#01 『007/ゴールデンアイ』マーティン・キャンベル 監督(中編)
(日本公開 1995年)
【ジェームズ・ボンドみたいなバッドガール(中編)】
『ゴールデンアイ』の冒頭シーン。ボンドはダムの堤防からまっさかさまに飛び降りる。どん底の先は敵の秘密基地、ソ連の化学兵器工場のトイレの天井だ。ボンドの身体は、頭は下、足は上、逆さまだ。この映画は上下関係が反転した世界を描くのだ。オンナが上、男は下、女性上位の95年だ。
ボンドは潜入していた同僚の006と落ち合い、ミッションを遂げようとしている。006は言う。「物事の半分は運で決まる。もう半分は運命だ」
撃たれた仲間を残してひとり敵陣から脱出したボンドは、爆走するバイクで崖から降下し、墜落するセスナに飛びうつる。操縦桿をひきあげ、すんでのところで一命を取り止めた007は、そのまま空を飛んでいく。
落下に落下を重ね、アウェイのどん底で闘い浮上し生き残るジェームズ・ボンドの姿は、オワコン化していたシリーズをもう一度蘇生させた本作、『ゴールデンアイ』そのものだ。
95年の『ゴールデンアイ』は、冷戦終結後の世界情勢を、はじめてジェームズ・ボンドの物語に取り入れた作品だ。悪役のボンドガールの名はゼニア・オナトップ(ファムケ・ヤンセン)。黒髪、鮮やかな赤い口紅、スモーキーアイシャドウ、くっきりとした眉のオンナは、ボンドの元同僚、コードナンバー006率いる犯罪組織「ヤヌス」のメンバーである。
もともと旧ソ連空軍将校で戦闘機パイロットだった彼女が、今や犯罪組織の暗殺者なのは、91年にソ連が崩壊したからだ。運にも運命にも見放されているオンナの挫折は、描かれない。
オナトップはいわば、「敵陣にいるジェームズ・ボンドみたいな」キャラクターである。東側の組織で働いてきた美しい軍用犬のごとき彼女は、西側の諜報員である007とは鏡面のような存在。冷戦終結後の世界で、007が闘う敵は、闇堕ちした自分みたいな相手であり、それはオナトップでもあるわけだ。
暗殺者であるオナトップは、蟹挟みで敵の首を絞めて殺し、性的興奮まで得ようとする、シゴトが快楽というニンゲンである。美しい太ももで男を締め上げ殺すのは、世界征服のためだ。
彼女のシゴトとは暴力であり、暴力とはセックスであり、セックスによって男のいのちまで奪うことが、目的とする世界征服への道なのだ。欲望に忠実なニンゲンは、わかりやすくて実に清々しい。
そんなオナトップにとっては、ジェームズ・ボンドこそがライバルである。なぜなら、彼女が得意とするスキル・・・つまり運転、ギャンブル、殺戮、複数の相手とのセックスは、ジェームズ・ボンドの必殺技でもあるからだ。
オナトップ(Onatopp)は on a top だからこそ、運転でもギャンブルでも殺戮でもセックスでも、ありとあらゆる「男らしい」行為で、007を超えねばならない。
オナトップとボンドの最初の出会いは鮮烈だ。ヘアピンカーブだらけの山道で、ボンドが愛車のアストンマーティンを走らせていると、やおら、真っ赤なフェラーリが現れる。
不適な笑みを浮かべ、煽ってくるオナトップ。併走するアストンマーティンの車窓から、真っ白な歯をみせて彼女を見るボンド。フェラーリを爆走させながら、オナトップはサングラスをあげて彼の目を見る。高級車を爆走させる男女は、笑顔で殺し合うゲームをこれからやるのだ。お互いにお互いが獲物である。さあ、狩りの始まりだ。
この二人にとって、山道でのカーチェイスは「ヤルかヤラレルか」のガチンコ勝負だ。それは、相手を先にイカせて自分もイクための、享楽的なセックスでもある。映画においては男の象徴である「車」のハンドルを握る、男より男らしいオナトップと、俺たちの理想の男ボンドは、いのちがけで自分のスキルの方が優れていることを証明しようとする。ボンドは涼しい顔で「レディーファ―スト」とかます。
カーチェイスで殺し合うオナトップにストッパーはないが、ボンドにはある。助手席にカタギのオンナを乗せているのだ。これ以上危険なゲームに巻き込むわけにはいかない。彼はオンナの言いつけを聞き、サイドブレーキをひいてライバルとの戦いをやめる。
太古の恐竜が「男らしさ」にブレーキをかけて抑制するのは、本作が007シリーズを「冷戦の遺物」から脱却させ、女性目線をいれてアップデートするというミッションを背負わされている物語だからだ。オンナの指示を聞かねばならないのが、95年のボンドだ。
「どう? 僕は女性の命令にも従順」
ボンドの口説き文句に、女性上位時代の幕開けが感じられる。
オナトップは、精一杯「男」をやるオンナだ。太い葉巻をくゆらせる彼女は、擬態であるからこそ、男よりずっと男らしい。
ボンドはいつ何時も、自分を振り回してくれそうなオンナを狙い撃ちし、抱こうとする男だから、オナトップがジェームズ・ボンドみたいなオンナなら、二人は出会う前から運命的に見つめ合っている。
しかしこの男女を使って描かねばならんのは、恋愛ではない、男女平等である。Mがボンドに言った言葉は、シリーズ全体への批判でもあるからだ。
「冷戦の遺物」であり「太古の恐竜」である「ジェームズ・ボンド」シリーズを、なんとしてでも刷新し蘇生しなければならないが故に、あらゆるシーンで冷戦時代をひきずる「オワコン」スパイにツッコミが入る。登場する女性キャラクターたちはみんな、「ボンドと同等である」というメッセージを体現するよう設計されている。
女性キャラは、全員シゴデキだ。アタマがよくて口もたつから、ボンドに厭味をかましまくる。生き延びるために全力でアクションもする。持てるスキルは全部全力で出し切るオンナたちだ。ボンドガールを見殺しにしてきた男など、赤の他人だから撃って良しと切り捨てる潔さも持っているし、裏切り者は許さずボコる。キスは待たない、取りに行く。
そういう物語世界では、仇役オナトップもまた「男女平等」を描くために、配置された悪なのだ。
90年代に男女平等を描こうとすると、男女は笑顔で罵り合い殺しあうしかなかった。なぜなら、男女平等を達成するために、男が「有害な男らしさ」を捨ててオンナの側に降りる、という時代ではまだないからだ。
オンナが男と同等になるためには、足がつるほど背伸びするしかないという時代において、「男らしさ」が有害であれば、オンナは「有害」だって「学習」し取り入れ、男と同等であろうとした。それが90年代だ。
酒を飲み、煙草をふかし、ギャンブルだってするし、下ネタだってへっちゃらだ。男にからかわれる前に男をからかい、性欲に突き動かされたらスキでない相手とでも寝る。弱い男たちが「男らしくしろ」と叱責され、有害な戦士に矯正されていくように、男と同等であるためにそうするオンナだっていた。
学校現場ではそこそこ平等でも、社会に出たら露骨な男女差がある。建前が通る世界と、殺し合ってでもカネを稼がねばならん本音の世界は違うのだ。本音の世界の男女関係は、「男VS擬態の男」でしかない。男と同様の暴力性をもつことを目指すのは、平等になりたかったオンナたちの努力ゆえである。
ボンドが賞賛されてきた要素をすべて持っている「かつてのジェームズ・ボンドのよう」なボンドガールはしかし、「悪」として描かれ、結局「冷戦の遺物」として葬られた。Mがジェームズに告げた死刑宣告「女性蔑視の太古の恐竜で冷戦の遺物みたいな男」を最も体現し、そう擬態しているのは、彼女だからだ。
オナトップは、上空にワイヤーで吊りあげられ木にひっかかり、まるで十字架にかけられたような姿で、ボンドを見下ろして死ぬ。地に足がついていない「ジェームズ・ボンドもどき」は、ジェームズ・ボンドによって磔の刑に処せられたのだ。彼は闇堕ちした自分、「on a top」の死体を見上げて、「太古の恐竜で冷戦の遺物」を見送った。
ジェームズ・ボンドが、画面外の偉大なるママ=女王陛下と、画面内のママ=上官Mの言いつけを守って殺したのは、「男らしい90年代のガール」であった。
On a top、女性上位の魅力が007という男社会で暴力的に花開いた90年代は、「ガールパワー」の風が吹いていた。
「ガールパワー」は、90年代初頭、アメリカの地方都市オリンピアのパンクバンド、ビキニ・キルが流行らせた言葉だ。それは、独立独歩のオンナノコたちの姿勢をエンパワーメントし、連帯を促す言葉である。ビキニ・キルが牽引した、ライオット・ガール(Riot Grrrl)とよばれたカルチャー・ムーブメントは、パンクシーンにおけるフェミニズム運動でもあった。
その「ガールパワー」が一般に広く消費されたのは、94年に英国で結成された女性アイドルグループ「スパイス・ガールズ」が宣伝文句として使ったからである。
90年代の「ガールパワー」が体現していた態度とは、オンナだって性にも生にも冒険的にとりくむ、フィジカル重視の武闘派であっていいというメッセージだった。自立し、男と真に対等に生きていきたいと切に願い、実践する主体的な女性たちは、男と同じようにギラギラ欲望をたぎらせ、メラメラ野心を燃やし、怒りは表現し、性的にも抑圧されないという姿勢を示した。オンナだって、男がやるようなことは全部やっていいはずだ。わたしたちだって解放的に自由に生きてやる。
「ガールパワー」という時代の追い風は、90年代の映画の女性キャラクター造形にも大きな影響を及ぼしている。90年代のヒロインたちは、身体的にも精神的にもやたらタフだ。性欲も強く描かれる。男以上に「有害な男らしさ」を持っているバッドガールだ。しかし見た目だけは、男らしくない。
ソトは雌、ナカは雄、それが90年代的なヒロイン像だ。90年代に女性の自由と解放を描くことは、男に擬態しながら、オンナであることも表現しなければならなかった。90年代のオンナたちは、いつ何時も「ガーリー」で、かつ雄々しくなければならない。
ゼニア・オナトップのような、エクストリームに暴力的な女性キャラクターが創造され、肯定的に容認された時代背景に「ガールパワー」がある。ゼニヤ・オナトップは「90年代的バッドガール」の戯画化である。
死の瞬間までバッドガールでいたいと願うわたしは、『ゴールデンアイ』を観る度に、オナトップだけに拍手を送り、今度こそ007に勝ってくれと祈り、その敗北と死を見つめてきた。世紀末のガールは運がない、ゆえに運命もドン詰まる。
90年代の男女間で繰り広げられていたのは、「男らしさ」と「男らしさ」の闘いであった。オンナたちは「男らしく」なることで「男」と同等になろうとあがいていたのだ。
高下駄を履いた男と裸足の女は、段差があるまま同等のライバルであるとみなされ、フィジカルを酷使して組み合うしかなかった。ハンディキャップを課して勝ちの確率を同等にするなどという考えは、90年代には皆無である。
ハンディキャップを認識せず、この世界で男女は平等だと信じていた90年代の女性キャラを今みると、その根性が半端ない。「昭和のかっこいい男、父親みたいなオンナたち」が立ち上がっている。
「俺たちの」と賞賛されるジェームズ・ボンドと同じ能力をもつ、男らしいOn a topが、結局悪として描かれ、殺されなければならなかったことこそ、90年代の男女平等の限界である。上司が女性になり、女性目線が入ったとはいえ、『ゴールデンアイ』はまだ、「女性上位」の戯画化にすぎなかったということか。
しかし、「俺たち」映画に女目線が入ったことで、男女がバディになれる可能性を007シリーズで実現させた最初の作品が、『ゴールデンアイ』であることには間違いない。
カルチャーがもつ現実へのカウンターという動力はいつも、現状においては「ウソ」であり「ユメ」である。「ユメ」の世界で女性のキャラクターがカウンターになりうる時、それを「悪」とみなし殺すのは、いつも現実にはびこるマチズモである。
「人生で選べたことなんてあったか?」
緊急事態宣言下、追いつめられたオンナの運命は…。
90年代に青春を送り、コロナ禍の〈今〉を生きる氷河期パンクスの「痛み」と「反抗」の物語。オルタナMANGA、ついに単行本化!
◾️編集長より「『彼岸花』の帯がお前たちに見えるか?」
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