#04『リバー・オブ・グラス』ケリー・ライカート 監督(後編)

【育児放棄しイエを捨て放浪し「女になる」オンナ~(後編)】

「拳銃と女と車があれば映画ができる」とゴダールは言った、というまことしやかなウソがある。実際は「映画にはオンナと拳銃が必要だ」だとかなんとか。

『リバー・オブ・グラス』はゴダールが言っていない迷言を体現する映画だ。映画の世界で「男」の専売特許のように語られてきた「車」も「銃」も「放浪」も、この映画ではオンナが手にする。しかし疾走感も高揚感も全くない。

この映画において、車はやたら「止まる」ものでしかない。「人生は思うように進まない」から近所をうろつくだけだ。銃は・・・といえば、常に「不発」である。撃っても撃っても当たらない。モーテルに出たゴキブリにすら、おそらく当たっていないのだ。最初の「事件」だと思い込んだプールでの暴発も、誰にも当たっていなかった。だから、そもそも犯罪すらおきていない。

主人公コージー(リサ・ボウマン)と共に逃げるリー(ラリー・フェセンデン)。犯罪なき犯罪者たちが逃亡するのは、「ここじゃないどこか」へ去る理由が欲しいからだ。愚鈍な自分を捨て「何者か」になりたいから、意味もなく車を走らせる。銃は虚しい発砲音を響かせるオモチャでしかない。暴力装置としてまったく機能しない。しかしそこに、銃で破滅する映画とは違うフレッシュさがある。

拳銃を紛失したため停職処分となったコージーの父(刑事)は、暴力装置をはぎとられたことで手が自由になり、ドラム・スティックを握り演奏する。若かりし日のささやかな夢を、ほんの少しだけ取り戻していく。

拳銃を失い、娘の行方を捜すコージーの父の視線の先には、楽器を持つ人たちの姿がある。同僚が「イエまで送ると」というが、彼は「ここでいい」と断る。「イエ」に縛られていた男が少しずつ解放されていく。

「子どもたちの指名手配を出さなくては」と続ける同僚に、「子どもではない」と父は言う。娘を養育するためにしぶしぶ握っていた銃は、出て行った娘に奪われた。娘はもう子どもって歳じゃない。自己犠牲して守ってやる必要はないのだ。「イエ」の呪縛から解き放たれた父は、自分の夢をもう一度「追える」。

一方、父の銃を携えて「逃げる」専業主婦:コージーもまた「イエ」の呪縛から解放されていく。子育てもダンナの相手ももうしていない。逃げていくうちに「犯罪は結婚より重要」だとわかった。なぜなら、結婚なんかよりずっと、自分の人生を縛るのが「犯罪」だからだ。

しかしそもそも犯罪などおきてないことをコージーは悟る。交通違反で警官に止められ、リーは身分証明書を見せる。なのに「捕まらない」。コージーは愕然とする。自分はいまだに何者でもないことを理解したからだ。

この映画にはカネを払うシーンが幾度となくある。しかし、支払いをするのはいつもリーだった。逃亡するためのカネを、しょぼい強盗によってせしめているのはリーだけだった。小さな悪事にすらコージーは関わらせてもらえない。コージーは、リーの仕事のバディではなかった。プールの暴発に被害者がいないなら、コージーはいつ何時も「犯罪者」ではなかったってことだ。

彼女ははじめて助手席から離れ、車のハンドルを握る。

コージーは、「一緒に暮らそう」などと眠たいことを言うリーを撃ち、助手席のドアをバタンと閉めた。着弾のシーンはない。銃声だけ。死体もうつらない。

コージーが発砲するシーンの前後、リーとコージーが同画面におさまるショットはない。ひとりずつ画面におさまるショットは時系列や空間がめちゃめちゃなのだ。助手席のリーの姿は過去、あるいは脳内の幻。運転席のコージーは現在だ。

リーの被弾シーンは、コージーの脳内にしか存在しないのだ。なぜならリーは車に乗っていないから。銃声が一発した。鳥が飛んだ。それだけなのだ。ケリー・ライカート作品で鳥を見ているのは常に女だ。鳥をみたコージーは「男の(父の)模倣」ではなく「女の人生」をはじめるのだ。

この映画において銃はいつ何時も「不発」だ。コージーはリーを置き去りにし、ハンドルを握って走り去っただけだ。事実とはそういうつまらないものなのだ。

「犯罪者」という肩書きがコージーには必要だった。犯罪者として逃亡する夢を信じたい。それがコージーというオンナである。だから、ありもしない夢想をリアルだと信じる。

『リバー・オブ・グラス』は不発の銃を使って、イエから一瞬でも解放される男女を描いた話だ。

暴力装置は父から娘へ移行した後、娘によって捨てられる。

コージーが運転席から投げ捨てた銃は、父が銃を落としたあの「ワニ」の壁画の前に落ちる。父の拳銃は、娘の「犯罪のない逃亡劇」によって銃弾が使いきられ、もとの場所に戻っただけ。暴力装置は誰も破滅させないまま、無用の長物になっただけである。まるで落語のような話だ。

銃は男根のメタファーでもある。不発の銃ゆえに、男が勃たない映画である。銃を携帯する逃亡中、コージーとリーはセックスしない。親を求める幼児でしかないふたりには、セックスなんて不要なのだ。一方、銃を失った父はセックスしたのかもしれない。バーでオンナに口説かれた父。乱れた寝具をとらえたショットが一瞬映る。ドラムを叩く父、化粧をなおすオンナ。セックスシーンはないが、意味ありげだ。

ケリー・ライカート監督作品には、家父長であることに自信を喪失した男たちしかでてこない。女たちの顔色をうかがいながら決断する男たちは無能だ。イエに縛られているのは常に男の方・・・思い出してほしい、夫と住んでいた風呂場の壁には男の死体が埋められていたってことを。男はイエに縛り付けられ、イエは男を腐らせる。父の劣化版コピーでしかないコージーは、「男もどき」であったからこそ、イエで腐っていたのだ。

ケリー・ライカート監督作品におけるオンナ達は、仕事と肩書きを求め、放浪する。彼女のスタイルはデビュー作から貫かれている。いつも水辺が起点となる。

コージーは銃を車窓から投げ捨てる。男はもういらないし、自分は男にならなくていい。コージーは保護された「役立たず」ではなく、自らハンドルを握って前進するインディペンデントな「役立たず」のオンナになるのだ。水色の車を走らせる。フロリダ湿地帯を離れよう。自らの力で、枠の外にはみだそう。ジャズのスタンダードナンバー「Travelin Light」が流れる。

『気ままに旅をする、あのひとは去ったから、今日からは気ままに旅をする、誰にもわからないだろう、そよ風のように自由だと、わたしだけが知っている』

しかしすぐに渋滞に捕まる。車はのろのろと停滞しはじめ、物語は終わる。永遠の退屈が明日もあさっても続く。「ここじゃないどこか」なんてないし、永遠に「何者にもなれない」。うなだれる間もなく真っ黒なエンドロールがあがってくる。

ケリー・ライカート監督は、アメリカの底辺をはいずりまわる、システムからはみだしたオンナたちを「ごくふつうの人」として描く。それは熱狂のない越境だ。その清々しさに、わたしはいつもときめく。いつかこの歪んだときめきがなくなって、画面の美しさ、カメラの位置の完璧さだけを凝視できるようになることが、わたしの望みである。

お知らせ

  • /////『彼岸花』2025.12.12 ONSALE/////

    「人生で選べたことなんてあったか?」

    緊急事態宣言下、追いつめられたオンナの運命は…。

    90年代に青春を送り、コロナ禍の〈今〉を生きる氷河期パンクスの「痛み」と「反抗」の物語。オルタナMANGA、ついに単行本化!

    ◾️『彼岸花』の単行本に帯がない理由→編集部ブログ