#04『リバー・オブ・グラス』ケリー・ライカート 監督(前編)
(米公開1994年/日本公開2021年)
【育児放棄しイエを捨て放浪し「女になる」オンナ(前編)】
ケリー・ライカート監督のデビュー作『リバー・オブ・グラス』は、前回とりあげたバーバラ・ローデン監督作『WANDA』の影響を強く受けた作品である。
『リバー・オブ・グラス』の主人公は30歳にして3児の母親である専業主婦だ。名前をコージー(リサ・ボウマン)という。子育てに興味はない、人生の意味などこれっぽっちもみいだせず、「死んだ目」で生きているところは『WANDA』と似ている。有名俳優が見当たらない。誰だかさっぱりわからぬ無名の人が、どこかわからない土地で生きる姿を見せられる。その匿名性も『WANDA』に通じる。
コージーの母は10歳の時にイエを去った。コージーは刑事の父に育てられ、高校の同級生と結婚した。彼女は夫が「話のネタになるし安い」という理由でオークションで買ったイエ、前の住人が夫を殺して風呂場の壁に埋めた事故物件で暮らしている。
コージーは、浴槽にあおむけに浮かび、前の居住者のオンナのことを想像する。「(夫を殺した妻は)きっと些細なことの蓄積にむしばまれたのだろう」
うつろな顔で水面に浮かぶ全裸のコージーの姿はまるで、羊水にうかぶ胎児のようだ。コージーは産まれ直し、すべてやりなおしたいのだ。退屈で凡庸な自分の人生を変えたいと思っている。夫殺しの妻のように。10歳で出て行った母のように。はみだせないオンナは、はみだしたオンナを夢想し、執着している。
「居心地いい」という意味をもつコージーは、その名に反してずっと居心地が悪いのだ。マイアミのB面、先住民がリバー・オブ・グラスと呼ぶ土地に住むコージーは、この湿地帯が性に合わない。コージーにとって水辺は、自分を生かしてくれる場所であると同時に「腐る」場所でもあるのだ。イエの風呂場の壁には男の死体が埋まっていたし、リバー・オブ・グラスはかつては「誰も住めない」と言われた土地だ。
水色の服を着るコージーは「ここじゃないどこか」を希求し、「自分じゃない人生」を望んでいる。水辺から離れたがっていながら、依存してもいる。水辺とは「母体回帰」のイメージだろうか。目をつぶったまま、ぐるぐる回転し、ふらふらになる。「あっち側」へブっ飛べる「何か」はどこにある? 無意味なことを繰り返している。
子育てには何の意味も見いだしていない。コージーは哺乳瓶にコーラをいれてベイビーに差し出すような、ろくでなしである。「育児放棄」の真相は、母子の絆が結べないから、と実にあっさり淡々と。愛などなくて当たり前。夫のこともいつかは愛せるのではと思ったけれど、やっぱり全然ムリだった。
結婚、出産、子育てはオンナの人生の一大事のように言われがちだ。それを「特別なこと」にしないのが、この映画の特性だ。はっきり無意味なこと、いやもっと踏み込んで言うと、無意味という価値すらない「虚無」として描く。
女性と母性はセットではないという真実をはっきり描くのが、ケリー・ライカート節だ。世間で非常識と言われがちなオンナを「悪女」として罰するのではなく「凡庸なオンナ」むしろ「名もなきモブの人生」として描く。そのことに励まされる女性たちは多いのではないだろうか。
この映画は3人の視点で語られる。コージー、コージーの父、コージーと逃亡することになる同世代の男。
『リバー・オブ・グラス』は「イエ」をめぐる男女の話である。親子関係の話である。
コージーの父はベテランの刑事だ。デカ歴30年。娘がうまれるまではジャズドラマーだったが、コージーを養育するために安定した職についた。それが刑事という仕事だった。銃を落としがちな男である。暴力を握りしめるのが苦手だ。彼はドラム・スティックを握り音楽をやっていたいのだ。犯罪被害者と死別し行き場を失った動物を愛していたい男なのだ。「行き場を失った獣」には、母との交流を失った幼少期のコージーも、妻に捨てられた自分も重なる。
コージーと出会い「逃亡犯」になる男:リー(ラリー・フェセンデン)は、母と二人暮らしのひきこもりのクズだ。コージーと同世代。腕にMomというTATTOOを入れバーに行き、彼女と出会った。コージーが母親だと言うことは知らない。もうすぐ30歳にしては幼稚な男だ。
リーはコージーの父が落とした銃で「人生を切り開こうとしている」男。その銃をもったまま、ふたりは近所の家のプールに忍び込んだ。水色の服を着たコージーは、服のまま水に飛び込む。コージーが水辺にいるときは、「ここじゃないどこか」への希求が高まる時だ。
腕にMomのTATTOOを入れたリーがコージーに惹かれるのは、リーの父親が「服をきたまま海で」死んだからではないか。リーはコージーに失った父を重ねているのかもしれない。コージーとリーに、ジェンダーのゆらぎを感じる。コージーは出来損ないの父であり男、リーは出来損ないの母であり女なのかもしれない。自分と同性の大人のロールモデルを失い、異性の片親に育てられた鏡面のふたりはともに、「自分ほど孤独なニンゲンがいるのだろうか?」と思い生きてきた。
プールの持ち主が照らした懐中電灯の明かりに二人は驚き、銃が暴発する。暗闇で弾が当たったのかどうかもわからない。ふたりの「愛のない逃亡劇」がはじまる。
「俺たちに明日はない」ごっこをするコージーとリーには、昨日だって1年前だってずっと同じく退屈な明日がやってきたし、今日も同じだ。愚鈍な日々だ。
二人はアウトローでもアンチヒーローでもない。ダメな二人が、グダグダなまま、同じところを堂々めぐりしているような無様さでもって、ひとりよがりな「逃亡」が続く。単に近所のモーテルで、ダラダラ時間を潰しているだけだ。
ふたりの会話は会話ではない。独白でしかない内容はいつも、子供の頃のパパとママの話だ。崩壊家庭育ちの二人は、どちらも大人になった自分のイメージがまったく描けていない。コージーもリーも「水色」を着て、「水色」の車に乗る。大きすぎる母体、水辺を決して立ち去れない堂々巡りの永遠の子どもたちだ。
ふたりはしょぼい悪さをする。リーの母のレコードを盗み、それを売って逃亡資金にしようと企む。フロリダ湿地帯を出るためだ。自立した大人になるためだ。
母のレコードコレクション・・・「素直な悪女-ブリジッド・バルドー」「For Men Only-ジェーン・マンスフィールド」「マリーネ・デードリッヒ」「ルース・オレイ」「ロニー・スペクター」「ジャンヌ・モロー」・・・。ドラッグレースをする無軌道な若者を描いた50年代の低予算モノクロ映画「HOT ROD RUMBLE」のサントラもある。このコレクションに通じるテーマは「悪女たち」だろうか。例えばロニー・スペクターは、元祖「バッドガール・オブ・ロックンロール」と称されたシンガーだ。
リーの母は連れ合いと死別している。父は母との再婚旅行中にけんかし、酔って服をきたまま海に入り死んだ。その父の葬儀をとりおこなったキモい男と母はデキてたんだ、とリーは独白する。リーの母は「バッドガール」なのだ。
マイアミから遠く離れるために、「悪女たち」=母を売り払おうと、ふたりが立ち寄ったレコード屋の名前は「mother’s RECORDS」だ。閉店のサインの前で、コージーは膝を抱えてうなだれている。これぞ、「母」に拒絶された娘の図、といった絵づくりだ。
「母」に近づいても、決して受け入れてもらえない胎児のコージーの頭を、実母のレコードを抱えこんだリーがなでる。Urge OverkillのバンTを着た男が店のドア前まで来て去って行く姿も、意味ありげで気になる。
次に訪れたのはBLUE NOTE RECORDSというジャズ専門のレコ屋。こちらはコージーの「父」の居場所である。コージーは水色の車の中で待っている。
レコードを差し出すリーに店員は、「いいのがそろっている」と褒めるが、ここはジャズ専門の店だ。「悪女たち」は買ってもらえない。店員のとなりには、コージーの父がたまたまいる。リーは店員に「売らない方がいいよ」と言われその場を足早に立ち去る。亡き父を無意識に求めるリーが、コージーの父の居場所から拒絶される様子は、「mother’s RECORDS」の前でうなだれていたコージーの姿と奇妙にかぶる。ふたりは「同性の親」から永遠に閉め出される運命の子どもたちなのだ。
大事にしていたレコードを売ったことがあるニンゲンには想像がつくと思うが、「フィジカルを売る」という行為は、魂の売春に似た痛みをともなう。わたしには経験がある。カネにつまり引っ越し代のためにレコードをごっそり売り払ったのだ。身の斬られるような思いがした。その時わたしは店員から、リーと同じことを言われたのだ。
「いいコレクションだね、売らない方がいいよ」
わたしはいまだに買い戻せていない。わたしが売り払ったレコードは現在10万円以上の値がつくものも多くある。いつも現在の貧しさゆえに、未来の富も失っている。
店員の「売らない方がいいよ」は「売春すんなよ」という警告だ。音楽好きへのいたわりであり、カネのない者への死刑宣告でもある。売っても売れなくても、うなだれるしかない。
ブルーノート・レコードのシーンは忘れがたい痛みを残す。リーの母も、コージーの父も、ともに音楽を愛し、連れ合いと別れ、子に音楽を奪われた似たもの同士である。そういう二人の魂が、レコード屋で一瞬邂逅する。似たもの同士の子と、似たもの同士の親がレコード屋に集結するのを観客は目撃する。
『リバー・オブ・グラス』のエンドロールで流れるのは90年代のローファイバンドSammyの「Evergladed」だ。Sammyは、大変失礼な言い方だが、Pavementになれなかったバンド、と言えば雰囲気が伝わるだろうか。
このナンバーはSonic Youthのスティーヴ・シェリーが設立したレーベル〈SMELLS LIKE RECORDS〉からリリースされた。
「Evergladed」のMVの監督は、本作でリーを演じた(編集・製作も兼任) ラリー・フェセンデンなんだそうだ。ケリー・ライカート作品には毎回、USインディー好きにはたまらんバンド名が並ぶ。音楽への愛にあふれている映画作品ばかりだ。
コージーの父親は、かつて音楽を、リズムを追っていた男である。彼にとって「拳銃」は、音楽という夢と希望を奪った道具である。生活のために、娘のために、ドラム・スティックを捨て、代わりに握るしかなかった父の「拳銃」が、娘の手にわたったことで、父娘はどのように変わるのか。暴力装置があることで「イエ」に縛られていた父、暴力装置を得たことで「イエ」から去った娘、ふたりの自由に「拳銃」がどのように作用するのかは、次回で考察したい。
/////『彼岸花』2025.12.12 ONSALE/////
「人生で選べたことなんてあったか?」
緊急事態宣言下、追いつめられたオンナの運命は…。
90年代に青春を送り、コロナ禍の〈今〉を生きる氷河期パンクスの「痛み」と「反抗」の物語。オルタナMANGA、ついに単行本化!
◾️『彼岸花』の単行本に帯がない理由→編集部ブログ