#03『WANDA』バーバラ・ローデン 監督(後編)

【酒と煙草とセックスだけの無力な童女(後編)】

映画において「鏡」が果たす役割は大きい。鏡は自己観察のための道具であり、キャラクターの深層心理にせまるものだ。内面を深く見つめるときに使われるモチーフであり、未来や過去への扉にもなる。鏡の中の自分はドッペルゲンガーであり、罪悪感の投影であり、生き霊でもある。ドッペルゲンガーや自分の生き霊をみたら死ぬという迷信に即すると、鏡の前に立つことは、死の前兆でもある。映画は虚像なので、映画の中の鏡像は夢の中の幻である。

『WANDA』には鏡のシーンが幾度となくある。

ワンダ(バーバラ・ローデン)が鏡で「自分を見つめる」ようになったのは、小悪党・デニス(マイケル・ヒギンズ)と会ってからだ。

デニスと出会ったバーのトイレの鏡は割れていた。割れてひびが入った小さな鏡のかけらに、ワンダは自身の顔の断片を見た。自分はぶっ壊れた、たよりない存在であると、まず確認した。

次の鏡のシーンは、バーのカウンターで客の残したポテチを食いちらし、デニスから借りた櫛で髪をとかしていた時だ。商品の棚にまぎれこんでいる鏡はとても小さく、鏡のまわりに置かれたクロレッツや葉巻のほうが、自分自身よりずっと存在感があった。見た目にこだわっていたワンダは、安い商品以下でしかなかった。

しかしデニスと出会って旅をし、ワンダは変わった。銀行強盗のバディという役割を与えられ、はじめて男の前で感情を出すシーンにも鏡はある。男の言いなりでしかなかったワンダが「わたしにはできない」と拒絶した時、彼女は等身大で鏡に映っている。背景は壁だけ。鏡の中の自分の存在感だけが際立っている。

以前の鏡のシーンを思い出すと、最初は排泄する場所のぶっ壊れた欠片だった、次は酒に酔う場所で売られる商品だった、今のワンダはありのままの姿で鏡に映る。しかも彼女の背後には「できる」と励ますバディの男がいて、同じ枠内におさまっている。

ワンダは以前の「できない」ワンダではない。「できる」ワンダがそこにいる。その変身を確認するために、鏡はある。

ワンダはただの「ろくでなし」ではない。ろくでなし稼業のヤリ手になれたのだ。死人ではない。仕事をして生きられる、もはやなんにだってなれる女優になったのだ。

鏡を何度もみつめた結果、ワンダは死を遠ざけたのだと思った。生きる屍として存在することから脱却し、きっとこの男とともに等身大で生きられるのだろう。ふたりで鏡の中のフレームにしっかりおさまり静止する絵づくりは、まるで証明写真のように見えた。新しい仕事(それがたとえ強盗稼業でも)の履歴書みたいじゃないか!

銀行強盗の手順を繰り返し練習した後のシーン。閉じたドアの向こうのトイレから、銀行強盗をすることに緊張したワンダがえづく声だけが聞こえる。吐き続けているワンダを心配するデニスは手前の部屋にいるが、デニスの実体もカメラは写さない。デニスの姿はドレッサーの鏡の中にだけ確認できる。画面の中に二人ともいない。声だけのオンナと幻だけの男。

壁と閉じたドアと家具しか写っていないショットは異様だ。モノの存在感だけ。実体のない生き霊が、鏡の中で右往左往する画面作りは、かなり異様で不安をかきたてられる。

この銀行強盗は絶対にうまくいかない。ワンダは現場にいないのだろうし、デニスは死ぬのでは?わたしの心に暗い未来予想図が広がる。

その予感は当たってしまう。続くシーンで、観客は「ろくでなし」に運命は決して微笑まないことを確認するのだ。

デニスと被害者をのせた車の後を追って運転するワンダは、デニスの車を見失う。遅れをとったワンダは結局、犯罪現場に間に合わなかった。犯罪者として命をおとすのはデニスだけ。犯罪のその時、彼と切り離されていたワンダは無名のオンナ、事件を見守る無力なモブでしかない。

思いかえせば、ワンダは遅刻ばかりしていた。裁判所の出廷に遅れ、夫と別れた。ワンナイトの男も、寝坊するワンダを結局置き去りした。ワンダが遅刻する時は、いつも男と別れる時だった。ワンダは決して「間に合わない」オンナだ。男の都合で保護され、やがて捨てられるだけ。自立できないまま置き去りにされる童女でしかないのだ。

デニスと永遠に別れたワンダはまた「持たざる者」に転落し、ビールをおごってくれる男についていき、体を求められる。元通りだ。ダッチワイフでしかないワンダは若い男に車内で押し倒される。

しかしワンダは反撃し、男をはねのけて逃げる。はだけた服のまま、あてどなく走る。前とは違うのだ。銀行強盗をやって死ぬ男の仕事のパートナーだってやれたのだ。走りに走り、森の中で彼女はひとりで泣く。死人のように生きていたくない、浮遊霊に戻りたくなんてない。孤独に嗚咽する彼女の魂の叫びがわたしの心に届く。彼女は死体ではない。苦しみを抱えて生きるオンナだ。

ワンダにはカネもない。泊まる場所もない。映画館ですべてを失ったあの夜と同じだ。闇をふらつき、たどりついたどこかの店で、ワンダはビールを飲んでいる。店のオンナが立ち尽くすワンダを中にいれてくれたのだ。

酔っ払いの男から煙草をもらう。うるさい音楽がひっきりなしに演奏される空間で、酒を飲み死んだ目でたばこを吸うワンダの顔のストップモーションで、物語は閉じる。

一度は蘇生し生きられると思ったワンダは、ラストシーンではまたも死体である。彼女は永遠に生きる屍だってことだけが観客にたたきつけられて物語は終わる。物語の結末を「エンディング」と言う。ENDの進行形だ。終わり続ける、という状態が示す「終わりのなさ」。なんと残酷なことか。

バーバラ・ローデンは『WANDA』を残し、乳がんで48歳の若さでなくなった。奇跡の1本とされるが、それは奇跡なんかではない。バーバラ・ローデンの人生が全て入っている。

なぜ彼女は手持ちカメラで撮影したのか、ほとんど無名の俳優を使ったのか、どこかわからない見知らぬ風景を撮ったのか、無名の人、無名の風景。構図も色も、何もかも、どこを切り取っても美しい絵作りだ。生々しさが画面いっぱいに溢れている。

『WANDA』は女性の解放を描かない。枠の中にとじこめられ、決して出られない、逃げ道のない無名のオンナを描く。

最初のシーンで映るのは、ワンダではなかった。ワンダは「遅れてくる」オンナだからだ。観客が目にするのは、瓦礫の街、粗末なイエ、窓を見つめる老婆だ。老婆が見つめた先の窓の向こうにも夢も希望もない。ガラクタの世界でしかない。オンナは死ぬまで囚われの身だと、最初から示されている。

わたしはワンダを観る度に、ワンダとわたしに違いなどないと途方にくれる。
ずっとカネがない。仕事にもろくにありつけない。たまに男からビールをおごってもらい、「オマエはすごい子だ」などと言われても、何のキャリアも築けない。

崖っぷちの40代の主婦には何の価値もない、誰にも期待されていない、ガラクタみたいなオンナがわたしだ。ワンダと同様、石ころだらけの街を歩く、たよりない小さな点にすぎない。

ワンダはバーバラ・ローデンである。無名のオンナ、無力なオンナ、喰えないオンナはみんな、ワンダである。わたしは今もワンダである。

夫のエリア・カザンは、バーバラ・ローデンの最期のことばは「クソ! クソ! クソ!(Shit! Shit! Shit!)」だったと自伝に綴った。

感謝しながら死んでいくオンナたちより、罵りながら「あっち側」にブっとんだバーバラ・ローデンにわたしは共鳴する。彼女の決死の覚悟が焼き付いた画面は他のどんな映画より誠実で、リアルで、ハードコアで、だからわたしにとってかけがえがないものだ。

ワンダを「他人事」として、エンタメとして消費できる人を、わたしは憎み続けるだろう。

「クソ! クソ! クソ!(Shit! Shit! Shit!)」

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  • /////『彼岸花』2025.12.12 ONSALE/////

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