#02『Pearl パール』タイ・ウェスト 監督(4)

【勃つ男がいないイエで、セックスシンボルになりたいオンナ(第4話/全5話)】

映画内の「鏡」は、単なる背景やインテリア、小道具ではない。幻に執着する視覚的ジャンキー=シネフィルにとって、幻の中の幻である鏡は、快楽成分を倍増させる麻薬的アイテムであり、強力な演出デバイスとして認識するものだ。本作で鏡は何を「反射」させるのか?

本作の観客が、主人公パール(ミア・ゴス)の顔をはじめてみるのは、鏡面だ。「イエ」という檻に幽閉されたパールは、鏡の中に「理想の自分」を見て、今こそ「越境したい」と願っている。テキサスの農家で生きる自分を受け入れられず「ここじゃないどこか」に行きたくてたまらないパールは、はみ出し者だから画面からはみだし、鏡の「枠」の中に閉じ込められてもいる。

初登場のシーンで鏡面から「反射」されているのは、誰にも「見られない」現実から逃亡したいと願い「見られる自分」に固執する、孤独な主人公の内面だ。しかもパールは「三面鏡」の前に座っている。鏡面の存在が二人いるからだ。

鏡面の存在・一人目は、本シリーズ1作目・3作目の主人公、マキシーンである。パールとマキシーンは同じ役者=ミア・ゴスが演じる。そっくりなふたりは、時代を超えたドッペルゲンガーだ。パールは社会が押しつけてくる「女らしさ」に抑圧され、ユメが叶わないオンナだが、マキシーンはユメを叶えるオンナである。

二人を鏡面として描くのは、「個」の欲望を最大限にして生きていきたいと願えど叶わず「全体」に閉じ込められたオンナと、「全体」からはみだして「個」として生きられた者の、残酷な対比を見せるためだ。

前作『X エックス』で観客がはじめて主人公・マキシーン(ミア・ゴス)の顔をみるのも、鏡の中だった。しかし鏡を見るマキシーンの姿は、画面からはみだしていなかった。彼女はパールと違って、時代がオンナに求める要請に添い寝できる女だからだ。マキシーンが鏡面に見ている「もうひとりの自分」は、本作パールでもある。イエという枠の中に閉じ込められ脱出できなかった、哀しいドッペルゲンガーだ。

パールと鏡像関係にある2人目の存在は、母である。イエに閉じ込められて労働し続ける母は、家父長制の代弁者であり、信仰するピューリタニズムの忠実な下僕だ。システムの奴隷であると同時に、システムを維持させるための忠実な兵士でもある母は、自身の境遇に涙しながら、しかし進んで「正しさ(=システム)」の犠牲になろうともし、娘をイエに縛り付けるために道徳を説く。

狂信的な母に支配され、「母と鏡面」のキャラクターが主人公のスラッシャー映画といえば、アルフレッド・ヒッチコック監督『サイコ』(1960)が思い浮かぶ。『Pearl パール』はスラッシャー映画の元祖である『サイコ』を引用しているのだ。

本作は、過去のスラッシャー映画を引用しながらステレオタイプを解体する、型破りなホラー映画である。ジャンプスケア(「びっくり」演出)で驚かせるタイプの映画ではない。この映画はシネフィル、タイ・ウェスト監督による「映画批評」であり、その批評軸とは「フェミニズム」である。

映画『サイコ』の殺人鬼である病んだ独身の男、ノーマン・ベイツは、母親を自己の中に取り込んでいる。女性に性的興奮を覚えると、自分の内なる母に拒絶されてしまう。母に捨てられたくないし、母を捨てたくもないノーマンは、女性を殺さなければならない。

ノーマン・ベイツに殺される女性マリオンは、仕事の昼休憩中に恋人とセックスするような、さばけたオンナだ。しかもマリオンは、カイシャのカネを「結婚」という我欲のために、横領するバッドガールである。彼女は、ノーマンが経営するベイツ・モーテルのシャワールームで、いたぶるように殺され、車ごと沼に沈められる。

スラッシャー映画の「性的に逸脱しているブロンドが、罰を与えられるかのごとく殺される」という犠牲者の典型は、マリオンにルーツを見いだせる。殺人鬼の「セックスできないキモい男」という典型も、『サイコ』がうみだしたものだ。初期のスラッシャー映画で切り裂く側は男で、オンナはいつも犠牲者だった。

パールは、ノーマン・ベイツのオンナ版である。夫が戦場にいて、セックスしていないパールはしかし、支配的な母親が許さないであろう「性的に逸脱している爆イケの映写技師」の男を、セックスしたうえで罰を与えるように殺す。

死体を車ごと池に沈めるのも、『サイコ』からの引用だ。パールが殺人を犯すのは、母の死後だ。内なる母に無意識のレベルで支配され、母の思想にそぐわない享楽的なニンゲンを衝動的にあやめる点は、ノーマン・ベイツとパールの共通点である。

『サイコ』の殺人鬼、ノーマン・ベイツは、鳥の剥製を創り飾る男だが、パールもガチョウを串刺しにしている。自分の夢想を中断させた口うるさいガチョウは、説教くさい母を想起させる存在だからだ。苛ついたパールは、衝動的にピッチフォーク(農具)で串刺しにする。鳥は自由と解放の象徴でもあるから、ガチョウ殺しは「実家から脱出できない」自身へ攻撃でもある。

パールとノーマン・ベイツとの共通点は、他にもある。「母のドレスを着る」ことだ。ノーマン・ベイツは内なる母と一体化し、「母になる」ためにドレスを着るが、パールは母とは違う人生を送るという抵抗のために、母のドレスを着て踊る。

母に抗うパールは、個の欲望だけを動力に生きたいと願うオンナだから、「ここじゃないどこか」を目指して、ダンサーのオーディションを受ける。

オーディション会場は教会だ。真っ赤な十字架が2本不気味に輝き、パールが立つ床には、テープで×印がつけられている。Xがトリプルに重なる絵作りがほのめかすのは、マキシーン(MaXXXine)の存在だ。パールと同じ役者が演じたマキシーンのアイコン(XXX)を使い、彼女の存在を亡霊のように画面に漂わせることで、「ユメが叶わない」パールの挫折を絵作りとしても強調していく。

「若くなく」「ブロンド」でもなく「アメリカ」的でもないパールは「未知のファクターXではない」と言われ、オーディションに落ちる。1918年のテキサスの農場には「未知のファクターX」すなわち、女性の自由と解放を説くフェミニズムはないから、パールのユメは叶わない。

パールの壊れた内面は、ロールシャッハ・テストのように左右対称に動く分割画面(スプリット・スクリーン)で表現される。「スプリット・スクリーン」といえば、まず名前があがるのがブライアン・デ・パルマ監督だ。一つの画面を二つに分け、異なる場所で起きている事象を同時に映し出し、逃げ場のないサスペンスを構築するその技法は、過剰がウリのデ・パルマらしさでもある。

なぜ本作では、ヒッチコックとデ・パルマをこんなにわかりやすく引用するのか。それは、本作が男目線で描かれてきたスラッシャー映画を「フェミニズムで見返す」映画だからであり、ヒッチコックもデ・パルマもフェミニズム側からの批判が常にある映画監督だからだ。

2021年、ニナ・メンケス監督の『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』が公開された。この映画は、映画界に根深く存在する「男性のまなざし(メイルゲイズ)」が、いかに我々の実生活に影響を及ぼしているかについて、有名監督の名作から2020年代の最新作まで大量の映画のクリップを用いて分析し、考察するドキュメンタリーである。カメラワーク、フレーミング、照明、クローズアップやスローモーションなど、特定の撮影技法がジェンダー間のパワーバランスをどのように構築してきたかを指摘する。

『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』で「メイルゲイズ」の代表的な監督として名指しされているのが、ヒッチコックだ。

ヒッチコックには、フェミニストの間で引用されまくる有名な発言がある。
「女を拷問しろ! 今の映画が抱える問題は、女を十分に拷問していないことだ」(※1)

観客を「のぞき見」の共犯者に仕立て上げることで、サスペンスと性的欲望を最大化することに成功したのが、ヒッチコックである。代表作、『裏窓』や『めまい』は、映画というものが本来「窃視(覗き趣味」であること構造として見せた。ヒッチコックがブロンド女性を「ウットリ眺められる」美しすぎる存在として描けば描くほど、「彼女」は男の狩りの獲物でしかない希薄な記号となってしまうのだ。

ヒッチコックが「見る/見られる」の関係で生み出したサスペンスを、さらに過激に表現し、より性的で、より残酷な作品として昇華したのが『殺しのドレス』や『ボディー・ダブル』で知られるブライアン・デ・パルマだ。『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』では、ヒッチコックの映像言語を継承し、デフォルメして強化した事例として、デ・パルマが紹介されている。

スラッシャー映画の元祖=ヒッチコックと、ヒッチコックをエクストリームに模倣するデ・パルマは、「メイルゲイズ(男のまなざし)」の槍玉にあがる代表的な巨匠だから、『Pearl パール』では引用されるのだ。『Pearl パール』は、映画産業の動力となってきたメイルゲイズの被害を、オンナの中にたちあがる加害を通し、「見える化」させるために、巨匠たちの作品を引用し、意味をかえて乗っ取っていく映画である。

「見る/見られる」の関係性は、フェミニズムが繰り返し問題にしてきたテーマである。視覚表現における「男性のまなざし」を、日々当たり前のように与えられることが、人々にどのような影響を与えるのか。数値化はできないし、証明も難しい。それは人々の無意識に与える効果だ。そもそもカメラを向けるということは、本質的に暴力であり、搾取的、支配的だということは、スーザン・ソンタグが著書『写真論』で鋭く指摘している。

『人びとを撮影するということは、彼らを自分では決して見ることがないふうに見ることによって、また自分では決してもつことのない知識を彼らについてもつことによって、彼らを犯すことである』(※1)

シネフィルであるタイ・ウェスト監督は、ヒッチコックやデ・パルマが培ってきた視覚言語を犯して、映画芸術にある男性中心主義的な支配構造を問いかける。フェミニズムが指摘してきた「男が見てオンナは見られる」関係性にある暴力的な枠組みを、「見られたい」と願うオンナを主人公にしたホラー映画で見せていく。

パールの姿で描かれる恐怖とは、他者にカメラを向けるという暴力性だ。このホラー映画が語るのは、「映画は人を殺す凶器である」ということなのだ。

パールは、映画館で第一次世界大戦のニュースリールを観た後、かかしをレイプする。パールが男を殺すのは、現存する最古のアメリカ産ハードコア・ポルノ(スタッグ・フィルム)『ア・フリー・ライド(A Free Ride)』を観せられた後だ。

ホラー映画には、犠牲者が殺される前に別のホラー映画(またはテレビ番組)を観ている、というお決まりの流れがある。

テレビの光だけが部屋を照らす暗い部屋で、後に犠牲者となる登場人物が無防備に映画の世界に没頭している状況を観客に事前にみせることで、これから起こる惨劇を予感させる典型的な演出だ。恐怖をたたきつける直前効果として効果的であるこの演出を、テレビのない1918年の本作では「映画館で映画を観ること」で代用させている。

しかし本作で「こわい映像」を観ているのは、犠牲者ではなく、加害者パールだ。「こわい映像」は「殺される=見られる」側の暗い予告編ではなく、「殺す=観る」側の未来がドン詰まる刃として置かれている。本作は、映画にあるメイルゲイズという暴力性を「反射」させる鏡でもあるのだ。

「こわい映像」にふれたことで、パールは「男のまなざし」に触れ、暴力に開眼する。被害者は加害者として立ち上がり、実際に殺人まで犯す。それが映画『Pearl パール』に描かれる恐怖である。

映画のなかで「見られ」「搾取されて」きた女性労働者たちの叫びを、一心に背負っているのがパールだ。しかもパールは男たちから「見られたい」オンナなのだ。彼女が憧れに届かず挫折し、過去の名作をなぞって切りつけていく様は、痛々しい。

映画産業にはびこる「男目線」を見返すため、ユメに届かない「見られたい」オンナを使って復讐させるという暗喩は伝わりづらく、見えにくい。しかしメイルゲイズが女性には刃としてつきささっていたことが、男たちには「見えていなかった」というリアルも、映しているとはいえないか。

映画『Pearl パール』の感想をググると「ホラー」として全然こわくない、というものを度々目にする。その度に、わたしの心は冷え冷えとしてくる。オンナたちが震え上がってきた労働現場における恐怖の正体が、誰にも見えていないなら、助けてもらえなくて当然だろう。

本作で、パールの厳格な母役を演じるタンディ・ライトは、前作『X エックス』でインティマシー・コーディネーターを務めていた人だ。インティマシー・コーディネーターとは、映画やドラマの撮影にある「濡れ場」で、俳優の安全を守り、かつ監督の演出を最大限かなえるために調整する労働者である。2017年の「#MeToo」運動を機に、欧米を中心に導入が義務化されたシゴトである。

『Pearl パール』で、タンディ・ライトは、厳格な母親として、メイルゲイズに感染した加害者の娘にこう言い放つ。「私は見ていた」「私をみくびらないで」

男が観客の大半というスラッシャー映画を愛し、長年見てきたオンナの観客であるわたしは、巨匠の作品にある「メイルゲイズ」に立ち向かい挑むタイ・ウェストの批評精神と反骨精神に、拍手をおくる。こんなにも、フェミニズムを使えるホラー監督は、今までいなかった!

巨匠たちをリスペクトしながら噛みつきもする、タイ・ウェストとミア・ゴスの反骨精神を全力で讃えたい。

※参考文献
『写真論 』スーザン・ソンタグ 著/近藤耕人 訳(晶文社)
(※1)同書24頁から引用

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