#08『ポゼッション』アンジェイ・ズラウスキー 監督(後編)

【痙攣しつづけるオンナ(後編)】

『ポゼッション』のカメラマンは、ブルーノ・ニュイッテンという男だ。
この映画で第34回カンヌ国際映画祭の主演女優賞に輝いたイザベル・アジャーニのパートナーだった。ふたりの間には、息子がひとりいる。

夫婦の断絶を映し出すカメラは、まるでもうひとつの人格があるかのようによく動く。内面にせまる時は、カメラがぐっと寄っていく。そして急速に離れていく。前進と後退を繰り返しながら、ローアングルで煽ったり、ハイアングルで引いたり、めまぐるしく視点も変わる。

カメラが激しく動き回ることで、関係性が土台から揺さぶられている男女の内面が、画面に投影されていく。狂った身体についてまわるカメラは、葛藤を伝える場面では手持ちになり、旋回する。

コントロール不能な内面の嵐に、ふりまわされる男とオンナが、ぐるぐるまわるカメラで撮られ、観ているこちらまで気が狂いそうになる。狭いアパートの廊下を縦横無尽に動くカメラワークには、終始圧倒され続ける。

この映画で、車は何度も急カーブを曲がるし、事故るし、バイクは転倒するし、アパートのリクライニングチェアは揺れ続ける。カフェの椅子は放物線を描いて投げられ、らせん階段を何度もあがったり降りたりする。繰り返し描かれるのは、旋回する力だ。

壊れていく夫婦関係が、ねじれる構図や回転するカメラワークで表現されるのは、「痙攣」という動作が、ある地点にとどまりながら動き続ける矛盾をはらんでいるからだ。それは、エネルギーの無駄使いであり、疲弊するだけの発作である。

妻を寝取っているのは、愛人のキモイおやじだけではない。妻は、一人暮らしのアパートに怪物を飼っている。得体の知れない触手怪物と、彼女はヤっている。夫はその現場を目撃してしまう。

あの触手怪物とは何か。何の暗喩なのか。怪物に乗っ取られ、会話することもままならなくなった妻の心は、何に触れて変えられてしまったのか?

舞台は東西冷戦下の西ドイツだ。主人公の夫(サム・ニール)は国家機密の潜入捜査官。シゴトでイエを離れている間に、妻(イザベル・アジャーニ)は「共産主義」(東側)に乗っ取られたのかもしれない。オレのオンナを寝取っているのは、ひとりの男とは限らない。妻は自分が従っているシステムとは別のシステムに、取り込まれてしまったのかもしれない。

男がシゴト一筋となり、イエを放置し、子育てを妻にまるなげした結果、オンナがヤバいことになるなんてのは、しょっちゅう聞く話だ。「怪物」には、どんな可能性だって当てはまる。

マッチングアプリで男あさりをする妻、子育てだけに全力投入しヒステリックな「お受験ママ」となる妻、「反ワク」にそまり子にワクチンすら打たせない妻、カルト宗教にドはまりし献金しつづける妻、推しにいれあげ、ホストに入れあげ、スピリチュアルにいれあげ・・・エトセトラエトセトラ。

夫婦の関係が壊れるか否かは、依存の濃淡でしかない。

あなたの妻は、知らない間に「何か」に寝取られている。あなたが不在の間に、得体のしれない怪物とヤっている。だって、あんたのアレより「イケる」から。そう妻に告白され居直られた時、男は正気でいられるか?

この映画の主人公は、正気ではいられない。いきなり保護欲をまるだしにして、なんとかその地獄から、妻を助けてやろうとする。この夫にとって妻は、息子と同様に「守ってやらねばならぬ」存在だからだ。

彼のシゴトは、「守る」こと、国のために、どんな汚いことでもするというのが、スパイのシゴトだ。

夫にとって妻は、一人前の独立したニンゲンではない。あんなにも妻が、のたうち回り、痙攣し、枠からはみだそうとしていたのは、そんな男に囲われていたからだ。

「イエ」は彼女にとっての郭(くるわ)だからこそ、必死でもがき脱出しようとしたのだ。動物園で飼われている獣が、一心不乱に檻に身体をぶつけているのと同じである。エサを与えられるだけで自由のない生き物は、幸福ではないからだ。

まったく同じアングル、同じ構図で、夫が妻と子の着替えを手伝うシーンがある。不気味なほど一致させているのは、彼が「オンナコドモ」の保護者として生きていることを、絵でみせるためである。

「オンナコドモ」を守らねばならない男にとって、妻が殺した死体はなんとか始末しないといけないし、アレをみた男は殺さないといけない。

彼は、彼女の罪だって、自分がかぶらねばならぬと思い込んでいる。オレの家族の不始末はオレの責任だからだ。監督不行き届き。監督はオレ。それが彼の愛である。

一線を越えた夫は、越境する妻と同罪の共犯者となった。ふたりを隔てる壁は崩れた。冷戦終結だ。夫と妻はやっとセックスをする。共にいる場所が、死体を共有する地獄だとしても、罪深き二人はまぐあえる。

男はもとの職場から、仕事に復帰しろと言われる。国家に囲われている組織の犬である彼も、エサを与えられるだけの自由のない生き物だ。オマエの仕事は世界を救うことなのだ、と諭される彼が、橋の上から見つめているのは、溺死した犬の死体である。「あの犬は老衰ではない」という声を、彼は虚ろな目で聞いている。

男はなりふりかまわぬ行動をとり、組織からも追われる。立っていられないほどボロボロの状態で、らせん階段の手摺りにもたれかかりながら、なんとか上っていく。一歩でも二歩でも、上昇しようとする。ここでも「回転」するアクションだ。

夫婦はともに、適応不全のまま痙攣する肉塊でしかないから、身体はバランスを失いながら揺れ、旋回し、前進はしない。

後を追って階段をあがってきた妻は、晴れ晴れとした表情で新しい男を連れている。その姿に彼は驚く。彼は、「自分」と瓜二つだからだ。

彼女を犯し続けていた「アレ」は自分だった。知らないところでオレのオンナを犯していた悪は、自分だった!

『ポゼッション』はドッペルゲンガーの話である。妻にそっくりの善なる「保母」を愛する夫、夫にそっくりな「醜悪な化け物」とヤっている妻。ともに相手が求めるのは、「自分らしさ」とはほど遠い「自分」でしかない。

夫婦は天に一番近いところまで、自ら昇った。しかし、妻は銃で自死し、夫は高いところから落ちて死ぬ。キリスト教圏の映画で、悪いやつはいつも自死か、転落死だ。残された夫のドッペルゲンガーは逃走する。

イエにとり残されている息子の面倒をみるのは、妻にそっくりな保母である。保母のもとに、夫のドッペルゲンガーが帰ってくる。ドアベルが鳴り、息子は「開けないで」と言うが、聞き入れてはもらえない。

おさない息子は、いつも風呂場にいた。
浴室は獣性を現せる空間だ。服を脱ぐからこそ、心と体の葛藤を示すことができる。息子はわめきちらす母とは対照的に沈黙していたが、母と同様、飼育下の持たざる者としての葛藤を抱えている。

浴槽に執着する彼は、羊水に浮かび続ける胎児であろうとしていた。組織の犬になり、母を滅ぼした父親とは違う人生を選ぶため、彼は服を着たまま風呂に沈み、溺死する。橋で父がみた犬の死体と同じだ。

息子は、保母が母ではないことも、ドッペルゲンガーが父でないことも、知っている。偽物の親の元で飼育されることに、彼は全力で抵抗した。持たざる者ができる「選択」は「拒絶」だけだから、生きること、成長することを拒絶した。息子は、悪魔のようだったあの母の胎内に、回帰することを選んだのだ。

壊れる夫婦関係は、ほのめかしにすぎない。そこから何を読み解くかは、映画を観る側に託されている。

描かれているのは、断絶する夫婦関係だろうか?『ポゼッション』は監督が、離婚の痛手ゆえに、復讐として描いた物語なのだろうか?

夫婦を殺したあとで、イエが理想的な分身に、乗っ取られるのはなぜだ? 男に何も求めない穏やかで理想的な主婦だけが、生きる価値があり、愛されるということか?

オンナを狂わせ、取り憑く「悪」とは何か?

冷戦期の西ベルリンを舞台とし、離婚を描いていることは、何の比喩なのだろう? 冒頭に映るベルリンの壁は、かつて一つだったものの断絶を象徴している。

ポーランド人であるズラウスキー監督は、映画制作を続けるために祖国を離れざるを得なかった。祖国との別れを経験したことも、断絶した夫婦関係に託されて描かれているのか?

謎はつきない。答えもない。
オンナの姿をしているイザベル・アジャーニは、「女」なのだろうか?

わたしはこの評の最初にこう書いた。
『ポゼッション』とは「所有」や「占有」を意味する英語だが、転じて、「悪魔が取り憑くこと」を指すことばだ。

侵略してよい植民地は、この世界にはない。

システムに抵抗し逸脱する魔女たちは、魂の抵抗運動として痙攣し、回転しつづける。

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