#07『人間に賭けるな』前田満州夫 監督(後編)

【「推し」にすべてを賭けて破滅するオンナ(後編)】

「推し」と「好き」は違うのだろうか。「推し」は支配的ではないと言えるだろうか。単なる遊びだと言えるだろうか。

ヤクザに八百長しろと脅されながら走ってきた競輪選手:飯田(川地民夫)は、ヤクザの組長の姐:妙子(渡辺美佐子)に推されている。
そして、ヤクザの姪:美代子(結城美栄子)には好かれている。
飯田はふたりともに、肉体関係にある。

妙子には、八百長せずに競輪選手として精一杯走れと要求され、美代子には、競輪選手をやめてヤクザ稼業と手を切り自分と結婚してほしいと要求されている。

飯田は「推し」も「好き」も拒絶する。

飯田が妙子を拒絶するシーンは夜だ。雷が鳴り、土砂降りだ。妙子自身もふたりの関係性も「悪」として描かれているからこそ、夜で雷で雨だ。この映画において「推し活」は「悪」である。ニンゲンに賭けることは「悪」なのだ。

飯田は傘を差しているが、妙子には傘がない。妙子は神から見放されている。傘は神に守られているものにしか与えられないからだ。

ふたりは同じ傘の中で密着して会話をする。この距離の近さは、ふたりの肉体への執着をほのめかす。傘からでた妙子は雨に濡れながら、何倍もかけてやると叫ぶ。

飯田はカネで肉体を買われた売春婦と同じだ。相手に心まで差し出さない。妙子は売春婦に勝手に入れあげてありったけのカネを使い、拒絶されると「滅んでやる」と罵る男と同じだ。心だって通い合えると思い込んでいるのだ。

飯田が美代子を拒絶するシーンは昼だ。光がある場所にいて雨も降らない。美代子自身もふたりの関係性も「善」として描かれている。それは「愛」だからたとえ破綻しても「善」なのだ。

ふたりが会話を交わす駐車場は、墓場と意味的に同じである。停止する車は死体と同じ。動くべきものが動かない場所にいる美代子と飯田の人生は、これ以上決して進まない。

飯田はもう美代子の肉体を求めてなんかいない。駐車場はマグロ置き場でもある。美代子の肉体は、飯田にとってはもはや何の魅力もない。

美代子にとって飯田は「推し」ではない。「好き」な相手だった。だから結婚という見返りを求め、結局、飯田に拒絶された。「ニンゲンの愛で他人を変えられるなんて思うのはおかしい」からだ。

飯田は賭けられて走ることを選ぶ。自慢の肉体を生かして、売春婦として堂々と「労働」することを選んだのだ。それを見下す相手など、飯田にはいらない。

妙子は飯田に賭けるカネもない。妙子の生き様に賭ける坂崎(藤村有弘)は一文なしの妙子に抱かせてほしいと懇願する。彼女が飯田に賭けるカネを与えるためだ。彼女にその無様な生き様を続けて欲しいからだ。坂崎の「推し」は妙子だ。妙子は坂崎のカネを拒絶する。坂崎でない相手でも、肉体を差し出せば稼げるからだ。

カネを介さない妙子と坂崎のセックスは、お互いに抱え込んだ無力感と孤独を乗り越えるための破壊的行為であり「反日常」を生きる者の連帯だ。お互いに見つめ合い手を握り合い、からまりあう姿に、煉獄のイメージが、オーバーラップする。賭け事という「俗」を、この映画では「聖」で語ろうとしている。

競輪に狂うオンナを渡辺美佐子が演じた映画はもう1本ある。「競輪上人行状記」だ。この映画が仏教から語られるのに対し、「人間に賭けるな」ではキリスト教で語られている。

ふたりの濡れ場は、殺伐とした坂崎の夫婦のベッドシーンとはまるで違う。俯瞰でとらえられるふたりのベッドは画面に対して水平だ。画面上部に配置されるのは妙子。女性上位。ふたりの身体は断ち切られずすべてを「見られて」いる。妙子と坂崎の裸体にキリスト教的なモチーフが重なる。墜ちていく二人を見下ろすのは誰だ? ロダンの《考える人》だ。

《考える人》が彫り込まれた「地獄の門」は、ダンテの『神曲』地獄篇に触発されたロダンが、生涯をかけて制作した巨大なブロンズ彫刻作品だ。坂崎と妙子は地獄の入り口まで来ている。セックスシーンに流れるのはグレゴリオ聖歌だ。もはや死のにおいしかしない。愛は原罪、救いはない。ハレルヤ!

ふたりの姿は点滅する照明によって、明るくなったり暗くなったりする。闇が定期的に訪れる。白黒、白黒・・・。善悪は揺らぐ。しかし結局は黒だ。悪だ。悪は滅びるのみだ。

二人はきっと終わるだろう。わたしの暗い予測はいつもあたる。「平凡なんて我慢できない」「賭けはもうけのためにするんじゃない、好きになったら滅びるまでかけ続ける」と言う妙子の人生は、破滅のカウントダウンがはじまっている。「バカだとわかっていても、あたしにはそれしかすることがない」と言う、妙子は覚悟をきめている。もう取り返しのつかないことは分かっている。

妙子の夫、ヤクザの組長は出所して競輪場に現れ、妙子と相対する。警察に売ったのが妻の妙子だと知っている。やんわりと脅された妙子は、何をするのか。ラストシーン、虚空を見つめながら言う。
「今日から飯田は(ヤクザに支配されず)自分の力で走る、永久に。きっと勝つよ」

何かに惚れたら命がけでやることだ、それがこのヤクザな女の言い分だ。

この映画で描かれるのは、自分を信じて負けるニンゲンだけである。バクチで勝てることは決してない。それが分かっていても、バクチに賭けるしかない人生だってある。

「遊びってのは、もうひとつの人生なんだ」と寺山修司は言った。
「人は誰でも遊びっていう名前の劇場を持っている、そこで人は主役になることもできるし、同時に観客になることもできる」

妙子は人生そのものを遊びに乗っ取られたオンナだ。
ヤクザの情婦になる前、彼女は浅草の舞台に立つ踊り子だった。劇場の主役になれたかもしれないオンナは、舞台を降りて男に賭けた。踊りなんかより、のちに夫となり、しょうもないヤクザの親分になり失望する男に、惚れ込んでしまったからだ。

唯一の命綱が、首をつるためのロープになる人生だってある。「バカだとわかっていても、あたしにはそれしかすることがない」のなら仕方ないのだ。

バクチに取り憑かれたバカなオンナは、いつの世においても「悪」である。善には決して届かぬ高揚感と恍惚を求める者こそ「悪」である。

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