#07『人間に賭けるな』前田満州夫 監督(前編)

【「推し」にすべてを賭けて破滅するオンナ(前編)】

『人生じゃ負けられないようなことでも、遊びでだったら負けることができるしね』
寺山修司は日本中央競馬会のCMでそう語った。

この映画で人がカネを「賭ける」のは馬ではない。人である。
今はなき「西宮競輪場」を俯瞰でとらえたショットに「ニンゲンにカネを賭けるのですか?」と英語で語りかけられて物語は始まる。阿佐田哲也が「ギャンブルの終着駅」と評したのが競輪だ。

ひとりの「生きた」人間に「賭ける」とはどういうことか。

「競輪」というバクチに賭けるオンナの姿を通して。あるいはひとりの男を奪い合うふたりのオンナの姿を通して。愛とは、自由とは、生きるとは何かを、痺れるような台詞と絵作りで、語りかけてくる映画である。

競輪場において「見世物」になるのは競輪選手だが、この映画で見世物になるのは「賭ける側」だ。物語の冒頭で映るのは、フェンス越しの顔、顔、顔。「大人はわかってくれない」のフェンスを思い出す。囲いに閉じ込められているのは、車券を握り、数分でカネをふいにする負け組たちである。有り金をはたいても泣かないニンゲンたちに降り注ぐのは冷たい雨だ。雨が降ってくるという予想すらできないヤツらだ。

カイシャのカネを横領して競輪をやり、15万すった男が、雨の中で立ちションしている。名前を坂崎(藤村有弘)という。シェイバーを売る外資系の会社で働くサラリーマンだ。

坂崎は「狭くて画一的でみんな同じことをやっている」公団アパートに、教師の妻と暮らす。産まれたばかりの子は入院中。坂崎の妻は子を愛していない。見舞いにすらいかない。夫とのセックスだってイヤイヤやるだけだ。

坂崎がコドモを求めたのは、夫婦間に横たわる重苦しい倦怠を打破するためだった。彼は変化を求めて子作りをした。しかし妻はコドモを求めていなかった。変化なんて邪魔なだけ。計画的でないことは不安になるだけ。

坂崎にとっては息がつまるような公団アパートの暮らしも、妻にとっては、みんな同じことをやっているからこそ安心なのだ。坂崎は常に狭っ苦しい隙間に追いやられている。坂崎の内面は圧迫感のある構図にも現れている。

俯瞰でとらえられた夫婦のベッドは冷え冷えとしている。画面の左端に被写体が異常に寄った構図。ベッドは画面に対して縦位置:垂直で、しかも頭の位置は下だ。全身は映らない。まるで、まっさかさまに落ちていく間のコマをきりとったかのようだ。妻は壁際に追い詰められ、隣に寝る坂崎は寝返りひとつで、暗闇に飲み込まれてしまうような不安定な構図。坂崎がテレビを眺めているときは、テレビの背面の黒が画面の半分以上の面積を占める。愛のない夫婦の暮らしには、常に地獄の口がぽっかりと空いている。

夫と妻は断絶している。二人は視線を交わさない。坂崎が妻を見ても、妻は見ていない。結婚祝いと書かれた置き時計のガラスには亀裂が入っている。坂崎は「ここではないどこか」を追い求めている。愚鈍で愛のない生活など、今すぐにでも捨てたい。「生きている実感」が欲しいのだ。

競輪場は「反日常」を求める者たちのたまり場だ。誰かがすったカネで誰かが儲かる。一部の者の幸福は多くの不幸に支えられている。小市民の安定や家族の団らんから離脱したヤクザ者たちが、刺激を求めてやってくるのが賭場である。坂崎が競輪場で会ったオンナは妙子という。

妙子(渡辺美佐子)は競輪選手である飯田(川地民夫)に、すべてを賭けるオンナである。のめりこんだ男に自分の人生、有り金すべてを賭ける。人生を失っても「後悔しない」。それが妙子の「ニンゲンに賭ける」生き様だ。坂崎は肝がすわったこのオンナの情熱に、次第に魅せられていく。

妙子はヤクザの親分の妻である。かつては惚れた男がつまらぬヤツになりさがったことに失望し、夫を警察に売った。夫を留置所に送り込んでまで、妙子が夢中になり入れあげているのが飯田だ。

飯田はヤクザの八百長に絡め取られている選手。ヤクザと関係がズブズブの「黒い」選手である。妙子は彼を八百長レースではなく、力いっぱい走らせたい。そのためならなんだってヤル。「人間に賭ける」とは自分の生活を全部ダメにしてもいいということだ、男に惚れるということは、何もかも自分で片をつけるってことだと、ハラをくくっているヤクザもんである。

飯田を愛するオンナがもうひとりいる。妙子が警察に売った夫、ヤクザの親分の姪:美代子(結城美栄子)だ。美代子は坂崎と結婚し、フツウの生活を送ることを夢みている。ヤクザのイエから離れたいと願う美代子は、相手がバクチで稼ぐ男であっては困るのだ。美代子はセックスとひきかえに、飯田に競輪選手をやめてほしいと懇願する。飯田はヤリたい盛りの若い男だから、寝るためにその場限りの約束をする。

同じ男に惚れ込む妙子と美代子の激突シーンは見物だ。競輪場の暗い廊下で二人は罵り合う。妙子は美代子をあざ笑う。飯田にセックスを教えたのは自分だ、自分が教えたやり方で、オマエを抱いたんだろう。どちらが好きなのかは男が決めればいい。

美代子は年上の妙子に刃向かう。愛している人間を賭けの対象になんかさせない。姐さんは男が言いなりになるのが楽しくてやっているだけ、男をオモチャにしているだけだ。そんなのは愛ではない。賭けでもない。人間のクズがやる「遊び」だと罵る。

美代子が飯田に結婚という見返りを要求するのに対し、妙子が飯田に求めるのは「思いっきり走る」ことだけだ。相手が活躍することを喜び、全力で応援したいだけ。見返りなんか求めていない。妙子にとって飯田は「推し」だ。塀の中の夫がでてきたら、ただではすまないことは分かっている。ただ「この瞬間」の、「震えるような気持ち」を求めているだけなのだ。

坂崎は妙子の「賭け」に「賭ける」。それが悪い夢だとわかっていても妙子を「推す」。ふたりは愚鈍な生活などあざ笑い、一瞬の熱狂に賭ける同志となる。

この映画で「食べる」のは坂崎と妙子だけだ。ふたりは一緒にビールを飲み、麺をすする。映画の登場人物で最もハングリーなのが、この二人だ。ささやかな幸福なんかでは決して埋められぬ「飢え」と「乾き」を満たすため、ならず者たちは今日も車券を握りしめる。

妙子と坂崎は有り金すべてを飯田に賭け、破滅への道をひた走る。もうどうにもならない。どうしようもない。

競輪場で財布の底まではたいて買うのは他人だろうか? 自分自身を信じられるか確認するために、カネを失っているのではないか。

坂崎は映画の冒頭で、迷いに迷って誰かを買う。そんな坂崎に妙子は「飯田を買え」という。「彼は強いから彼を買え」と言う。妙子は飯田を信じているのではない。自分を信じているのである。そんなにも自分を信じられることに、坂崎は勇気づけられる。

カネを失っても失っても妙子が後悔しないのは、自分が信じることをやったからだ。妙子は繰り返し繰り返し、階段を降りている。転落していく人生だからだ。

坂崎のように、ベルトコンベアーにうまくのって成功していく「幸福な人生」にだって、自由はない。地道に働き養育費を稼ぐ人生も、そうでない人生も、自由というのは偶然性がある場面にしか感じられないのではないか。「賭け」とは結局のところ、自由への憧れである。「選べない」無力感を乗り越えるためなら、人は「破壊」だって「選ぶ」。それがギャンブルの快楽ではないか。

この映画の中で、賭けられる男と、賭けるオンナ、推される側と推す側の関係性はどう変わるのか。次回に語る。

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