#09『夜明けまでバス停で』高橋伴明 監督(前編)

【「テロリズム」に目覚める就職氷河期のオンナ(前編)】

『夜明けまでバス停で』は、貧困と孤立に喘ぐ就職氷河期の非正規のオンナが、「悪」に目覚めるまでを描く映画だ。

主人公は、コロナ禍で仕事とイエを失った、非正規労働者のオンナだ。スーツケースに全財産をつめこみ、棺桶のようにずるずるひきずって歩くオンナの寝場所は、バス停のベンチだ。彼女に殴りかかろうとする手が伸びてくる。そこでタイトルバックとなる。

これは2020年11月、渋谷区幡ヶ谷のバス停のベンチで、ホームレスの女性が近隣に住む男に殴り殺された事件を、下敷きにしている。被害者は亡くなる数ヶ月前まで、首都圏のスーパーで試食販売を提供する仕事をしていたが、コロナで職を失い、家賃が払えなくなりイエを失った。彼女が亡くなった時の所持金は、わずか8円だった。半月後、「彼女はわたしだ」というデモがおきた。

バス停で亡くなった被害者は60代だったが、映画では40代の就職氷河期女性に置き換えられている。しかし、「コロナ禍で仕事を解雇され、住処を失った女性」という背景はひきついでいる。

映画の主人公は現実のように、バス停で殺されてしまうのだろうか? それとも?

タイトルバックが流れた後、コロナ直前の世界に遡る。

主人公:北林三知子は2022年の世界で45歳という設定だ。演じた板谷由夏は1975年うまれだから2歳年下の役だが、就職氷河期のオンナを同世代の女優が演じていることになる。就職氷河期は、ドン詰まりの不況時に新卒がぶちあたった世代だ。カイシャがつぶれないために雇用の調整弁にされ、人生設計が描けなかった世代であり、特に女性は非正規労働者が多い。三知子は焼き鳥屋で働くパートだ。離婚歴があるが、子供はいない。

三知子は、客の食べ残しを同僚のマリア(ルビーモレノ)のために、こっそりジップロックに詰めている。マリアは、この店で最も弱い立場に立たされている。彼女はフィリピンから日本に出稼ぎにやってきた元・ジャパゆきさんだ。今はひとりで、食べ盛りで日本語しか話せない孫を3人も扶養している。貧しい彼女は、客の食べ残しをイエに持って帰っている。

それを、この店舗のマネージャー:大河原が見つける。大河原は創業者の息子で、いずれは会社を継ぐ身だと自慢しているチンケな男だ。この店を支配する「トップ」である。彼は言う。「残飯はゴミと混ぜて、野良犬が食べないようにして捨てろ」。

マリアは、タガログ語で彼を罵る。
「野良犬ってわたしのことか? むかつくんだよ、苦労知らずのボンボンが!」

この映画は冒頭から、ゴミを喰うしかない者たちと、ゴミを容赦なく捨てる者を、対比して描いていく。焼き鳥屋という閉鎖空間を使って、資本主義社会の残酷な階層を見せていく。持てる者と持たざる者、上下の話だ。

ゴミを喰うしかない側は、持たざる者たちだ。主人公を含む「非正規労働者」はいわば野良犬のごとき存在だ。セイフティネットがまるでない、この社会のシステムの底だ。

ゴミを捨てる側は、持てる者たちだ。「正規労働者」だ。店舗のマネージャーや店長が属する。彼らにはセイフティネットがある。

階級とは国民を分断させるものだが、「正規」「非正規」という働き方の違いは、もはや「階級」のようにわたしの目には映る。映画開始からずっと、日本国民はコロナ前からすでに、格差によって分断されているのだということを、これでもかと見せていく。

かくいうわたしも、非正規で働いてきた氷河期のオンナだ。経験上、非正規労働者たちがどんな場面で連帯するか、イヤというほど知っている。それは、給湯室で、トイレで、非正規だけの飲み会で、糞正社員に対し、怒りや不満を爆発させる時だけだ。

敵が同じ時、人は悪口で仲良くなる。学校で、嫌いな先生の悪口を言って盛り上がるのとまったく同じだ。そこには、持たざる者たちが権力者に刃向かう時の高揚感がある。この映画は、そういうリアルの濃度を薄めることなく、容赦ない台詞に落とし込んでいる。

「正社員様!」
「わたしが出た大学、店長が出た大学より偏差値、高いんですよね~」

持たざるオンナたちの連帯は一瞬だ。手に手をとりあって、システムを破壊することは決してできない。コロナ前からずっと「自助、共助、公助」でしかない非人情の世界で、それぞれが自己責任という圧に押しつぶされながら、孤立して生きているからだ。

正社員たちが「非常口」から退社するのに対し、三知子を含むパートの女性たちは店の入り口から出ていく。彼女たちに、逃げ道なんてないからだ。

会社の寮である、借り上げアパートへの帰路につくオンナたちの頭上に、雨が降り注ぐ。3人で1本分の傘しかない。傘は神に守られている者に与えられる小道具だ。彼女たちは「お上」に見放されている。

三知子には、プロのアクセサリーデザイナーという顔もある。手先が器用だ。懇意のカフェで作品を販売しているし、ワークショップ的なこともしている。

同僚のオンナたちは、三知子にアクセサリー作りを教わっている。そこに店長の寺島千春(大西礼芳)も加わる。非正規軍団のなかで、彼女は嫌われている異物だ。正社員だし、若いし、その上、店のトップである大河原とは「いい仲」なのかもしれない。

千春は言う。「三知子さんプロになれますよ、なんでウチの店でバイトしているんですか? もったいない」

非正規労働者は「学歴がないから」「努力が足りないから」「技術がないから」そんなシゴトにしかありつけないのだと思いたがる正社員は、世の中にたくさんいる。自分より「下」だから「下の立場で働いている」と思いたいのだろう。大河原みたいなクズだ。クズは憎むことができる。

しかし千春のような善良なタイプは、始末に負えない。まじめに労働し立派だが、想像力は圧倒的に足りない。クリエイティブな時間を確保するために、わざと非正規をやっているのだろう。そういう思い込みで非正規にキラキラ接してくる人たちが、どれほど多いことか。氷河期オンナたちは「非正規」であることを「選んで」なんていない。「選べなかった」から「非正規」なのだ。

わたしの話ばかりして恐縮だが、自分が非正規労働生活で、最も嫌っていたタイプは、大河原ではない、千春だ。大河原なんてケチな男は、間違いなく全員から嫌われている。酔ったフリして殴って良しと、みんなが思っている相手だ。しかし千春のような年下の「持てる者」は、酔っていても殴れない。

無知故に、無邪気に無自覚に、毎日毎日、年上の氷河期非正規労働者を柔らかく踏む年下は、まるで悪意がないから、ケンカをすることすらできない相手だ。上位に立てる若者たちの多くは、氷河期の苦境など知るわけもない。誰だって、他人が理不尽な目にあっているなんてことを、わざわざ想像したりしない。

対等でない関係性で、恵まれた側が自分の「フツウ」を相手にもあてはめて語ることが、どれほど相手を疲弊させ、やがて憎まれるか、それがわからないのが「お坊ちゃんお嬢ちゃん」というヤツらだ。

年下のキラキラ正社員にムカついたところで、大人である氷河期非正規労働者は腹をたてていることを、ミリも表に出してはならぬ。一日に何度も太ももにボールペンをブッ刺して耐える。憎しみの刃は自分に向く。坊ちゃん嬢ちゃんに踏まれることすら「持たざる者」の「自業自得」だから。それが自己責任論というやつだ。

無力感、徒労感だけが増し、抵抗する力すら奪われ、やりすごすための酒量が増えていく。マーク・フィッシャーの言うところの「再帰的無能感」だけが膨れ上がっていく。シゴト以外の部分で心身が疲弊していく。千春タイプには想像もできないだろう。三知子もビールをがぶ飲みしている。痛みは麻痺させて「ない」ことにするしかない。自傷にしか救いはない。

とにかく、この映画はあまりにも、生々しい。身もだえするほどに。

三知子にはカネがない。気があわない母親の介護費も払わねばならないし、元ダンの借金も返さなければならない。気にくわなくても親だから「仕方ない」し、自分が選んだ男の不始末だから「仕方ない」。

三知子は「仕方ない」「わたしのせいだ」と思いながら責任を過剰に果たす、圧倒的に正しい大人のオンナだ。だから正しくない人たちからは、ムカつかれているオンナだ。風俗にいった話を職場で堂々とする男たちを制して、この糞システムの上位にいる千春までも、さりげなく助けたりもするイイヤツだ。

コロナ禍が訪れる。店の客は減り、非正規労働者たちのシフトは減らされていく。そしてある日、ライン告知のみで一斉に解雇される。仕事を失えば、住むところすら失う。実家に帰る者もいるが、三知子には帰れる実家すらない。

非常口からでてきたこの店のトップである大河原に、最も低い立場だったマリアは、ゴミ箱のゴミをぶちまけて叫ぶ。
「わたしは野良犬じゃないよ、ニンゲンだよ」
彼女は大河原にもわかる日本語でそう言う。もう感情を隠したりしない。

ゴミを拾い喰うしかないオンナが、ゴミを容赦なく捨てる男に一撃を与えるいいシーンだが、ゴミまみれになった男には未来があり、反逆するオンナたちはノー・フューチャーだ。

憎む相手を共有していても、自分ひとりだって喰っていけないほど追い詰められたオンナたちが、連帯することなんて不可能だ。無力、ゆえに解散。彼女たちはそれぞれに路頭に迷うだけである。

三知子はまた「仕方ない」で諦める。この世はすべて自己責任だからだ。この世は「自助」地獄。ワレを助けるのはワレのみ。

三知子は住み込みの介護職をみつける。採用された先に、彼女は生きるすべてを詰め込んだスーツケースをひきずって赴くが、新規の採用は見送ったという一言ではじかれる。反論しても「飛沫が飛ぶ」と拒絶されて終わりだ。

住所を失うと、もう仕事も決まらない。そもそもコロナ禍だ。40代の彼女に、働き口なんてない。ドン詰まりである。

三知子はもはや、ほんものの野良犬だ。ゴミをあさって食べるしかない。そんなときにも、生理にはなる。子も宿さないのに、なぜ毎月、せっせせっせと血を流さねばならんのだ? 飯に費やすはずのカネも、ナプキン代になる。免疫は低下する。オンナの身体はやるせない。

スーツケースひとつだけが、彼女の全財産という圧倒的孤立。残金は減る一方だ。最終バスが去ったあと、バス停の椅子に座って休むしかない。

「あの性格じゃ、人に弱みを見せられないでしょ」

そう言われる三知子は、わたしだとしかもう思えない。だから、わたしが代弁してもよいだろうか。

貧困ギリギリで、それでも背筋を伸ばして生きているニンゲンの杖は、プライドだけだ。意地だけで立っているニンゲンに、プライドまで捨てろというのは、二度と立ち上がれなくする暴力である。

弱みを見せられない彼女は、身なりを整え続ける。とてもホームレスには見えない。炊き出しに並ぶことすら、躊躇する。プライドゆえに、自分のクビを絞め、崖っぷちへ追い詰められていく。あまりにも残酷すぎるリアルに打ちのめされる。

ここまでが開始から30分だ。映画全体の三分の一を使ってわたしが見てきたことは、勝ち組と負け組という「差」をつくることが動力になる、資本主義社会の縮図であり、上下で分断される世界のリアルだ。

しかしこの日本社会は、資本主義であると同時に、民主主義でもあるのだ。民主主義とは平等をめざす精神である。格差が露呈する時、民主主義を信じる人々の内側に、どういう変化がおきるのか、その先のアクションは、この映画ではどう語られるのか。後編で語る。

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