#06『別れる決心』パク・チャヌク 監督(前編)

【生きる屍を蘇生し永遠に囚われの身にする外国人のオンナ~(前編)】

賢い者は水を好み
慈悲深い者は山を好む

映画の中で引用される公子の言葉だ。『別れる決心』は「水」を好む賢いオンナと、山を好む慈悲深い男の話である。物語は前半と後半で区切られる。前半は山の話、男目線で語られ。後半は海の話、オンナ目線に反転する。

「見る」「見られる」ことについての映画でもある。前半は、男が見る、オンナは見られる、後半はオンナが見る、男は見られる側に立場が変わる。

「夫と妻」「刑事と被疑者」「先輩と後輩」「死者と生者」「追う者と追われる者」「支配する者と支配される者」「殺す者と殺される者」・・・終始「ペアの関係性」で語られる話だ。残酷なまでに「俺とオマエ」の関係が暴かれていく。

前半。冒頭シーンは左右対称の絵作りだ。「俺」は主人公で、ヘジュンという名の刑事だ。「オマエ」は職場の後輩だったり、妻だったり、被疑者だったりする。物語全体の構造もシンメトリーになっている。

ヘジュン(パク・ヘイル)は史上最年少で警視に昇格したエリートの刑事である。寝ないで張り込むのではなく、眠れないから張り込む男。労働現場ではたよりになる切れ者の先輩で、家庭では妻のキャリアも重んじる優しい夫。公正で誠実を絵に描いたような男。

ヘジュンの妻は原子力発電所で働く理系のエリート。ふたりはお互いの仕事のために平日は別居し、週末だけ夫が妻のもとに通う。理系×文系のエリート夫婦は「健康に暮らしていく」ためにセックスをする。「安全管理」がすべてのコントロールフリークの妻は、自分たちこそ「完璧な夫婦関係だ」と思っている。ヘジュンは「健康」のためにベッドで腰をふりながら、「原発事故」を描いたテレビドラマの破滅的な純愛が気になっている。彼は「死んだ目」で生きている男だ。

事件が起きる。登山好きの金持ちの男が、崖から落ちて死んだ。自殺か? 他殺か? 刑事であるヘジュンは、崖の上から崖下の死体を見る。崖下の死体の目からヘジュンを見上げるショットにわたしはギョっとする。死体が「見える」わけないのに、このショットは一体何だ?

死体目線のショットは、ヘジュンが生きる屍であることをほのめかす。死体にみあげられた「死んだ目」の男:ヘジュンは、目薬をさす。死んだ目のヘジュンには、事件の全貌は見えていない。目薬は「ちゃんと見ろ」というサインである。ヘジュンが目薬をさすシーンが繰り返される度に、観客はこの物語のディティールを見逃していること、ミスリードされていることを突きつけられていく。

殺人の容疑がかかっているのは、死んだ男の若い美人妻ソン・ソレ(タン・ウェイ)だ。夫が死んだのに驚きもしない謎めいた中国人のオンナ:ソン・ソレは、祖父が朝鮮半島の独立運動家(南満州抗日武装闘争の士)というルーツをもつ。

ヘジュンは捜査の段階で、彼女の肌には夫の暴力の痕があることを知っていく。移民のパスポートに印を押す公務員である夫が、彼女の肌に自分のイニシャルを彫らせていることも知る。移民局のエラいさんが、移民であるオンナを妻にし、家畜のように飼っている・・・。刑事であるヘジュンは、服をぬがせることなしに彼女の肌を、彼女のリアルを略奪できる。

ヘジュンにとってソン・ソレは謎めいた「外国人」であり、この社会の末端だ。韓国語がつたない。スマホの翻訳アプリで補完しながら、ふたりはぎこちない会話で心を通わせていく。自分より「足りない」オンナはヘジュンにとっては魅力だ。入る隙間、守りたい欲を満たせる脆弱性があるからだ。ヘジュンの妻にはそれがない。

この映画はフィルム・ノワールのジャンルの形式をなぞっている。主人公:ヘジュンは生きることにドン詰まっている中年のニヒルな男。中年男が出会った美人に突然よろめき、ただれるのがフィルム・ノワールの典型である。『別れる決心』において、男を滅ぼすファム・ファタールは、中国人のオンナだ。「運命のオンナ」の内面は描かれないというジャンルの「お約束」を、この映画では「外国人でことばがつたない」から内面がわからないという設定に置き換え、現代的にアップデートしている。

ヘジュンは刑事としてソン・ソレを追う。獲物を追う狩人だ。車で追跡し、彼女の暮らしや労働現場(介護職)を見張る。ヒッチコックの「めまい」や「裏窓」を想起させる設定だ。「オンナを見る」ことに取り憑かれているヘジュンの姿に、ジェームズ・ステュアートが重なって見えてくる。

ヘジュンが「見る」という暴力を一方的にふるい続けるのは、被害者が最期に見た殺人者をつきとめることが彼の仕事だからだ。死体の目になることで、彼は犯人をつきとめてきた。彼は有能なデカだから、何度も何度も死体の気持ちになってきた。死体の目になろうとするから、目が死んだのだろう。

ソン・ソレはヘジュンに見られていることを知っている。そしてある日「見る」彼を「見返す」。張り込み中、車の中で眠りにおちたヘジュンをソン・ソレは見下ろしスマホで撮影する。ふたりは肌に触れずにお互いの肉体を略奪し、見つめ合い、関係を深めていく。

取り調べ室。ヘジュンは値段のはる「シマ寿司」を注文し、ソン・ソレと喰う。食べ終えた弁当箱に蓋をして、机をふいてゴミはゴミ箱へ。手際よく机の上を片付ける仕草は、長年つれそった夫婦のように美しくシンクロする。

ヘジュンは「妻」とは偽りの夫婦関係を、妻以外とはまるで夫婦のような濃密な関係を結んでいる。冒頭のシーン、射撃訓練をするヘジュンは後輩に上着をかけてやったりと、妙に甲斐甲斐しい。張り込み中の車の中では男どうしで按摩機をやりあったりして変にベタベタしている。「先輩✕後輩」も「刑事✕被疑者」も彼にとってはグッド・バイブレーションを奏でる「ペア」であることが強調されている。彼は妻以外となら夫婦をやれるのだ。

「寿司」は物語の冒頭でヘジュンの妻が夫に「食べたかったのに」と言ったメニューだ。ヘジュンは「俺がいる間はあたたかいものを(食べさせたい)」と言って妻に鍋をふるまうが、夫婦の関係は「あたたかさ」を偽装しているだけだ。彼は妻の前では息も絶え絶えの死体だ。

しかし、被疑者であるソンソレとは「寿司」を喰う。死んだ魚、海の生ものを喰らう二人の心は通い合っている。

食事のあと、ヘジュンは「防水加工」してある絆創膏をソン・ソレに差し出す。ヘジュンは彼女の傷を気遣っている。・・・と同時に、ヘジュンは「水をはじく」男だということが示唆される。慈悲深い山の男は決してオンナに溺れたりはしないということだ。青いセーターを着るソン・ソレは、水をはじく絆創膏をじっと観ている。

取調室は鏡のシーンだ。翻訳アプリで補いあうふたりのコミュニケーションには複雑なレイヤーがあることを、絵作りとしても見せていく。オンナの顔はひとつではない。鏡の中の顔、スマホの中の顔、パソコンに映し出される顔。実像と虚像は同じ顔をしている。

ヘジュンはこのオンナに会ってから、鏡の迷宮をさまよっている。つたない韓国語で謎めいた話し方をするオンナは、中国語で話す時には別人のような強さが垣間見える。一体どんなニンゲンなのか、何を考えているのか、答えが見つからない深みにはまり、彼は転落の快楽に落ちていく。オンナを「見る」ことに取り憑かれ、転落していく男のイメージは、やはり「めまい」のジェームス・スチューアート的である。

ヘジュンは「上位」に立つ人生に、うんざりしている。はやいうちに人生のアガリを経験してしまった男にとって、転落こそが魅力だ。ソン・ソレの夫は崖の上から転落して死んだ。死体を見下ろしていた刑事がヘジュンだ。

この映画は主人公の男が「降りていく」あるいは「堕ちていく」映画だ。彼がほんとうに生きるためにはもう「降りる」しかない。階段を降り、屋上から降りる。オンナのせいで転落し身を滅ぼす加害的な男たちに、自己投影するのがヘジュンだ。

妻との完璧な人生に窒息しているヘジュンは、殺人疑惑のかかっている美人妻が夕食にアイスを食い、煙草を吸うのを見る。妻とはまるで違うソン・ソレにヘジュンはどんどん惹かれていく。心が死んでいるのに健康に長生きして何の意味がある? 人は、死体ではない人生を求めて当然だ。彼女を見つめる彼の表情から本音が垣間見える。妻の前で突然「俺は海の男だ」と叫んだりする。無様極まりない。

生きる屍は眠れない。眠ることができるのは生者だけである。妻の隣では眠れぬヘジュンは、ソン・ソレの前では眠れる。死体は魔性のオンナに見つめられ、体温を取り戻し、息を吹き返したのだ。

妻とはことばが通じるが、思いは伝わらない。一方、ソン・ソレとは言葉は通じないが心は通じる。心が安まることのない合理的で殺伐とした日常と、共鳴で胸がときめく刺激的な非日常。システム側の論理で動く優秀なデカも、自分の気持ちだけはコントロールできない。

正しく伝わっているのかわからないドキドキとすれ違いを抱え、心と心でふれあえるはずだと思い込んでいる男女は、同じ傘に入り、ハンドクリームを塗り、リップスティックを共有する。裸にならないからこそ際立つフェティシズムだ。

ベッドを共にしなくても濡れて潤う男女関係と、ベッドを共にしても心が渇ききるだけの夫婦関係の対比がこれでもかと描かれていく。ソン・ソレは「触れる」相手。妻は「さわる」だけの相手だ。心で交流する相手と、情報のやりとりでしかない相手には残酷なまでの落差がある。

有能なヘジュンは捜査の段階で、ソン・ソレこそが犯人だと分かる閃きを得てしまう。彼は「彼女」になりきって、被害者である夫が死んだ当日の行動をなぞっていく。真相をあきらかにするために、死体の目になってきた彼は、彼女とふれあうことを通して、彼女の目になってしまったのだ。真実をつかんでも、彼はソン・ソレを捕まえることができない。彼女を愛してしまったからだ。

ヘジュンは「オンナに溺れて捜査を台無しに、僕は完全に崩壊しました」と語る。

さも自分に失望しているような独白だが、同時に彼は充足していたはずだ。山をあがりきった頂点の男に「崩壊」なんてない。山には「溺れる」水などないからだ。それはただの「崩壊ごっこ」である。妻との関係は続いているし、刑事の仕事だってある。彼の人生は少しも変わらず、何も失わず続いている。

彼にとっては一大事でも、実際は誰にもばれていない「ちょっとした火遊び」の末路は決して、癒えない傷なんかじゃない。彼が独りよがりな失望でもって「人生の深み」に触れたと思ったところで、どうとでもなる、どうでもいい話だ。ここで物語は一端区切られる。前半が終わった。ここからが後半だ。

『別れる決心』は物語構造として2段構えになっている。冒頭のショットで左にいたのは「俺」だ。前半は、俺であるヘジュンの「恋愛(崩壊)ごっこ」の話だった。では後半、右の部分を占める「オマエ」で語られる話は何か。オマエは「ソン・ソレ」だ。右利きのオンナである。

ヘジュンが妻の勤務地:海に近い霧の街イポに引っ越し、刑事人生をやり直すところから、後半がはじまる。犯罪などおきない海辺の田舎町イポで、スッポン泥棒を追うヘジュンのバディは、男からオンナに代わっている。

ヘジュンはまた目薬をさしている。前半でオンナを追っていた男は、オンナに追われる存在になる。境界線上にいるオンナ、男を滅ぼす悪女「ソン・ソレ」の目線で語られるのが物語の後半だ。

次回は『別れる決心』が、オンナ目線を入れることで通常のフィルム・ノワールの型をどのように「崩壊」させ現代的にアップデートしているか、について語る。

お知らせ

  • /////『彼岸花』2025.12.12 ONSALE/////

    「人生で選べたことなんてあったか?」

    緊急事態宣言下、追いつめられたオンナの運命は…。

    90年代に青春を送り、コロナ禍の〈今〉を生きる氷河期パンクスの「痛み」と「反抗」の物語。オルタナMANGA、ついに単行本化!

    ◾️『彼岸花』の単行本に帯がない理由→編集部ブログ