#08『ポゼッション』アンジェイ・ズラウスキー 監督(前編)
(仏公開1981年/日本公開1988年)
【痙攣しつづけるオンナ(前編)】
『ポゼッション』とは「所有」や「占有」を意味する英語だが、転じて、「悪魔が取り憑くこと」を指すことばだ。イザベル・アジャーニの狂気的な演技に戦慄する映画である。
イザベル・アジャーニは、硬直しながら叫んだり、震えたり、卑猥なことを口にしたり、抵抗したり、とにかく我を忘れたような態度をとる。それはまるでセックスでオーガズムに達する時のようだ。しかし彼女は、夫と下半身がつながってない状態でそうなる。
オレのオンナが悪魔に取り憑かれたような状態になるのは、オレとセックスしている時だけにしてくれ。それが男の本音である。オレの支配下にないオンナの痙攣は、イルネス、あるいはマッドネスでしかない。他の誰かが、何かが、オレのオンナを侵略し乗っ取る侮辱には、堪えられないからだ。
『ポゼッション』は、痙攣し、のたうちまわる妻と、そのことに苦悩する夫の話だ。男が、オレのオンナを寝取った悪魔は誰か? ということに、苦しみ続けるホラー映画である。
冒頭に映るのは、殺伐とした旧・西ドイツの風景だ。重厚かつ不穏なミニマル音楽が流れる。東西分裂の象徴となったベルリンの壁を、車窓から眺める男が主人公(サム・ニール)だ。彼のシゴトはスパイ。長期にわたって不在にしてきたイエに帰ってきた。
妻(イザベル・アジャーニ)は彼を出迎える。実に冷え冷えとした再会だ。顔をみあわせた瞬間から、この夫婦関係には亀裂が入っていることがわかる。
夫「電話もした。はっきりしろ。いつ決める?」
妻「わからないわ」
夫「よそに泊まれと言うのか?」
夫婦は、氷山のように青い照明に包まれたアパートに住んでいる。幼い息子がひとりいる。息子は無邪気に風呂場で遊んでいる。
夫婦はセックスを試みるが、うまくいかない。冷戦中のふたりが、ベッドで燃え上がることは不可能だ。妻は不安にかられたような表情をしている。夫はよくあることだと、諦めきっている。夫婦のハダカは、俯瞰でとらえられている。俯瞰イコール神に観られているの図、だ。
夫は「オマエを抱く気にもならない。」とそっけなく言う。カメラはふたりからゆっくり離れていく。神はふたりを見放した。近寄ってくるのは、悪魔だけか? ソトには監視の目がある。一体誰が、何のために見張っているのか。見張られているのは彼か、壁の向こう側か?
青いワンピースを着る妻は、離婚したがっている。他に男がいるのだ。夫はシゴトをやめ、家庭をたて直そうとする。妻に執着する彼は、やたら電話をかけ、不倫相手をつきとめる。
夫は神経症となり入院する。退院し戻ってきたアパートに妻はいない。息子はネグレクトされている。汚れた服を着替えさせ風呂にいれながら、夫はもとのアパートで息子を育てる決意をする。
妻は、一日に一回は息子の様子を見に来るが、どこかに帰って行く。夫は探偵を雇い、妻のアパートをつきとめる。壁紙のめくれた薄気味悪い、暗い部屋に、彼女はひとりで暮らしている。
あんなにも妻に執着していた夫は、今はもうすっかり関心を失っている。息子の保育所の保母に、興味がうつったからだ。彼女は外見だけが妻にそっくり。内面は、悪魔のような妻と正反対。天使だ。
毎日やってくる妻の不機嫌に、夫は堪えられない。妻は、憎しみを自分に向けてくる。会う度に混乱の度が深まっていく。何かに、取り憑かれているようにしか見えない。
妻は、「さわられると思うだけで厭だ」「わたしは淫売だ」「手当たり次第、男と寝てやる」と挑むような表情で夫に叫ぶ。煽られた夫は妻を殴り倒す。オンナは男に力では勝てない。罵り返され殴られ、血を流しながら、妻は「もっと殴れ」と煽る。
激しい暴力にさらされる瞬間、人は無感覚になる。痛みは孤独になった時に訪れ、長く長く尾を引く。その残酷さを、この映画はこれでもかとみせていく。
妻は、夫が帰ってくるまでは、息子と二人で、うまくやっていた。単身赴任の夫は帰ってきた。不在の時を乗り越えて、孤独のなかで彼女が知ったのは、夫婦関係で自分は「服従しているだけ」ということだったのだろう。
この映画は、夫婦関係の断絶を通して、「支配―被支配」の関係性をも暴いていく。
妻は、夫に言う。
「わたしの中には、わたしとは違う妹がいる」
「私生活だって芝居と同じだ」
「わたしの考える可能性は、社会を貫くものだ」
「子供に教えるような態度を、わたしにとるな」
それはイエに縛られ、幼子と閉じ込められてきたオンナの、激烈な訴えである。彼女は信念と受け身以外の、第三の可能性を探そうと必死なのだ。彼女は善も悪も同じだと、わかってしまった。どっちにしろ、ただのお芝居にすぎないのだ、と。
不倫をし、悪にそまろうとしても、彼女は決して自由にはなれない。不倫相手のハインリヒは、セックスやドラッグの快楽を与えてくれる相手ではあるが、自分の飢えや渇きはそんなことでは埋まらないと、彼女ははっきり分かっている。しかし夫を傷つけている時だけが、彼女がその支配から逃れ、服従しないでいられる時間であることも事実だ。
服従しないために加害するしかない、そんな自分の振る舞いに、彼女はもう堪えられない。なぜなら夫を愛しているからだ。不服従と自由への希求と、愛する男を加害しているという苦しみの間で、彼女は引き裂かれていく。夫との関係性を続ける限り、彼女に魂の開放はない。夫婦を続けるということは、永遠の苦しみでしかない。
「狂気(マッドネス)」とみなされることによってオンナは、「従順な娘であれ」「優秀な看護者たる母であれ」と強いてくる牢獄から解放されるということも事実である。しかし、善でも悪でもない可能性が、マッドネスでしかないことに、彼女は深く絶望する。首を肉切り包丁で切りつけても、もう痛みすら感じない。夫は自傷する彼女を壁におしつけ治療しながら、息子のためにちゃんと振る舞えと諭す。
自傷する妻を止められなかった自分を罰するがごとく、夫は自分の腕を切りつける。男だって血が流れ、痛みを抱えたニンゲンだとアピールする夫を、妻は静かに見下ろす。オンナの真似事をすることでしか、痛みも表現できない哀れでオリジナリティのない野郎に、彼女の苦しみは一生理解できない。彼女は呆れ果て、さらに絶望を深める。男女は断絶していく。
絶望のどん底の妻は、無人の地下道で半狂乱となったことを思い出している。彼女は立っていられないほど、ふらふらの状態だ。壁にぶつかり、ゲラゲラ笑いながら歩く。買い物袋をふりまわし、牛乳まみれになる。精液をぶっかけられて、アタマがおかしくなったオンナだ。
身体は痙攣する。床を転がり、這いながら、口からも白い液体を吐き、血を流す。その姿はたったひとりで、流産しているオンナの姿だ。快楽や恍惚など皆無の、むごたらしい痙攣。孤独に苦しみながら、社会と自分との間で引き裂かれていくオンナの痛みだ。悪に取り憑かれたようにしか見えない。コントロール不能となった身体だ。苦しみ続けるしかない。
ミシェル・フーコーによると、痙攣とは『憑かれた女の身体における戦いが、目に見えるようになったもの(※1)』であり、『痙攣の現象には、悪魔の全治の力、その物理的効果が見いだせ(※2)』る。それは『抵抗したり、吐き出したり、否定的態度をとったり、猥雑で反宗教的で冒涜的なコトバを発したりという身振りが、常に自動的なやり方で行われる(※3)』ものだ。
木澤佐登志は著書「失われた未来を求めて」の中で、
『女性の痙攣するからだはキリスト教化に対する抵抗の帰結だけではない。それは魔女狩りを通して、産児制限を犯罪化し、子宮を人口増加のために、かつ労働力の再生産と蓄積のために奉仕させようとする初期資本主義の要請に対する抵抗の帰結でもあったはずだ。(※4)』と書き、こう続けた。
『女性の身体、労働、性的能力や再生産能力を国家の管理下に置き、それらを経済的資源に変容させる新たな家父長制主義体制に対する抵抗。従属させられた「生産性」に対する抵抗。「産む機械」に変容させられることへの抵抗。諸処の権力に貫かれた身体の、不随意的かつ自動的な肉の痙攣という運動。(※5)』
もう善は残っていないと妻は言う。夫は言う。「醜くなった」と。「色気がなくなった」と。システム内にとどまるオンナしか、男に愛されない。そこからはみ出すオンナには、色気も美もない。男を失望させるだけだ。
この映画の脚本は、ズラウスキー監督自身によるものだ。女優であり妻であった、マウゴジャータ・ブラウネックとの苦痛に満ちた離婚を経験している最中に、執筆された。
後編では、引き裂かれる夫婦の関係性を、どのようなカメラワークで、構図で、アクションで描いているか、について語る。
——
※1 ※2 ※3・・・『ミシェル・フーコー講義集成〈5〉異常者たち(コレージュ・ド・フランス講義1974-75)』ミシェル フーコー(著)/慎改 康之(翻訳)/筑摩書房/2002/226頁
※4 ※5・・・『失われた未来を求めて』木澤 佐登志(著)/大和書房/2022/272頁
/////『彼岸花』2025.12.12 ONSALE/////
「人生で選べたことなんてあったか?」
緊急事態宣言下、追いつめられたオンナの運命は…。
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