#09『夜明けまでバス停で』高橋伴明 監督(後編)

【「テロリズム」に目覚める就職氷河期のオンナ(後編)】

コロナ禍で仕事もイエも失った就職氷河期のオンナ:三知子(板谷由夏)は、ブルーシートのテントが立ち並ぶ、ホームレスの巣窟のような公園を、野良犬のように彷徨う。そこで自分の親世代の老人たちと出会う。

彼らはコロナ前からずっと路上生活を続けてきた、百戦錬磨のホンモノの野良犬たちだ。コロナ禍になろうとなるまいと、彼らの暮らしはまったく変わらない。野良として生きていく術を知っている。

三知子は、親ほど年の離れた老人たちの人情に助けられていく。倒れた三知子をテントに入れ、喰わせてくれた「バクダン」(柄本明)とよばれる男は、団塊の世代であり、かつて「新宿クリスマスツリー爆弾事件」を起こした犯人だ、という設定である。

「新宿クリスマスツリー爆弾事件」とは、1971年、東京・新宿三丁目の交番前に設置されたクリスマスツリーが爆破され、警察官や通行人が負傷したテロ事件だ。極左暴力集団、通称「黒ヘルグループ」による犯行とされる。

「バクダン」は若者時代、システム=体制に組み込まれることに反逆していた世代であり、「革命」を本気で信じたタイプの男だ。

システムから積極的にはみだした「バクダン」は、システムから追いやられてしまった三知子とは、立場も境遇も全然違う。

三知子は「上下」で分断される世界を生きてきたオンナだ。一方バクダンは、「左右」で分断される世界を生きてきた男。決定的に噛み合わない。三知子はバクダンのまき散らす社会への怒りが、正直よくわからない。彼が口にする、ベトナム反戦運動や、成田闘争を知らないからだ。

バクダンは自分たちの革命と政治批判の話をし続けるが、三知子は「自分の失敗は自分のせいだ」と諦観している。社会のせいか、自分のせいか、という内面化の前提が違いすぎて、話が噛み合わない。ふたりの関係性は、団塊✕団塊ジュニアの親子世代の断絶そのものである。

しかし、親世代のバクダンに、「(三知子の苦境は)俺たちに責任があるんだろうか」と言われた時に、彼女はやっと自己責任でがんじがらめの檻から、出られたのかもしれない。

自分はまじめに生きてきたのに、こんな目に遭うのはおかしいのではないか。一度ぐらい逆らってみたい。

この世の中がおかしいのはシステムのせいだから、暴力革命も辞さなかった親世代が「俺たちのせいかも?」と言い、「自分のせいだ」と思い込んできた自己責任論の権化である子世代が「社会のせいかも?」と気づく。ブルーシートのテントの中で視線を交わし合い、両者に変化がおきた結果だ。三知子とバクダンの会話は単なる情報伝達ではない、互いに影響を与え合う魂の交流だからだ。

「何かを壊したかったというよりも、バクダンを持つことによって自分自身が変われる、俺自身が何者かという問いを、たてるということだ」と言うバクダンから放たれる熱と衝撃に触れて、三知子は暴力的に変えられてしまった。

左右の世界で敗北したバクダンに、上下の世界で踏まれた三知子は、「バクダン」の作り方を教わる。

左と下が、「自助」「共助」「公助」という非人情なシステムを憎悪するあまり共鳴し、世代の差、男女の差を超えて連帯する。「この世の中はおかしい」から、爆発させて壊そうとする。

ここで、爆弾の製造法やゲリラ戦法などを記した70年代の教程本『腹腹時計』まででてくるのには驚いた。現実にあった事件をベースにし、暗い世相を反映させるフィクションでありながら、ここまで歴史をいじりたおして荒唐無稽に「おもしろく」してしまうのだから、業が深いとしか言いようがない。

どれだけご立派なメッセージ性があったとて、結局、映画は面白くないと誰も見ない。しかしまさか、アクセサリーをつくっていた三知子の「手先が器用」という設定が、バクダンづくりにいきてこようとは・・・。高橋伴明は「僕は破綻した脚本でないと嫌だから」と語っているが、その破綻をうむために、無駄のない目配せが行き届いている。

疑似親子化した二人が、東京オリンピックのマスコットキャラが描かれたバッグにバクダンを入れ、並んで都庁へ歩いて行く姿は、アウトサイダーならではの高揚感に満ちた画面だ。この姿はそのまま、監督:高橋伴明と、女優:板谷由夏にも置き換えることが可能だ。

高橋伴明はシネマ・クロス・メディア「C2[シーツー]」のインタビュー動画で、次のような内容を語っている。
「日頃さまざまな事件に注目している中で、2020年の幡ヶ谷バス停事件を知ったとき、事件そのものには興味をもてなかった。板谷サイドから自分と映画が撮りたいといわれ、あの事件のことを聞かれた時、「彼女は私だ」という声が世間で上がっていることも知っていたから、誰もがこの人になりうる話にもっていければ、映画として成立するかもしれないと思った。柄本明演じる「バクダン」に、自分たち世代の思いも託せるし、厭な世論をつくってきた背景にも言及できると思い、自分はやる気になれたのだ」

高橋伴明は団塊の世代、板谷由夏は団塊ジュニアの世代だ。

戦後直後に産まれ、「政治の季節」をくぐりぬけ、高度経済成長の動力となった団塊の世代と、長期にわたる経済の停滞しか知らず、氷河期やロスジェネなどとよばれ、雇用の調整弁として見殺しにされながら、政治には無関心な上、自己責任論ゆえに孤立する団塊ジュニアの世代が、テロリズムで連帯してしまう可能性なんて、ありえるのだろうか?

んなアホな? と言いたいところだが、絶対にないとも言えない気がする。例えばコロナ禍のような苦境下では。

しかし「バクダン」は老獪な男である。「この世の中はおかしい」から、オリンピック間近の都庁をボンと爆発させ・・・たりはしない。目覚まし時計が鳴っただけだ。あーおもしろかった、でおしまいだ。

バクダンにとっては、40代の三知子だってまだ若い。未来ある彼女を、犯罪者にさせたりはしない。だって彼は「父」だから。

え? 誰の父親だって? まさか三知子の?
そうではない。

ここで映画世界からは一端離れる。脚本家の梶原阿貴の父は、「新宿クリスマスツリー爆弾事件」の実行犯の一人、梶原譲二なのだという。

映画の中で、板谷由夏演じる三知子に、バクダンである柄本明は「あんたが産まれる前だからな、アレ(事件)は」と語るシーンがあるが、それは脚本家と俳優でもあった父の歩んだ道のりなのだ。

梶原阿貴が産まれる前に、「新宿クリスマスツリー爆弾事件」はおきた。1973年うまれの彼女が小学校6年生だった1985年、父である梶原譲二は自ら警察に出頭したのだという。事件から逮捕されるまでの14年間、家族3人で逃亡生活を続けていたそうだ。映画が上映されてから数年後の2025年に出版された、梶原阿貴の自伝『爆弾犯の娘』(ブックマン社刊)でこの事実が明かされた時、わたしはあまりのことに絶句した。

こんなハードコアな「リアル」を知ってしまうと、このフィクションをどう見てよいのか、わからなくなってしまう。・・・が、気をとりなおして映画の世界に戻ると、バクダンは爆発しなかったのち、物語は映画の冒頭で描かれたあのバス停へと戻る。

この映画は、コロナ禍におきた、「渋谷ホームレス殺人事件」も下敷きにしている作品だ。映画のファーストショットで描かれたのは、バス停で生きるか死ぬかの瀬戸際だった三知子の姿だ。

三知子を殴り殺そうとする相手は、街でゴミを拾う男である。彼は街のゴミを一掃したいのだ。バス停で眠るホームレス、三知子の存在こそが、彼にとってはゴミである。眠る三知子が思い詰めた男に殴られそうになった瞬間、退職金をわたすために三知子を探し続けていた「店長」:千春(大西礼芳)が現れる。

三知子を助けた千春は言う。「あたしも会社をやめてきました。だからもう同じです。」

殺されたかもしれないバス停で、システムの上下で分断されていたオンナふたりが再会する。上位にいた人がみずから「降りる」ことによって、「テンチョー」から「チーちゃん」になる。階級上昇がのぞめない世界で、友だちになるために、損をする人間もいる。

千春は、職場に置き忘れられていたブレスレットを三知子にわたす。二人が、おそろいで作ったブレスレットの石に込められていたメッセージは、「チームワーク」と「友情」だ。世代の違うオンナたちの、痺れる連帯である。

これは、正社員:千春の成長の物語でもある。糞なシステムをまわす歯車にはならない。最も勇気を振り絞ったのは、千春である。

コロナ禍になり、三知子を解雇した後で自責の念にかられた千春は、正しい行動をとり続けていた。非正規労働者の退職金を着服した大河原を責め、解雇した従業員たちが受け取るべきカネを配分し、支給する。Go To Eatで賑わう店で働く、若い女性たちからのセクハラの訴えだって、勇気をふりしぼって対処する。

千春は、苦境の時にあっても常に「正しい」行動をとっていた三知子の魂に触れ、変わってしまった人間だ。千春にとっては三知子が、自分を変える「バクダン」だったのだ。

この映画は、オープニングもラストも「バス停」だ。バス停という場所の示すメッセージ性にも思いをはせる。今はまだ待っているだけだが、いつかは遠くへ行ける場所。そこで、眠っていた主人公が目を覚ます。彼女たちはきっと現状とは全く違う未来へ、運ばれていくのだろう。

現実のバス停では殺されてしまった被害者は、フィクションの世界では助かる。この映画は、失われた未来を指し示すものか? 「孤独」なニンゲンたちが、「孤立」は乗り越えられるという、ささやかな希望だろうか?

この映画が訴えているのは、それだけではない。

「公助」を最も後回しにする世界で、追い込まれたオンナたちはいつか、血を流しながらバクダンを産む。エンドロールがあがってきて、爆発する国会議事堂が一瞬映るからだ。

テロリズムとは、追い詰められた者たちの、ボトムからの一撃である。それは常に「正しさ」に囚われる者たちによって実行される「暴力主義的破壊活動」である。

平等を担保する仕組みが民主主義であるはずなのに、資本主義からこぼれおちた人を見放し続けている現状がある。その裂け目はもはや、誰の目にも明らかだ。

「勝ち負けを決定づける資本主義」+「平等を担保する民主主義」の両輪駆動で、バランスをとりながら動かさねばならない日本社会はもはや、機能不全に陥っているようにわたしの目には見える。前者は強すぎるし、後者は弱すぎないか?

全員平等だと言われながら、露骨な格差があるという欺瞞。平等はどこにいったのか? という怒りの表出として、テロがおきる可能性を常に孕んでいるのが民主主義ではないか? 不公平や不正がない状態を目指すのが「正義」なら、正しさを求める信念によって、暴力も実行されるのだ。

暴力を振るう者たちは「悪」である。悪にだって正義はある。

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