#01 『007/ゴールデンアイ』マーティン・キャンベル 監督(前編)

【ジェームズ・ボンドみたいなバッドガール(前編)】

ジェームズ・ボンドは英国のスパイだ。国家のために命だって投げ出す、コードナンバー007だ。

『ゴールデンアイ』の登場人物、裏切り者の006は、007に向かってこう言う。「ジェームズ・ボンド、女王陛下の忠犬」

シリーズを通して、ボンドを支配する偉大なママ、エリザベス女王は常に映画の画面外にいて、姿は見えなかった。

2012年に開催された、ロンドンオリンピックのオープニングセレモニーの演出で、その定石は崩れた。ダニエル・クレイグ演じる6代目ジェームズ・ボンドが、エリザベス女王の部屋を訪れ、オリンピック会場まで女王を護衛する映像が突如流れたのだ。

女王とボンドを同じ画面内に立たせたのは、映画「トレインスポッティング」の監督として知られるダニー・ボイルだ。ロンドンオリンピックのオープニングセレモニーの芸術監督を務めていたのが、彼だった。

セレモニーで流れた映像はこうだ。バッキンガム宮殿を出た女王陛下とボンドは専用ヘリに乗り、オリンピック会場の上空で飛び降りる。ユニオンジャック柄のパラシュートが降りてくる。ここで映像はリアルに切り替わる。

「レディース&ジェントメン。女王陛下のおなりです。」
ハーマジェスティは、映像と同じお召し物でオリンピック会場に現れた。

女王陛下の部屋を訪れたジェームズ・ボンドをまず出迎えたのは、陛下が飼う2匹のコーギー犬だった。ロイヤル・コーギーは、エリザベス女王を象徴するものの一つである。そもそも農場で働く犬であるコーギーは、牛に踏まれても傷つかないように、生後数週間で人為的にしっぽを切られるのが常だ。その短いしっぽをフリフリして歩く、かわゆいワンちゃんとともに、ボンドはいた。

ダニー・ボイルは「ボンドは女王所有のコーギー犬だ、殺人を労働とする男は、決して傷つかないよう矯正された、牧羊犬のごとき兵士なのだ。」ということを、絵作りとしてあからさまに見せつけた。世界中の人たちの視線を集める平和の祭典・オリンピックで「ボンドは権力の犬ですけど何か?」をまき散らしたのだ。

ボンドを嘲笑う労働者階級的な目線があまりに痛快で、わたしは爆笑した。パンクロック的な皮肉に満ちているからだ。

『トレインスポッティング』には、007おたくのシックボーイという男がでてくる。あのヘロイン中毒男が、ボンドを罵りながら愛憎し身もだえる声が、響いてくるようだった。オープニングセレモニーの最中には「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」とがなりたてるジョニー・ロットンのダミ声も、ジョー・ストラマーの「ロンドン・コーリング」という鈍い声もサンプリングされていた。わたしの脳はクラッシュした。パンクロック万歳。

女王陛下の犬ことジェームズ・ボンドが活躍する「ダブルオーセブン」シリーズで、描かれてきたのは男の組織、男の都合だった。客も男が想定されているから、男の好きなものばかりでてくる。007は「俺たちの」映画だ。

銃、マブいオンナ、かっこいい車、秘密兵器。戦闘服は高級スーツ。ゆえに革靴で走り回り、世界を股にかけて労働するジェームズ・ボンドは、昭和うまれの社畜男性や社畜予備軍男子の憧れであった。

国家に飼われた犬のごとき男の内面は、長い間描かれなかった。つらい苦しいさみしい死にたい誰か助けて、など口にも態度にも決して出さず、たたくのは軽口、洗練されたジョークだけ。痛みを酒ですべてを麻痺させるその男は、明らかにアルコールに依存している。

中身の見えないボンドの外見は、いつもピカピカだ。ルッキズムの頂点が運転するのは、秘密兵器満載のアストンマーティン、あるいは潜水艇に変身できるロータス・エスプリ、あるいはサンビームだのベントレイだの、イケてる高級車だ。時計はロレックスかオメガだ。質屋で高額買い取りされるやつだ。

頭脳明晰で運動神経抜群、すばらしい肉体に加え知性まで持ち合わせたジェームズ・ボンドは、皮肉やユーモアを駆使する軽快なプレイボーイで、場合によってはオンナの頬だってぴしゃりと打つ。ボンドは、男のかっこよさ=「男らしさ」の理想を体現する存在だった。

昭和の女児であったわたしは、死と官能を味わうエンタメである「007体験」を重ねる度に思っていた。

・・・映画にでてくるマブいオンナは、なぜいつもあんなにも、無惨に死なねばならんのか・・・

オンナがむごたらしく死ぬのだって、男の娯楽として提供する007は、暴力を振るう男が常にエレガントだ。

見た目パーフェクトなジェームズ・ボンドに、昭和うまれの社畜どもが感情移入できたのは、彼らもまたボンドのように、文字通り死ぬほど働いていたからである。反抗的な昭和の女児の隣で、ボンドに自己投影し画面を見つめていたのが、昭和20年生まれの企業戦士であるわたしの父だった。

父は、スーツにあう鞄などこの世には存在しないという理由で、財布を尻のポケットに入れ手ぶらでカイシャに行く男だった。ピカピカの革靴を履き、香水も大量にふるスタイル重視のボンドもどきは、カイシャでは営業事務のマネーペニーをからかい、イエではわたしをからかっていた。

家庭のないジェームズ・ボンドは殺し屋だが、家庭を顧みなかった昭和のサラリーマンとさほど変わらず、毎日「上」に踏まれ酒でやりすごす、わたしの父のような「俺たち」と同じ労働者でしかない。だからこそ「俺たちの」007たり得たのだ。

そんなボンドが属するのは、対外情報機関・MI6である。ジェームズ・ボンドに指令を出す上官Mは、MI6の部長だ。Mは、16作目までは男だった。原作小説でも映画内の設定でも、Mは壮年の男性指揮官と決まっていた。

男社会を煮詰めた暴力集団を描いてきたジェームズ・ボンドシリーズは、17作目、95年公開の『ゴールデンアイ』で画期的に変わった。男性目線オンリーの現場に、女性目線が入ったのだ。具体的には、何がどう変わったのか?

Mがオンナになったのだ。

女王陛下は依然として画面外にいる見えない存在だが、国家の犬の鎖を持つ「ママ」は可視化され、ボンドと同じ画面に存在し始める。『ゴールデンアイ』で5代目ボンドを演じたのは、ピアース・ブロスナンだ。彼は、見えないママと、見えるママに2重に踏まれて、肉体労働せねばならない。しかもボンドは孤児である。ママの愛を誰よりも欲する男だ。

公私混同を絶対悪とする厳格なMは、ジェームズ・ボンドをファーストネ―ムでは決して呼ばない。番号でよばれる男に人権などない。007という犬の鎖を握るMは、理不尽をミッションとして課すため、ボンドの敵として描かれてきた。そんなMを本作から演じるのは、イギリス演劇界の至宝、ジュディ・デンチだ。風格のある「大女優」である。

女性のMは、ルック重視の無能なマドンナではない。常に冷静沈着、的確な判断を容赦なく下せるスゴデキの仕事人として描かれた。インテリで、誰よりもタフ。勘に頼らぬ理論派だ。男より男らしく「男を演じられる」オンナは、男を死の地に送り込むことだって躊躇しないが、ダブルオー・エージェントに「生きて戻れ」と命令もする。

女性指揮官Mは、ジェームズ・ボンドにこう告げる。
「あなたは女性蔑視の太古の恐竜で冷戦の遺物」

昭和うまれの社畜の理想であった007に、冷たくはっきりと「女性への態度を変えよ」と女性が上官の立場で警告したのが『ゴールデンアイ』という作品である。

それは「冷戦も終わった世紀末だというのに、これ以上、女性を見下す態度をとるなら、ただじゃおかない」という、待ったなしのミッションだった。

ボンドを叱責するオンナは上官だけではない。Mの秘書、マネーペニーも反撃する。色っぽいドレスをからかわれ「そもそもあんたとナニしたことあったっけ?マジでそれ、セクハラなんだけど」とかます。

いつもボンドの軽々しい口説きを鮮やかにかわしつつ、ボンドが喜ぶことを言ってキャッキャウフフしていた、あのマネーペニーが。

なぜ007という「俺たち」映画の物語構造が、これほど劇的に「オンナ目線」に変わったのか。

Mにはモデルがいるとされる。それは、女性ではじめてMI5(英国秘密情報部)の長官を92年から96年まで務めたステラ・リミントンという人だ。1969年からMI5で働いた彼女は、国家転覆をはかろうとする陰謀や対テロ対策に当たってきた。91年にモスクワを訪問し、英国情報機関の旧敵であるKGBに、初めて友好的接触をもったとされるスゴ腕だ。その実績を買われ、長官に昇格したと言われている。

『ゴールデンアイ』は、95年当時の現実世界における女性の社会進出と、男性に劣らぬ活躍のリアルをうつしているのだ。

もう1点、語られるべき重要なポイントがある。
本作の製作陣・プロデューサーに、女性が入ったのだ。

007シリーズは1962年の第1作『ドクター・ノオ』から、アルバート・R・ブロッコリがプロデューサーを務めてきた。それ以降007シリーズ(番外編を除くイーオン・プロダクションズ製作)の25作品すべて、ブロッコリ一族のファミリービジネスであったことはよく知られているが、『ゴールデンアイ』では親から子世代へ、世代交代がおきた。

本作以降、プロデューサーは、アルバートの娘・バーバラと、義理の息子・マイケルになる。『ゴールデンアイ』公開の95年、バーバラは35歳だ。社会人経験を積んだ30代の女性は女性蔑視的な演出に対して、意義だって唱えることができる年齢だろう。彼女が制作陣に入ったことで、007に女性目線が入ったことはあきらかである。

様々な経緯や背景があり、『ゴールデンアイ』は映画制作の上でも、物語構造としても「女性上位」的に描かれた。

『ゴールデンアイ』に登場するボンドガールの名前にも、「女性上位」は表現される。ゼニア・オナトップ、適役の殺し屋「Onatopp」は「on a top」だ。彼女はボンドより少しでも「上」にたちたいという欲望の炎を燃やし、隙あらばボンドを踏みつけようとする悪女である。

「ボンドガール」という括りは、まるでボンド専用の喜び組のようなネーミングでもある。見事に個性的な分子1を、「ボンドガール」という全体にして顔を奪うなと言いたいが、よく考えれば、ジェームズ・ボンドだって、コードネーム007でしかない。「個」であることを奪われている人生だ。

ジェームズ・ボンドは、24時間働けますかと聞かれ死ぬほど働く「昭和の俺たち」に「人として」憧れられているわけではなかったろう。ボンドは、アストンマーティンや高級スーツやロレックスと同価値の、スタイッシュなモノなのだ。彼は「労働する機械」で、それは「昭和の俺たち」だってそうなのだ。「人」を捨てて「男」を演じなければならない。

007シリーズ世界が描いてきたのは常に「戦場」だ。ゆえに男も女も、個である顔を奪われた優秀な兵士にすぎないという側面がある。ジェームズ・ボンドが決して傷つかないのは、模範的な兵士だからで、そういう戦場ではボンドガールだってモノのように死んでいく。007が模範的な兵士であることは、社畜もまた企業戦士たれと要求された時代を映している。

007シリーズで描かれる戦場は、現実を背景におきながら、悲劇ではなく喜劇であり、馬鹿馬鹿しいまでに景気がよく、ユメでありウソでありお祭りでありマンガであり、笑ってすませていいエンタメだった。ゆえに、疲れた労働者たちの娯楽たりえた。死と暴力が優雅に吹き荒れる戦場では、ジョークの切れ味だって冴えわたる。

男社会に生きてきた昭和生まれのリアルを戯画化してうつすと、ボンドは生き残り、ボンドガールは死ぬ。『ゴールデンアイ』に登場するボンドガールのひとり、ゼニア・オナトップもまた、死ぬ悪女であり、ボンド以上に内面の見えない兵士であった。

次回、女性目線が入った『ゴールデンアイ』という作品に登場した、ゼニア・オナトップとは、一体どんなボンドガールか? なぜ彼女は、ボンドの仇役であり、悪女なのか? そのエクストリームなキャラクター設定に、95年の時代の空気はどのように影響しているか、90年代に男女平等を描こうとすると、それはどんな描写になったか、について語る。

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