#00 幻の強度について(後編)

これまでも、わたしは度々幽霊を見てきた。しかしわたしが幽霊を見ている時、「ああこの人は幽霊だな」などとは思わない。それは「奇妙な人」でしかないのだ。理解できない行動をとり、意味不明なことを言ってくる、コミュニケーションがとれない相手だ。わたしには、狂人と幽霊の判別ができない。

しかし、わたしと空間を共有する誰かがいて、その狂人を「わたししか見ていない」と分かった時にだけ、それが実体ではなく幽霊、つまり幻だ、という見解に到る。

あの日貧民スーパーで、奇妙な動きをするオッサンを観ていたのは、おそらくわたしだけだった。そしてあの場には、貴金属を買い取る、わたしが反社だとキメウチしている男がいた。反社が無視し続けるから、わたしはドアが開かず奇妙な行動を繰り返すしかない哀れな男を、狂人ではなく幽霊だと、認識したのだ。

日が沈み、半額をつめたリュックを背負うわたしは、暗闇を早足で歩きイエに帰った。そして家人に、さっき見たことを話した。

家人は、幽霊に憧れながら幽霊を見たことがない、怪談好きの男である。わたしと一緒にいる時、彼が見ていない何かをわたしだけが見ていると分かると、「このオンナとつきあってよかった」という顔をする男である。家人がゴミクズであるわたしを見捨てないのは、彼が聞きたい実話怪談を話す「オモシロ案件だから」だ。

幽霊を見るゴミクズ=わたしに向かって彼は、毎回同じことを言う。
「なぜオマエには見えて、俺には見えないんだろう」

そんな男なので、6畳空間に閉じ込められたオッサンの話を聞くなり目をらんらんとさせ、「そのひと、まだいるかな? 見てくる!」とダッシュで出て行った。おい、こんな不安な時に、わたしを一人にしないでくれ。映画なら愛するオンナの頭をなぜ、ぎゅっとバックハグするシーンだぞ?

しかしハードコアなリアルとして、いて欲しいときに不在であり、頼むから出て行ってくれと切に願う時には居続けるというのが、夫婦関係というものだ。生活に色っぽさなどない。日常は愚鈍だ。真綿で絞め殺される地獄に飲み込まれそうになるので、アバンチュールは常に必要だが、モテない貧民であるわたしがそれを手に入れられるわけもなく、ゆえに生も性も地獄である。

キュリオシティ・キルド・ザ・キャット。「好奇心は猫をも殺す」という諺には続きがある。
Curiosity killed the cat, but satisfaction brought it back.
「妙な詮索はするな」
それは殺されないための警告だ。反社も幽霊も、詮索したあなたを殺す。

家人がでていって1時間ほどたった。何が何でも幽霊を観たいと願う不謹慎な彼は、詮索された幽霊に憎しみを向けられ、取り殺されたのではないか。貧民スーパーで死ぬとは、まったくもって安い命である。わたしは待っていた。彼からの連絡を。もしくはサツからの・・・。

しかし「見えない」やつに幽霊の心は通じなかったのか、彼は無事、帰ってきた。長いことかかったのは、ヤツも「ご意見カード回答」を全部読んで腹一杯にするハングリーでアングリーな穀潰しだからだ。彼はうなだれてこう言った。
「誰もいなかった・・・なぜオマエには見えて、俺には見えないんだろう」

わたしは今のところ無神論者なので、世の中のスピリチャル案件はすべて鼻でせせら笑うタイプである。よって、幽霊=死んだ人とは思っていない。死んだら終わりだ。永遠の虚無だろう。残存思念などないだろうし、故に虚像としてこの世にとどまれる可能性だってきっとない。リアルとはそうゆう、殺伐としたものなのだ。ではアナタの見たアレは何なのか? と問われた時、わたしは脳内で作り出した幻だと返す。

貧血とか、栄養不良とか、ストレスとか疲労とか。身体や精神に負荷がかかり、バランスが異常をきたすと、脳はバグるに違いない。わたしは虚弱で、ホルモンバランスだってズダボロで、生まれてから一度だって幸せなど感じたことがない。セロトニンがでにくい性質ゆえに、ドラッグなしに幻を観られる体質なのだろう。

キノコの影響下にないのに、幻をリアルに観てマジカル・ミステリー・ツアーに旅だってしまう自分は、おそらくキ⚫︎ガイだろう、という自覚をもって生きている。そうゆうわたしにとって、最も信用できないニンゲンは自分自身だ。

疑わしい語り手であるわたしは、「映画館」に行った時にだけ、深い安らぎを得てきた。なぜなら、映画館とゆう暗闇で、上映される映画という光は、「幻」だとあらかじめわかっているからだ。そこにいる観客たちは、わたしと共に同じ幻を観ている。

眼の前の人が事実として存在するのか、それとも幻なのか、いつも確信がなく不安に苛まれて生きるしかないわたしにとって、他者と「最高でしたね」あるいは「最低でしたね」と言い合い分かち合える幻が「存在する」ということは、何より心が安まることだ。幻をリアルに観る狂人でしかないわたしの発言が、狂人だとも思われないのは、映画館が幻を観せる場所で、そこにいる誰もが幻について語っているからだ。

しかし、映像作品という同じ幻について語り合う時、誰も同じ事を観ていないことに気づく。家人が幽霊を観るわたしに言う「なぜオマエには見えて、俺には見えないんだろう」という言葉は、わたしの映画の感想に対して他者が向けてくる言葉でもある。

それを聞く度に、現実社会でわたしが判定をくだした「リアルな狂人か、幽霊という幻か」についての見解が揺らぐ。

幽霊だと判断したあの人は、困り果てているニンゲンで、狂人であるが故に「関わってはいけない」存在とみなされ他者から無視され、いなかったことにされた存在なのではないか。奇妙なアクションをとるしかない、途方に暮れているニンゲンが、「事実として」存在したのではないか?

もしかしたら、わたしは脳がバグってるキ●ガイではなく、無視をきめこむ人情味のない奴らの脳にこそ、認知の問題があるのでは? ニンゲンを情報としてしか見ない奴らはもはやAIのように振る舞い、養分として搾取できない役立たずを情報処理として脳内で消し去っているのではなかろうか?

そうゆう疑念がわたしに取り憑き、はらいきれなくなる。映画を隅々まで観て感想を言うわたしに、観ることへの解像度が高いと言ってくれるなら、わたしは現実においても「困った人」を他人より頻繁に発見しているだけではないか?あるいは、ハングリーでアングリーな貧民ゆえに、自分に似たそうゆう人を、無視できないのではないか?

そんな風に考えた傲慢な快楽主義者は、生存確認電話をかけてくる「北海道立かしこいキッズしかいかない高校」出身の、3歳年下編集者にこう問いかけた。

「わたしは幽霊を観るんだよ、幻の強度というのはすごいもので、わたしにとっては幻が「事実」としか思えない。わたしはね、会ったことのある編集者のことばより、映画の台詞を信じているような、幻重視のニンゲンなんだ。現実より幻をたよりにし、幻に怯えて生きているんだ。ねえ、幻か事実か、どうやって判別できると思う? 幻とリアルのどっちに価値があるか、断言できる?」

高円寺の黒い要塞で働くゴルゴの舎弟は、いつも沈黙という弾丸でわたしを撃つ。いつどんな理由でブチぎれるかわからぬ、カタギとは思えん相手に殺されないために、彼は余計な詮索などしない。怒らせず憎まれず、しかしウソはつかず的確に自分の意思を伝えるために、難解な質問をすると沈黙が長引く。

しかしわたしだってバカではないので、北海道立~以下略賢い編集者に向けるのは難問しかない。ゆえにわたしは、静寂ばかりを聞くことになる。ジョン・ケージの4分33秒だ。「楽音と非楽音には違いがない」のだ。

ジョン・ケージはキノコ研究家でもあるから、貧民スーパーに「きのこの山」がないことにうなだれるだろうな、そんなどうでもいいことを考えていると、年下の男がやっと重い口を開いた。

「僕は・・・・・・どうでもいいんです、それが幻か、そうじゃないかは・・・どうでも・・・」

「どうでもいい」・・・なんとゆう、・・・なんと投げやりなことばだろう。さすがズブロッカをスキットルに入れ、ぐいぐい飲んでいた男だ。ほんとうにカイシャインなのか? いつも疑わしいこの男は、きのこの山だろうが、たけのこの里だろうが、うまけりゃどっちだっていいんだろう。厭、そういう話ではなかった。「どうでもいい」は、「幻と事実に価値の差はあるのか?」という哲学的な問いに対する回答だった。「たけのこの里」派であるわたしは返した。

「わたしもどうでもいいんだよ、だってそこを問い詰められたら、わたしは本当に壊れてしまうから」

編集者は幽霊を見たことがないらしい。しかし、幽霊話は好きらしい。「どうでもいい」とは、面白ければそれでいいという、始末に負えない論理である。

漫画家も編集者も、闇の中にだって光はあるということをいつも手探りで探し、幻を見えるかたちにしようと必死で労働する者たちだ。幻を信じなければやれないシゴトだし、あまりの小銭と長時間労働ゆえに、やってられるかボケカスと口汚く罵りたくなるシゴトでもある。映画もそうだ。あらゆるアートが「幻を信じ、それをなんとか掴みたいと願い、カタチにしていく」シゴトなのだ。

しかし映画も漫画も実体は幻なので、それに従事する奴らは全員まるごと詐話師のような存在である。わたしは、「センセイ」とはよばせぬ誠実さを持ち続け「貧民の狂人で詐話師の反社」だと罵られようとも地獄からの使者として、一番下から刃向かっていたい。

そういう悪女にとって、映画館で上映される映画は、事実としても比喩としても、わたしにとっては暗闇で輝く光だ。それは「現実」という真っ暗闇を、たったひとり漂流し溺れ続けるわたしに、「ここに陸地はある」と指し示す灯台のような存在だ。映画館の座席に沈む時、わたしのまわりにいる他者もまた、暗闇の大海で孤独に漂流する頼りない断片のようである。

映画に映っているのは、撮影した時点での役者や風景だ。オープニングからエンディングまで経過する時間は、永遠に「過去」であり続ける。止まってもいるのだ、役者たちは成長しないし、老化もしない。そうゆう意味では「死んだ人たち」と同じだ。

そうゆう「幽霊たち」をうっとりと見あげる観客たちは、あそこに俺がいる、わたしがいる、始末に負えない俺やわたしが、発光し輝いている、などと感情移入している。同じ闇の中でアップアップしながらも呼吸し、わたしと同じ幻をみる他者は、スクリーンに浮かぶ幽霊たちを「リアル」に感じ、涙し、怒り、笑い、憧れ、唇を噛みしめている。

わたしたちは皆、同じ方向を眺め、同じ光をみている。全員で見つめた先には、凄惨な暴力や愛や、数々のヤバいことが映っている。スマホ時代だ。家族だろうが恋人だろうが、みんな別々の画面を観て、孤独に陰謀論にまみれているさなか、映画館では未だに同じ画面を観るというアクションをとっているのだ。

それがどれほど勇気づけられることか、どれだけ言葉を尽くしても、表現することはできない。

なぜならわたしは、日々、自分の観ている世界を誰も見ていないと、孤独に打ち震えながら絶望して生きているからだ。わたしの前に幻はいつも、大変な強度をもって立ち上がってくる。幻はわたしの前で自立し、「事実として存在するもの」として襲いかかってくるからだ。

わたしが書く映画コラムは、わたしが観てきた幽霊の話だ。わたしが信じた幻の話で、わたしが誤読した世界である。

ここに綴るのは、わたしを励まし、恐れさせた、リアル以上にリアリティのある、わすれがたい幽霊たちの話である。

暗闇の中で感じた光。溺れるわたしにそこに陸地があることを知らせる灯台が、芸術である。このコラムも、わたしのマンガも、誰かを脅かす幽霊であると同時に、灯台であってほしいと願う。

わたしが見ている幻を、あなたは観ていない。わたしが見てきた幻の話を聞いて欲しい。これはわたしの、奇妙な体験談である。

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