べ方はありえないほど汚い。彼女はまともな食事すらしていない。ソフトクリームをなめたり、誰かの食べ残しのポテチをかじったり、ビールを飲んだりするだけ。お菓子か酒かの「悪」である。男におごってもらったミートソースで口のまわりをベタベタにし、くちゃくちゃ音をたて、たばこを吸いながら食べる。体だけが大人のワンダは、保護者が常に必要な童女でしかない。
ワンダは野良猫以下だ。主体性はまるでない。常に受け身で男のいいなり。餌をくれる男についていき、ベッドを共にする。喰うために喰われているだけだ。ワンダを気にかける人がいたとしたらそれは、肉欲を満たしたい男だけ。彼女はダッチワイフでしかない。
しかしデニスだけは違った。「犯行現場に勝手に入ってきたオンナ」の行動を見張っていたいから連れ回す。
デニスはバンズにタマネギが入っているだけでブチギレるような、神経質でチンケな強盗だが、それでもワンダにとっては一番マシな男である。夫を含むほかの男たちは、ワンダをヤリ捨てるだけだが、デニスは「仕事のバディ」としてワンダを扱うようになる。
デニスとワンダの関係はまるで父と未成年の娘のようだ。デニスはワンダが安っぽくみられることを嫌い、口紅を投げ捨てるし、ワンダはそんな彼を常に「デニスさん」と呼ぶ。
デニスはワンダに厳しくあたるが、それでも情が移ってはいて、自分のジャケットをそっとかけてやるし、いい帽子も買ってやる。口うるさい保護者だ。
白いワンピースに白い花の髪飾りをしたワンダが、デニスの実家に行く場面はまるで、結婚式のようだ。容姿を偽装させるためにワンダのハラに詰め物をし、妊婦のコスプレをさせる場面もある。イエから離脱した者どうしが、夫婦ごっこをやっているようにもみえる。
デニスは「何ももってない」ワンダに「望まないと手に入らない」と諭す。ワンダははじめて、自分は死人だったと気づく。「生きろ」と言ってくれた相手がデニスだ。
ワンダは懸命にデニスの言いつけを守り、役に立とうとしている。彼女は男からだまし取るオンナじゃない。カネがなくて食べられない、イエもない、仕事にもありつけない気の毒なオンナだ。
ワンダを演じ、『WANDA』を撮った監督:バーバラ・ローデンは、映画監督:エリア・カザンの妻で女優である。カザンは『欲望という名の電車』 『波止場』 『エデンの東』などを撮った大監督。ふたりは23歳という年の差夫婦だ。
カザンのインタビューを呼んでいると、彼の彼女に対する強い保護欲、支配欲も感じる。彼女は夫との離婚を考えていたが、病により死ぬまで婚姻関係は続いた。
映画館で全財産を失うワンダの姿から、バーバラ・ローデン監督自身の労働の一端が垣間見える。
バーバラ・ローデンは女優になり、スクリーンに身をなげだし「観られる」存在になった時、何もかも奪われたと思ったのではないか。彼女にカメラをむけたのは、夫・エリア・カザンである。バーバラは『草原の輝き』(1961)をはじめ、夫の映画にたびたび出演している。バーバラ・ローデンはワンダに、自分の芸能活動を追体験させているのだ。
例えば、銀行強盗をやろうとしているデニスが、その手順をワンダに説明し、台詞を覚えさせる場面はまるで、演技指導をする監督と女優のように見える。
葉巻をくゆらせ指図するデニスは、前景に配置され大きな面積を占めているからこそ支配的に見える。奥のバスルームでバスタブにつかる裸のワンダは、小さくたよりなく従属的だ。デニスは映画監督、ワンダは女優の投影だろう。
ワンダはバーバラ・ローデンのドッペルゲンガーのようだ。ワンダの姿で語られることは、たとえフィクションでもバーバラの実感に基づくものだ。たとえ「ウソの話」でもそこに込められた感情は「ウソじゃない」、そういう生々しさがある。そういう誠実さでもって、こちら側に迫ってくる。スクリーンをみる我々がワンダと視線を交わすとき、バーバラ・ローデンの人生も同時に見つめている。
はじめて他人に期待され「役割を演じる」ワンダは緊張で吐く。仕事で認められ、デニスに「すごい子だ」と言われて微笑む。女優・バーバラ・ローデンの若き日の労働現場が垣間見える。
『WANDA』は職業婦人でありながら、自分は無力だと感じてきたバーバラ・ローデンが、巨匠エリア・カザンから真に自立するために作り上げた血と涙の作品だ。
バーバラ・ローデンは語る。
-私は無価値でした。友達もいない、才能もない。私は影のような存在でした。『ワンダ』を作るまで、私は自分が誰なのか、自分が何をすべきなのか、まったく分からなかったのです。-
(引用元 映画「WANDA」オフィシャルサイト )
酒と煙草とセックスだけの無力な童女でしかないワンダに、バーバラ・ローデンは女優人生を投影しながら、どう描いたか。次回はそのこと語る。
/////『彼岸花』2025.12.12 ONSALE/////
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