#02『Pearl パール』タイ・ウェスト 監督(5)

【勃つ男がいないイエで、セックスシンボルになりたいオンナ(第5話/全5話)】

1910年代、アメリカの都会を揺らしていたのはダンスの熱狂で、鳴っていた音楽はジャズだった。「ラグタイム」とよばれていた音楽は、1913年頃から紙面や会話で「ジャズ」とよばれはじめる。その言葉を広く普及させたのは、「オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(通称O.D.J.B)」という白人バンドだ。彼らが1917年に、ジャズ界で初の商業用レコードをリリースしたことをきっかけに、「ジャズ」ということばが一般化した。

ジャズは黒人の音楽だが、「黒」い音楽は「白」人がプレイしたから流通した。本作『Pearl パール』は、「O.D.J.B」がレコードをリリースした1年後、1918年が舞台の映画である。テキサスの農村で「ダンサーになりたい、ここではないどこかに行きたい」と願う主人公、パール(ミア・ゴス)のもとにも、珍奇で反道徳的な黒いリズムは届いたのだ。

真珠とは、貝が体内に入った異物から自分の身を守るために作り出す宝石であり、黒も白もある。パールはドイツ系の白人でありながら「黒」に憧れるイエの囚人である。

パールをイエに縛り付けようとする、厳格で禁欲的なピューリタンの母を怒らせるのは、常に娘の中に見え隠れする「黒さ」である。神聖と美徳と救いを追求する「白」にとって、「黒」は、俗悪で、悪徳で、呪いだから、「敵」である。白い側にとって黒とは、常に反逆と悪の象徴だ。だからいつの時代も、ワカモノたちを熱狂させ、大人たちを怒らせてきた。

トマス・ピンチョンの翻訳で知られる佐藤良明は、著書『底本 ラバーソウルの弾み方 ビートルズと僕らの文明』でこう綴っている。

『神聖/俗悪、美徳/悪徳、救い/呪い、天国/地獄・・・。対立二項が一〇〇パーセントの明確さで仕切られたピューリタンの観念世界は、現実社会のありかたにも色濃く影響を落としたはずだ。それを象徴するのが、白人/黒人の分離である。』(※1)

『アメリカのエンターテインメント産業と黒人差別のつながりは根深い。ピューリタンの神聖からすれば、歌舞に享楽を求めること自体が黒い(罪に汚れた)行いだったわけで、そうした深層の隠喩的な暗がりまで考えようとすると、アメリカのポピュラーカルチャーに執拗にからんでくる〈黒〉の問題は、理屈で解き明かせるほど単純なものではないことがみえてくる』(※2)

パールの母は「人間は本来罪深く、神の救いなしには何もしようがない」「誰が救われるかは神が事前に決めている」という信念をもつ「ピューリタン」である。聖書を信じ、神と個人の契約関係を重んじ、禁欲的に労働する。厳格な倫理観で自己を縛り付け、アルコールやギャンブルなどの娯楽を批判する頑なな思想は、パールの実家の重苦しいインテリアとして、視覚的に表されている。

そもそもピューリタンという人々は、17世紀に英国の宗教弾圧を逃れ、信仰の自由を求めて北アメリカへと移住した人々だ。ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる一団が、メイフラワー号でアメリカに渡り、プリマス植民地を築く。

この移民たちは、アメリカへの最初の入植者ではないが、アメリカ建国の理念に大きな影響を与えたのは間違いない。彼らの厳格な価値観と労働倫理は、アメリカを開拓する動力になり、社会の基盤を創りあげたからだ。勤勉に働き、規律を美徳とし、教育を重視するが故、世界で最も古い大学の一つであるハーバード大学は、ピューリタンたちによって設立された。アメリカの知の基盤は、ピューリタンによって固められたのである。

そのピューリタン的な「お上品さ」にまっこう刃向かったのが、1910年代のダンス熱だった。「ジャズ」は、「ナンセンス」や「セックス」の俗語でもあった。

本作でパールが不倫する相手、映写技師のハンサム男、ジョニーは「ダンサーになりたい」パールにこう言う。

「人生という映画はワン・テイクなんだ」
「若いうちに楽しまなきゃ、セカンド・チャンスはない」

このノリはもはやモダンジャズ、40年代以降の「ビバップ」のノリである。不規則なリズム、不協和音、即興で規則を踏み外すことをよしとするバップ的美意識を一言で表すと、「理性で踏みとどまらず走り去れ」である。「瞬間にすべてを賭けろ」である。そしてそれは、ほとんど博徒、ならず者の言い分だ。

しかし、即興性の高い「ビバップ」では「踊れない」のだ。「ビバップ」の精神を語るジョニーは何もかも速すぎる。「ダンサーになりたい」と願うパールに「夢を叶えろ」という男の美意識は、パールを決して踊らせたりしない。

しかし、そんなことにパールが気づくわけない。このならず者の言い分は、理性を重んじ、「働いて、祈って、耐える」ことだけを美徳とする、パールの母のようなピューリタンの信仰・・・生真面目な潔癖さとは相容れないからこそ、パールはこの男にすべてを賭ける。映写技師とは闇に光を投影し、幻を操るシゴトだ。ユメ見る夢子であるパールは、幻をコントロールできるジョニーに憧れ、自分を後押ししてくれる味方だと誤認し、彼にしがみつく。

ではなぜパールは、夢先案内人であるジョニーを殺したのか。彼は、イエから開放されたいと願うオンナの背を、押してくれる男じゃないのか。

残念ながら、イエから開放された先では、もっと搾取されるというのが、この時代の女性のリアルである。それはエンタメ産業の頂点、ハリウッドでも変わらない。パールは、映画業界で搾取されてきた女性労働者の「奪われた声」を聞き、復讐する役を担わされているキャラクターだから、ジョニーを殺す。ジョニーは、いかがわしさを肯定し、「映画業界でオンナを搾取して稼いできた白人の男」を象徴する存在として置かれたキャラクターだから、「イイヤツ」であろうと何だろうと殺される。

本作で、「声をあげられなかった女性労働者」の象徴として登場するのは、パールが見てしまったポルノ映画に映っている女性たちと、パールが憧れている実在の女優「セダ・バラ」である。

パールが観たハードコア・ポルノは実在する。それはサイレント期の1915年に撮られた『ア・フリー・ライド(A Free Ride)』という作品だ。アメリカ最古のポルノ映画の一本と言われ、すでにパブリックドメインとなっているので、ウィキペディアで誰でも見られる。

ただの「覗き見趣味」みたいな『ア・フリー・ライド』の監督名は「ア・ワイズ・ガイズ(A Wise Guys)」とクレジットされている。
ワイズ・ガイズとは、「マフィアの構成員」「犯罪組織の仲間」を指す言葉だ。タイトルが「タダ乗り」であることからもわかるように、大変にいかがわしいブツである。

それをジョニーは「映画の未来」としてパールに見せ、こんな映画に出られるよ、と言う。パールが希望を見いだしたジョニーもまた、眼の前のオンナを搾取しても気がとがめない、「いかがわしい」男=ワイズガイまがいである。

パールは「死体処理係」として連帯するワニに、「セダ」という名前をつけている。セダとは、サイレント期の映画スタア、セダ・バラ(Theda Bara)を指す。パールが心酔するこの女優がデビューしたのは1914年だから、パールのいる1918年のセダ・バラは、33歳だ。彼女は売れた頃にはすでに30歳近くになっていた。遅咲きのスターでもある。

いつの時代も「遅咲きデビュー」は、ユメに届かぬ者たちをときめかせる。「自分もいつか」というロールモデルがいることは、希望だからだ。若くないパールも、いつかは自分だってセダになれる、と憧れている。

セダ・バラもまた「声なき労働者」である。サイレント期の映画にしか出演しておらず、トーキー作品はない。パールが行く映画館の壁には、セダが出演した映画「クレオパトラ」のポスターが貼ってあるが、この映画のフィルムは焼失し残っていない。

声が記録されず、代表作も失われた女優=セダ・バラには、“The Vamp”というニックネームがある。“Vamp”とはすなわちヴァンパイア、意味が転じ、性的に男を取り殺す魅惑的な毒婦をあらわす言葉である。

映画初期にセックスシンボルだったセダ・バラは、露出度の高い衣装を着て、男を破滅させる役でなりあがった女優である。彼女が活躍したのは、暴力や性的表現を業界内で厳しく検閲したヘイズ・コード(1930年から1968年まで)より前だ。そんな時代の女優はプロフィールだって、スタジオが創ったでたらめだった。

本当は、オハイオ出身のユダヤ系なのに、映画スタジオは「フランス人とアラブ人との混血」とか「ピラミッドの麓で生まれた」など数々のウソでぬりかため、彼女を演出した。「“The Vamp”とよばれた毒婦は「メイルゲイズ(男性のまなざし)」によって創りこまれた幻なのだ。

セダ・バラを映写機で映すジョニーは、ゴロツキと手をつなぎ、幻を消費して稼ぐ「白い」側である。一方、セダ・バラや、『ア・フリー・ライド』に映る女性たちはサイレント期の映画業界で、声をあげられないまま労働し「黒い」側=毒婦にされた者たちだ。

「いかがわしさ」、それはいつの時代も「反権力」的である。正常と異常の間にラインをひくのが「権力」で、「いかがわしさ」とは、いつも正常からはみ出した部分に漂う要素だからだ。

幻を映す者たちは常に、反権力的な自由人、ジョニーのような男たちだった。映画業界、音楽業界、マンガ業界、エトセトラ。ありとあらゆる幻生産者たちは、みんなどこかに「いかがわしさ」を漂わせる。「理性で踏みとどまらず走り去る」のが幻とゆうもので、「走り去る瞬間である幻にすべてを賭ける」などとゆう生き方は、博徒的であるからだ。

ジョニーは白人男性だ。いくら「黒」と共闘し連帯しているようにもふるまったところで、食物連鎖のトップの「白」は「黒」を消費し、養分にして稼ぐ悪いヤツらである。

ジョニーのようなアメリカの白人たちが、黒人の音楽にある「身体性」を、簡単にポルノとも紐付けるのも、アメリカの開拓を支えたピューリタン的な禁欲スピリットに対する裏返しにすぎない。彼は親世代の「白」たちが選び取ってきた禁欲的で厳格な生き方に「反抗(カウンター)」するために「黒」の側に立つ。それは「全体」のためではなく「個」として生きるためでもある。

ワイズ・ガイズ(ゴロツキ)とだって手を組むジョニーに「あくどさ」が見えないのは、自由に生きていきたいという信念を守ろうとする「ひたむきさ」が見えるからだ。ひたむきに性を解放し、ひたむきに酒やドラッグ、音楽やダンスに溺れ、ただひたすら、ひたむきに快楽を追求するワカモノの、「反権力」的に生きようとする生真面目さは、憎んでいる親たちから受け継いだ態度である。

なぜなら彼らの先祖たちは、反権力的だったからこそ、新大陸へわたり、アメリカを開拓した民だからだ。パールの「享楽に生きたい」と願う頑なな一途さは、享楽的な生き方を拒絶する母親を支えてきた開拓精神とも同じである。目的地は違うが、「いい加減」という余裕がまるでない、まっすぐな態度は同じだから、ふたりは鏡面の存在なのだ。

パールは、いかがわしい男たちに搾取されてきた女性労働者たちを代表し、復讐のために農具でジョニーを殺す。それは1918年という時代が女性に強いる労苦を映してもいる。

1918年のアメリカの女性には、選挙権すらなかった。パールが「田舎者だけどわたしはバカじゃない」と自認したところで、彼女は男たちより圧倒的に弱い立場だ。だからパールはユメに届かないし、たとえハリウッドを頂点とするエンタメ産業で働けたとしても、「ワイズ・ガイズ」に搾取されるだけである。芸事で才能を爆発させてやろうなんて野心のあるオンナにとっては、ユメも希望もないのがこの時代なのだ。

しかし世界は変わっていく。ピューリタンの伝統を揺るがしてきた「黒い」欲望は、カウンターカルチャーを経て爆発的に花開く。60年後マキシーンという名前のオンナが、マンゴ・ジェリーの「イン・ザ・サマータイム」を鳴らす車に乗って、この農場にやってくる。

『天気のいい日は気になる女を誘い出せ
〝人生を楽しめ〟が俺たちの哲学』

理性で踏みとどまらず、瞬間にすべてを賭け、幻を信じる「いかがわしい」奴らは、ポルノ映画で成り上がろうとユメを抱いてテキサスの農場にやってくる。そこにはユメに破れたパールがいるとも知らずに。

パールは「映画館」で、夫は「戦場」で。ふたりとも「イエ」から解放されたいと逃亡した先で、殺人の目撃者となり殺人鬼になった。そういう夫婦は、後ろめたい黒を抱え込んだまま、死ぬまで離れなかった。欠落ゆえに結着し、「無害な田舎の人」という仮面をかぶって生き、日常という蟻地獄を永遠に落ち続けた。

本作は、親とは違う人生を、親たちと同じ生真面目さでもって追求し、「黒」に憧れ挫折した、白い子どもたちの話である。個に憧れ、全体の顔でしか生きられなかった、ワカモノたちの話である。

※参考文献
『底本 ラバーソウルの弾み方 ビートルズと僕らの文明』佐藤良明 著(岩波現代文庫)
(※1)同書102頁から引用
(※2)同書103頁から引用

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